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法律事務所へ戻ると、廊下のざわめきがいつもより一段と大きく感じられた。
なのに私の内側は、淀んだ水面みたいに静まり返っている。六条修介の言葉が、目に見えない枷となって、私をきつく縛りつけていた。
執務スペースへ足を踏み入れた途端、ジョーが早足で駆け寄ってくる。焦りがそのまま顔に出ていた。
「莉緒、村上朱里がまた来ました。葛城研二の弁護団まで連れて……ヴィクター・ファミリーの案件資料を引き取るって」
眉間が、ほんのわずかに寄る。
村上朱里の動きが早いというべきか。葛城研二の「可愛がり」が、なりふり構わない領域に入っているというべきか。
私は息を吸い、バッグをデスクに置く。ジャケットの裾を整え、感情を一滴も外へ漏らさないように押さえ込んだ。
「通して」
自分でも驚くほど凪いだ声だった。
ほどなくして、ジョーが扉を押し開ける。
村上朱里が、胸を張って入ってきた。背後にはスーツ姿の男が二人。片方は、ずしりと重そうな資料箱を抱えている。
今日の村上朱里は、わざとらしいほど「勝者」の装いだった。体にぴたりと合ったシャネルのスーツ。つややかな髪。完璧に作り込んだ口元の笑み。視線が私をなぞると、隠そうともせず軽蔑と挑発が混じる。
「莉緒さん。葛城社長の指示で、ヴィクター・ファミリーの案件資料一式を受け取りに来ました」
最初から交渉ではない。命令口調。わざと「葛城社長」を強く言うあたり、彼の名が盾になると信じているのだろう。
私は顔を上げ、彼女の背後の資料箱へ視線を落としたまま、すぐには答えない。
室内の空気がすうっと冷える。聞こえるのは、朱里のヒールが床を叩く乾いた音と、後ろの弁護士二人のわずかに硬い呼吸だけ。
「村上さん。お忘れですか。ヴィクター・ファミリーの件は、現時点で私が担当しています」
声は平坦に、けれど刃を研いだまま続ける。
「業界の手続き上、資料の引き継ぎには正式なプロセスと書面が必要です。あなたが連れてきた方々に、受領の権限は?」
村上朱里の笑みが一瞬ひきつった。しかしすぐに顎を上げ、傲慢さで塗り直す。
「莉緒さん、頑固すぎません? 葛城社長は、あなたがもううちの事務所のパートナーじゃないって言ってました。ならヴィクター・ファミリーの件も、当然うちが全面的に引き受けます。こんなふうに引き延ばしても、負け惜しみにしか見えませんよ」
背後の弁護士二人が目配せを交わす。朱里の物言いが露骨すぎると分かっている顔だ。だが、葛城研二の看板の前では黙るしかない。
私は小さく笑った。笑い声に体温はない。
椅子から立ち上がり、デスクの縁に両手をつく。視線をまっすぐ朱里へ突き刺した。
「私の職歴に『負け』はありません。葛城社長の判断そのものは尊重します。ただし、すべては規則と手続きの上で」
そして一歩、朱里へ距離を詰める。
彼女の背丈は私の肩あたり。少し見上げる形になり、ほんのわずかに呼吸が乱れたのが分かった。
私は上から覗き込むように告げる。
「ヴィクター・ファミリーの件は、あなたの想像よりずっと広く、深く、危険です。弁護士資格もない秘書が軽々しく触れれば、何が起きるか……分かっていますか?」
朱里の顔色が一瞬白む。だがすぐに意地で背筋を伸ばし、噛みつくように言い返した。
「資格があるかどうかは、葛城社長が決めます! 莉緒さん、今のあなたは葛城社長に捨てられた女でしょう。それなのに何を偉そうに、弁護士ぶって。知らないとでも? この前、女性専用バーで泥酔して、男にちょっかい出してたじゃない。葛城社長がいないと生きていけないんですか?」
