7

村上朱里を追い払った勝利の余韻は、長くは続かなかった。オフィスのドアが閉まった途端、全身から力が抜けて、私は椅子に崩れ落ちる。

窓の外は、もう夜の色が濃い。こめかみの奥がずきずきと脈打っていて、指で押さえながら帰宅を決めた。

法律事務所のビルを出ると、夜風がひやりと頬を撫でた。反射的にコートの前をかき合わせる。

車を出して流れに乗る。バックミラーにふと映った黒いセダン。最初は気にも留めなかった。けれど、角を二つ曲がっても――わざと遠回りしても――それは幽霊みたいに私の後ろへ貼りついてくる。距離は近すぎず、遠すぎず。完璧に、気味が悪いほどに。

背骨をなぞるように、冷たい視線が這い上がってきた。

心臓が勝手に早鐘を打つ。ハンドルを握る掌がじっとり濡れて、指先が冷える。

葛城研二の差し金? それとも……ヴィクター・ファミリー?

脳裏に、一瞬だけ六条修介の顔がよぎった。あの美しさと危険を同時にまとった横顔。

マンションの地下駐車場へ滑り込み、私はわざとエレベーター入口に近い区画へ停めた。

黒いセダンもゆっくり入ってくる。少し離れた影に収まり、エンジンは切らない。濃いスモークの窓で中は見えないのに、視線だけが――膜を突き破って私に刺さっている気がした。

平静を装ってバッグを掴み、車を降りる。コツ、コツ、とハイヒールがコンクリートを叩く音が、広い駐車場に不必要なくらい響く。その一音ごとに、胸の恐怖が膨らんだ。

足を速める。ほとんど駆けるようにエレベーターへ。

ボタンに指を伸ばした、その瞬間だった。

支柱の陰から黒い影が弾けるように飛び出し、私の腕を鷲掴みにした。もう片方の手にはナイフ。刃が白く光り、腰の脇へ冷たく押し当てられる。

「バッグ出せ! 声出すな!」

しゃがれた男声。鼻を突く酒臭さと、むき出しの欲。

血が凍りつく。頭が真っ白になった。

喉を恐怖に締め上げられ、悲鳴すら出ない。祖母みたいに、訳も分からず死ぬのか――そう思った瞬間、

びゅっ、と風が横を裂いた。

鈍い呻き。腕を掴む力が、いきなり消える。次の瞬間、男は誰かに蹴り飛ばされて床へ叩きつけられていた。ナイフも弾き飛び、ギィィ、と耳障りな音を立ててコンクリートを滑っていく。

息を呑んで顔を上げる。

黒いジャケットの男が、強い力で犯人の手首を踏みつけていた。ぐぎゃあ、と地獄の叫びのような悲鳴が駐車場に反響する。

無駄のない動き。氷みたいに冷えた目。感情の欠片もない。まるでゴミを片づけるみたいに淡々としている。

――この人。

私を尾けていた男だ。

男は手早く相手を制圧し、こちらへ向き直る。わずかに身を屈め、私の身体を視線でなぞるようにして怪我の有無を確かめた。

その瞬間。開いた襟元の下、鎖骨のあたりに――見覚えのある龍の刺青が覗いた。

案巻の写真で見たヴィクター家の紋章。昨夜、私が指先でなぞった六条修介の胸に刻まれていた図柄。まったく同じ。

「松崎さん、お怪我は?」

男の声は平板で、波ひとつ立たない。

答えられない。私はただ、鎖骨の刺青を凝視したまま、ぶるぶると震えた。

恐怖が、曖昧な疑いから実体へ変わる。氷の塊になって心臓を握りつぶしにくる。

男は私の視線に気づいたのか、何食わぬ顔で襟を引き上げ、印を隠した。

ポケットからスマホを取り出して誰かに連絡を入れる。内容は聞き取れない。ただ、彼が恭しく頷き、通話を切るのが見えた。

それきり、私を一度も振り返らない。床で呻く男の処理すらせず、黒いセダンへ向かう。エンジンが唸り、車はあっという間に駐車場を出ていった。

考える前に身体が動いた。私は自分の車へ飛び込み、エンジンをかける。

松崎莉緒。知りなさい。自分がいったい、どんな悪魔に触れたのか。

ライトを落とし、土地勘だけで距離を保つ。追いかける心臓は狂ったように跳ね、半分は恐怖、半分は真実への渇きだった。

黒いセダンが停まったのは、マンハッタンの最高級マンションの前。警備は厳重で、ニューヨークの本物の富豪と権力者が集まる場所。

私は通りの向かいの影に車を寄せ、息を殺して見守る。男が降り、明るいロビーへ吸い込まれていく。近づく勇気はない。ただ入口だけを、釘付けのように見つめた。

十数分後。

最上階、巨大な窓のある部屋のバルコニーに、赤い火がぽつりと灯った。葉巻の火だ。

すらりとした長身が現れる。黒いシルクのガウン。怠惰そうに手すりへ凭れ、指に葉巻を挟んだまま、夜の闇に赤を明滅させている。

そして、私を尾けていた男が、その背後に恭しく立ち、頭を垂れて何かを報告していた。

遠い。それでも、見間違えるはずがない。

六条修介。

彼は何かを感じ取ったのか、気だるげに顔を上げる。そして――こちらを、正確に射抜いた。

氷青の瞳。深夜でも刃の冴えを失わない、凍りついた圧。すべてを見透かすような、逃げ場のない視線。

心臓が止まる。私は反射的に俯き、ハンドルの陰へ身を隠した。全身が、冷え切っていく。

震える手でハンドバッグからスマホを取り出す。画面の光が、青白い自分の顔を照らした。

見慣れない番号。私は唇を噛みしめ、血の味が滲んでようやく少しだけ正気を取り戻す。

その番号を見つめたまま、指先に力を込めて――削除を押した。

『この連絡先を削除しますか?』

迷わず、はい。

あの夜は悪夢だった。そういうことにする。

今この瞬間から、六条修介も、ヴィクター・ファミリーも、すべて――私の世界から消えてもらう。

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