弁護士とゴッドファーザー

弁護士とゴッドファーザー

月岛澪 · 連載中 · 327.7k 文字

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紹介

彼が浮気したその夜、私は涙を流さなかった。ただ、お酒に逃げただけ。
ウイスキーが喉を灼く。その時、彼が目に入った。
仕立ての良いスーツが広い肩幅を引き立て、その瞳の奥には人を威圧するほどの冷静さが宿っている。
気品を纏ったその肉体は、骨の髄まで溶かすような誘惑に満ちていた。
私は千鳥足で歩み寄り、身体の火照りを感じながら問いかけた。「……あなた、お相手してくれる?」
彼は口元をわずかに吊り上げた。「君のことは知っているよ」
私は彼の膝の上に腰掛けた。シガーの煙と濃厚なコロンの香りが私を幾重にも包み込む。
指先で彼の顎に触れ、そのまま腰元の冷たい金属のアクセサリーへと滑らせた。
その瞬間、彼は私を強く抱き寄せた。その身体は重厚で力強く、逃げることなど許さない。
重ねられた彼の唇は重く、熱く、深く、拒絶を許さないほどの独占欲を孕んでいた。
口づけを交わすたびに呼吸を奪われ、触れられるたびに、私はどうしようもなく彼に寄り添ってしまう。
彼に横抱きにされてバーを後にする頃には、私の頭はすっかり朦朧としていて、心の奥でさらなる温もりを求めていた。
彼のベッドの上で、彼は熱烈でありながらも理性を保ち、何度も私を絶頂へと導き、すべての理性を狂わせていく。
翌朝、目が覚めると、私は彼のベッドのシーツにくるまれていた。肌には彼が残した痕跡がいくつも刻まれている。
夜が明ける前に、私は逃げるようにその場を去った。この一夜は、元カレへのあてつけの、ただの荒唐無稽な過ちだと言い聞かせて。
けれど、彼と過ごしたあの夜の時点で、私の運命はすでに決まっていたのだ――。
私を芯から熱くさせたあの男は、私の想像を遥かに超えるほど、危険な存在だった。

チャプター 1

松崎莉緒POV

葛城研二の浮気を目撃したその日、私は丹念に選んだ三周年のプレゼントを提げて、マンションへ戻った。

床には男物と女物の服が、あちこちに散らばっている。ベッドの上では、裸の男女が絡み合うように、ぴたりと貼り付いていた。

葛城研二は私に気づくと、慌てて起き上がり、服をかき集め始める。隣の女は怯えた小動物みたいに、弱々しく彼の背後へ隠れた。

知っている女だった。村上朱里。葛城研二の秘書。大学を出たばかりの、青さと無垢がそのまま匂い立つような女。

その瞬間、世界が崩れ落ちた。指先が勝手に震える。

「……どうして?」

怒りを噛み殺し、掠れた声で問いかける。

「理由なんてない。もうお前を愛してない。俺が愛してるのは朱里だ」

葛城研二は、氷みたいに冷めた声で言い切った。

「今まで俺は愛なんて分かってなかった。朱里に出会って初めて、心が動くってこういうことなんだって知った」

「受け入れ難いのは分かる。でも恋愛なんて、理屈じゃない」

朱里を見る彼の目は、光を孕んでいる。恋に落ちたばかりの若造みたいに。

一言一言が刃だった。私の皮膚を、肉を、容赦なく削いでいく。

私は麻痺したように彼を見つめ、彼が別の女を情熱たっぷりに讃えるのをただ聞いた。脳が数秒止まり、それでも最後に零れたのは、苦笑いだった。

――じゃあ、私たちの三年は何だったの?

