紹介
ウイスキーが喉を灼く。その時、彼が目に入った。
仕立ての良いスーツが広い肩幅を引き立て、その瞳の奥には人を威圧するほどの冷静さが宿っている。
気品を纏ったその肉体は、骨の髄まで溶かすような誘惑に満ちていた。
私は千鳥足で歩み寄り、身体の火照りを感じながら問いかけた。「……あなた、お相手してくれる?」
彼は口元をわずかに吊り上げた。「君のことは知っているよ」
私は彼の膝の上に腰掛けた。シガーの煙と濃厚なコロンの香りが私を幾重にも包み込む。
指先で彼の顎に触れ、そのまま腰元の冷たい金属のアクセサリーへと滑らせた。
その瞬間、彼は私を強く抱き寄せた。その身体は重厚で力強く、逃げることなど許さない。
重ねられた彼の唇は重く、熱く、深く、拒絶を許さないほどの独占欲を孕んでいた。
口づけを交わすたびに呼吸を奪われ、触れられるたびに、私はどうしようもなく彼に寄り添ってしまう。
彼に横抱きにされてバーを後にする頃には、私の頭はすっかり朦朧としていて、心の奥でさらなる温もりを求めていた。
彼のベッドの上で、彼は熱烈でありながらも理性を保ち、何度も私を絶頂へと導き、すべての理性を狂わせていく。
翌朝、目が覚めると、私は彼のベッドのシーツにくるまれていた。肌には彼が残した痕跡がいくつも刻まれている。
夜が明ける前に、私は逃げるようにその場を去った。この一夜は、元カレへのあてつけの、ただの荒唐無稽な過ちだと言い聞かせて。
けれど、彼と過ごしたあの夜の時点で、私の運命はすでに決まっていたのだ――。
私を芯から熱くさせたあの男は、私の想像を遥かに超えるほど、危険な存在だった。
チャプター 1
松崎莉緒POV
葛城研二の浮気を目撃したその日、私は丹念に選んだ三周年のプレゼントを提げて、マンションへ戻った。
床には男物と女物の服が、あちこちに散らばっている。ベッドの上では、裸の男女が絡み合うように、ぴたりと貼り付いていた。
葛城研二は私に気づくと、慌てて起き上がり、服をかき集め始める。隣の女は怯えた小動物みたいに、弱々しく彼の背後へ隠れた。
知っている女だった。村上朱里。葛城研二の秘書。大学を出たばかりの、青さと無垢がそのまま匂い立つような女。
その瞬間、世界が崩れ落ちた。指先が勝手に震える。
「……どうして?」
怒りを噛み殺し、掠れた声で問いかける。
「理由なんてない。もうお前を愛してない。俺が愛してるのは朱里だ」
葛城研二は、氷みたいに冷めた声で言い切った。
「今まで俺は愛なんて分かってなかった。朱里に出会って初めて、心が動くってこういうことなんだって知った」
「受け入れ難いのは分かる。でも恋愛なんて、理屈じゃない」
朱里を見る彼の目は、光を孕んでいる。恋に落ちたばかりの若造みたいに。
一言一言が刃だった。私の皮膚を、肉を、容赦なく削いでいく。
私は麻痺したように彼を見つめ、彼が別の女を情熱たっぷりに讃えるのをただ聞いた。脳が数秒止まり、それでも最後に零れたのは、苦笑いだった。
――じゃあ、私たちの三年は何だったの?
心臓が細かい針で刺されるように痛む。深く息を吸い、涙だけはどうにか堪えた。
私はニューヨーク屈指の企業法務弁護士だ。難事件をいくつも勝ってきた。なのに恋愛では、完膚なきまでに負けた。
「莉緒、俺たちは大人だ。自由と恋を追う権利が俺にはある。もちろん、お前には埋め合わせもする。条件は好きに言え」
葛城研二は胸を張ったまま、欠片ほどの後ろめたさも見せない。
私が頷きさえすれば、すべてを投げ打って理想の恋へ走っていく――そんな顔だった。
三年一緒にいた私は、彼の性格を知っている。決めたら、もう戻れない。
だからこれは相談じゃない。ただの通告。
目を閉じ、拳を握り締める。爪が掌に食い込んでも痛みは感じなかった。
心臓の暴れがようやく落ち着いてから、ゆっくりと目を開ける。
「……分かった。あなたたちを、祝福してあげる」
声は、驚くほど静かだった。
葛城研二がわずかに目を見開く。
きっと彼の想定では、私は泣いて縋りついて、取り乱して叫ぶはずだった。
この三年、私は彼にすべてを注いできた。文字通り、命まで。
三年前、彼は競合に拉致された。私は命を賭けて、貯金も資産も全部差し出し、身代金を払って彼を奪い返した。
だが犯人は土壇場で気が変わり、口封じに銃を向けた。
私は彼の前に立った。弾丸は肩を掠め、一生消えない傷を残した。
警察が踏み込んだとき、葛城研二は意識を失った私を抱き締めて泣き叫び、「目を覚ませ、俺はお前と結婚する」と言った。