言葉が、針の束みたいに胸の柔らかい部分へ刺さる。
爪が掌へ食い込み、ちくりと痛んだ。その痛みが、逆に私を現実へ引き戻す。
「村上さん、他人の私生活にずいぶん興味があるんですね」
声はさらに冷える。氷室からすくい上げた言葉を、一つずつ並べるように。
「残念ですが、私の私生活はあなたと無関係です。ただ、今の発言は職業倫理に反し、名誉毀損の疑いもあります」
私は朱里の背後の二人へ視線を移した。
「お二人は葛城研二法律事務所の弁護士ですよね。正式な授権と引き継ぎ書面がない状態で資料の提出を迫るのは、重大なコンプライアンス違反です。加えて、村上朱里さんは私に対し、明確な人格攻撃と名誉毀損を行いました。侵害行為への加担として、あなた方が責任を負う可能性もあります」
言い切ると、二人の顔がみるみる強張った。
相手は百戦錬磨の「業界の古狐」。ここで私と正面から揉め、しかも弱みを掴まれたまま突っ走るのが得策ではないと分かっている。
朱里が慌てて声を荒げる。
「な……何言ってるの! 私がいつ人格攻撃したっていうの!」
「そうですか」
私はデスクへ戻り、スマホを手に取る。その場で録音アプリを起動した。
「村上さん。先ほどの発言はすべて記録しました。葛城さんが、こういう手段で案件を引き取るつもりなら、私は喜んで相手になります。ただし――法的手続きに入った瞬間、あなたの言動は厳正に追及されます」
一拍置いて、朱里を見据える。
「ヴィクター・ファミリーの件は、あなたが遊べる類のものじゃない。葛城さんは、燃えた火箸をあなたに投げたんです。受け止められますか?」
朱里の顔色が、赤から白へ、白から青へと変わっていく。瞳の奥で、恐怖が小さく揺れた。
彼女は私を辱めに来ただけのつもりだったのだろう。だが私は、わざと逃げ道を塞いで、盤上を法の領域へ引き上げた。
「わ、私は……ただ……」
朱里は言葉を噛み、勢いを失う。
そのとき、背後の弁護士の一人がようやく口を開いた。
「松崎先生。本日は状況確認に伺っただけです。資料の引き継ぎは、正式な手続きで進めます」
「結構です」
私はスマホをしまい、温度のない平静へ戻る。まるでさっきまでの応酬が幻だったかのように。
「葛城さんへお伝えください。ヴィクター・ファミリーの案件は、正式な移管完了まで私が引き続き対応します。それまでは、誰にも介入する権限はありません」
最後に朱里へ視線を走らせる。警告だけを薄く載せて。
「村上さん。職場を私怨の戦場にしないことです。触れてはいけないものに手を伸ばせば――二度と抜けなくなる」
朱里は悔しそうに睨みつけたが、もう言葉は出ない。弁護士二人に挟まれるようにして、みじめに退出していった。
扉が閉まった瞬間、ジョーが大きく息を吐く。
「莉緒……大丈夫か?」
私は首を横に振り、椅子へ腰を落とした。怒りはまだ熱を残している。それでも、最低限の境界線は守れた。ほんの少しだけ、呼吸できる余白も作れた。
だが、分かっている。
村上朱里の挑発は始まりにすぎない。ヴィクター・ファミリーの案件と、六条修介という危険な男。その二つの巨大な氷塊が、私の目の前に横たわっている。
この先、何が来るのかは分からない。けれど弁護士としての本能が告げていた。今まで以上に、冷静に。今まで以上に、強く。
私は机上のヴィクター・ファミリーのファイルを手に取り、表紙を指先でなぞる。
六条修介は言った。この案件の闇は、私が思っているよりずっと深い、と。
彼は何を知っている?
そして私は、この渦の中で自分を守りながら、どう真実に辿り着けばいい?