心臓が細かい針で刺されるように痛む。深く息を吸い、涙だけはどうにか堪えた。

私はニューヨーク屈指の企業法務弁護士だ。難事件をいくつも勝ってきた。なのに恋愛では、完膚なきまでに負けた。

「莉緒、俺たちは大人だ。自由と恋を追う権利が俺にはある。もちろん、お前には埋め合わせもする。条件は好きに言え」

葛城研二は胸を張ったまま、欠片ほどの後ろめたさも見せない。

私が頷きさえすれば、すべてを投げ打って理想の恋へ走っていく――そんな顔だった。

三年一緒にいた私は、彼の性格を知っている。決めたら、もう戻れない。

だからこれは相談じゃない。ただの通告。

目を閉じ、拳を握り締める。爪が掌に食い込んでも痛みは感じなかった。

心臓の暴れがようやく落ち着いてから、ゆっくりと目を開ける。

「……分かった。あなたたちを、祝福してあげる」

声は、驚くほど静かだった。

葛城研二がわずかに目を見開く。

きっと彼の想定では、私は泣いて縋りついて、取り乱して叫ぶはずだった。

この三年、私は彼にすべてを注いできた。文字通り、命まで。

三年前、彼は競合に拉致された。私は命を賭けて、貯金も資産も全部差し出し、身代金を払って彼を奪い返した。

だが犯人は土壇場で気が変わり、口封じに銃を向けた。

私は彼の前に立った。弾丸は肩を掠め、一生消えない傷を残した。

警察が踏み込んだとき、葛城研二は意識を失った私を抱き締めて泣き叫び、「目を覚ませ、俺はお前と結婚する」と言った。

私は命で愛を守ったつもりだった。

なのに待っていたのは、裏切りだった。

マンションを出ると、外は小雨。

私はスマホを取り出し、親友の玉子に電話をかけ、マンハッタンの地下バーで会う約束をした。

玉子が駆けつけた頃には、私はもう少し酔っていて、片手でカウンターに肘をつき、ウイスキーの氷をぼんやり眺めていた。

「何があったの?」

そう聞かれて、ようやく現実に戻る。

屈辱も、胸の痛みも、悔しさも、一気に喉元までせり上がった。

私はついに冷静の仮面を外し、玉子にしがみついて、声を上げて泣いた。

背中を撫でながら、玉子は私の途切れ途切れの説明を聞き終えると、怒りで頬を赤くした。

「最低! あんなクズのどこがいいのよ。見なさい、この店、イケメンだらけじゃない。どいつもあいつよりマシ! 気になるのがいたら言って。奢る!」

私は顔を上げ、店内を見回した。ここは女性向けのバーで、艶やかに着飾った男たちが、花みたいに着飾った女たちを囲んでいる。

照明は暗く、葉巻とスパイスの匂いが混じった空気が、ほろ酔いの視界をさらに滲ませていった。

玉子の言う通りだ。葛城研二が自由を追うなら、私だって追っていい。

視線を当てもなく流し、最後にカウンターの端――暗がりの隅に一人で座る男に留まった。

黒いスーツが薄い灯りと溶け合い、周囲の喧騒だけが別世界みたいに浮いて見える。

指には葉巻。煙がゆらりと立ち昇り、角ばった横顔を霞ませた。

整った顔立ちは、息を呑むほど攻撃的に美しい。高い鼻筋が影を落とし、引き締まった顎の線が冷酷な弧を描いている。

全貌は見えなくても、骨の奥から滲む沈鬱さだけで、血が熱くなった。

接待で男性エスコートは何人も見てきた。けれど、ここまでの「当たり」は初めて。

「誰、気になった?」

玉子が私の視線を追い、次の瞬間、息を呑んだ。

「ちょっと待って、まさか……あの人? 誰か知ってる?」

「どうでもいい」

私は口角を上げ、ふらつきながら男のほうへ歩いた。

男は近づく気配に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向く。

視線が合った瞬間、心臓が半拍止まった。

――氷みたいな青。

空でも海でもない。極地の万年氷のような、冷たく鋭い、温度のない青。

見つめられた途端、魂を抜かれる気がした。

一瞬、引き返したくなる。

だがアルコールの刺激と、裏切られた屈辱が、私を踏み留まらせた。

「ねえ、相手してくれる?」

身を屈めて顔を寄せる。光が私の曲線を縁取った。

男は淡々と私を見て、唇の端だけで笑う。

「松崎莉緒弁護士。失恋の痛みから立ち直るの、早いな」

氷山の一角が溶けたみたいな笑顔が、余計に危険だった。

「……私、知ってるの?」

さっき泣きじゃくっていた姿を見られたと思うだけで、背中がむず痒い。

「もちろん。マンハッタンじゃ有名だ。君が店に入った瞬間、分かった」

男はウイスキーを一口含む。

エスコートも事前に下調べする時代なのか。そう思うと、妙に肩の力が抜けた。

私は距離を詰め、そのまま彼の膝に腰を下ろした。

「じゃあ……前から狙ってたってこと?」

「……君は」

低い声が、妙に艶っぽい。

一瞬で彼の身体が強張るのが分かった。ズボン越しの太腿は硬く、筋肉の輪郭がはっきりしている。コロンに葉巻の匂いが混じり、私を包む。強烈に、侵略的に。

私はいつもの品の良さを捨てた。指先を彼の首筋へ滑らせ、喉仏のかすかな動きをなぞり、最後に胸板へ。

シャツ越しに、沈んだ鼓動の強さが伝わってくる。

彼は無表情のまま、氷青の瞳の奥で暗流を渦巻かせていた。

沈黙に気を良くして、私はさらに手を下へ。

腰の脇で、ひやりとした金属に触れた。

一瞬固まり、それから笑う。

指先で輪郭を軽く叩いた。

「へえ。仕事に銃まで持ってくるんだ」

「松崎弁護士さん、見たことない?」

からかうような声。

「あるわよ。でも――あなたのは、ない」

私は彼の耳元へ口を寄せ、柔らかく囁いた。

「場所、変えない? ちゃんと見せて……その『銃』」

そのとき、指が彼の胸元の盛り上がり――紋章に触れた。形を確かめる間もなく、視界がぐるりと回る。

男が立ち上がった。私の腰を抱え上げ、群衆を割って店の裏口へ向かう。

周囲が怯えたようにこちらを見たが、誰一人として止められなかった。

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私が時価総額数十億ドルのファッション帝国を裏で支配していることも、ウォール街の株価をたった一回の取引で大暴落させられることも、誰も知らない。私はその正体を、この平凡で冴えない素顔の裏にすべて隠し持っていた。

さらに劇的なことに、私の実の親はこの街で頂点に君臨する最高峰の大富豪だった。

そして私の婚約者——すでに顔を合わせているにもかかわらず、その正体を知らなかったあの男こそ、この街の誰もが名前を聞くだけで震え上がる、ビジネス界の冷酷な死神:梅原晴琉だったのだ。

ある日、彼は私の手を執り、ゆっくりと距離を詰めると、耳元で低く囁いた。

「俺のこの鼓動、今なら感じられるか?」

私は至って真面目な顔で彼の胸に手を当て、大真面目にこう返した。

「心拍数は確かに少し高めですが、非常に健康的です。心配ありませんよ」

彼は一瞬呆気にとられ、それからふっと吹き出した。その瞬間の彼の笑顔に、私の心臓もなぜかドクンと跳ねた。それは、自分自身でも説明のつかない初めての衝動だった。

だが、彼が私の真実に一歩ずつ近づくにつれ……私の心は揺らぎ始めている。自分の最後の秘密を、あとどれくらい隠し通せるのだろうか。

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