私は命で愛を守ったつもりだった。
なのに待っていたのは、裏切りだった。
マンションを出ると、外は小雨。
私はスマホを取り出し、親友の玉子に電話をかけ、マンハッタンの地下バーで会う約束をした。
玉子が駆けつけた頃には、私はもう少し酔っていて、片手でカウンターに肘をつき、ウイスキーの氷をぼんやり眺めていた。
「何があったの?」
そう聞かれて、ようやく現実に戻る。
屈辱も、胸の痛みも、悔しさも、一気に喉元までせり上がった。
私はついに冷静の仮面を外し、玉子にしがみついて、声を上げて泣いた。
背中を撫でながら、玉子は私の途切れ途切れの説明を聞き終えると、怒りで頬を赤くした。
「最低! あんなクズのどこがいいのよ。見なさい、この店、イケメンだらけじゃない。どいつもあいつよりマシ! 気になるのがいたら言って。奢る!」
私は顔を上げ、店内を見回した。ここは女性向けのバーで、艶やかに着飾った男たちが、花みたいに着飾った女たちを囲んでいる。
照明は暗く、葉巻とスパイスの匂いが混じった空気が、ほろ酔いの視界をさらに滲ませていった。
玉子の言う通りだ。葛城研二が自由を追うなら、私だって追っていい。
視線を当てもなく流し、最後にカウンターの端――暗がりの隅に一人で座る男に留まった。
黒いスーツが薄い灯りと溶け合い、周囲の喧騒だけが別世界みたいに浮いて見える。
指には葉巻。煙がゆらりと立ち昇り、角ばった横顔を霞ませた。
整った顔立ちは、息を呑むほど攻撃的に美しい。高い鼻筋が影を落とし、引き締まった顎の線が冷酷な弧を描いている。
全貌は見えなくても、骨の奥から滲む沈鬱さだけで、血が熱くなった。
接待で男性エスコートは何人も見てきた。けれど、ここまでの「当たり」は初めて。
「誰、気になった?」
玉子が私の視線を追い、次の瞬間、息を呑んだ。
「ちょっと待って、まさか……あの人? 誰か知ってる?」
「どうでもいい」
私は口角を上げ、ふらつきながら男のほうへ歩いた。
男は近づく気配に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向く。
視線が合った瞬間、心臓が半拍止まった。
――氷みたいな青。
空でも海でもない。極地の万年氷のような、冷たく鋭い、温度のない青。
見つめられた途端、魂を抜かれる気がした。
一瞬、引き返したくなる。
だがアルコールの刺激と、裏切られた屈辱が、私を踏み留まらせた。
「ねえ、相手してくれる?」
身を屈めて顔を寄せる。光が私の曲線を縁取った。
男は淡々と私を見て、唇の端だけで笑う。
「松崎莉緒弁護士。失恋の痛みから立ち直るの、早いな」
氷山の一角が溶けたみたいな笑顔が、余計に危険だった。
「……私、知ってるの?」
さっき泣きじゃくっていた姿を見られたと思うだけで、背中がむず痒い。
「もちろん。マンハッタンじゃ有名だ。君が店に入った瞬間、分かった」
男はウイスキーを一口含む。
エスコートも事前に下調べする時代なのか。そう思うと、妙に肩の力が抜けた。
私は距離を詰め、そのまま彼の膝に腰を下ろした。
「じゃあ……前から狙ってたってこと?」
「……君は」
低い声が、妙に艶っぽい。
一瞬で彼の身体が強張るのが分かった。ズボン越しの太腿は硬く、筋肉の輪郭がはっきりしている。コロンに葉巻の匂いが混じり、私を包む。強烈に、侵略的に。
私はいつもの品の良さを捨てた。指先を彼の首筋へ滑らせ、喉仏のかすかな動きをなぞり、最後に胸板へ。
シャツ越しに、沈んだ鼓動の強さが伝わってくる。
彼は無表情のまま、氷青の瞳の奥で暗流を渦巻かせていた。
沈黙に気を良くして、私はさらに手を下へ。
腰の脇で、ひやりとした金属に触れた。
一瞬固まり、それから笑う。
指先で輪郭を軽く叩いた。
「へえ。仕事に銃まで持ってくるんだ」
「松崎弁護士さん、見たことない?」
からかうような声。
「あるわよ。でも――あなたのは、ない」
私は彼の耳元へ口を寄せ、柔らかく囁いた。
「場所、変えない? ちゃんと見せて……その『銃』」
そのとき、指が彼の胸元の盛り上がり――紋章に触れた。形を確かめる間もなく、視界がぐるりと回る。
男が立ち上がった。私の腰を抱え上げ、群衆を割って店の裏口へ向かう。
周囲が怯えたようにこちらを見たが、誰一人として止められなかった。
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