第4章
怜奈視点
琉生がそのページを見つめる視線が鋭くなり、眉間にしわが寄る。
心臓が止まりそうだった。
バレた。
その時、ドアを叩く激しい音が響いた。
「神崎様!」
有紀のアシスタントだ。明らかに動揺している。
「佐藤様が大変です! 階段で転倒されました!」
琉生が弾かれたように顔を上げる。
「医師の話では足首の骨折らしく、かなり錯乱されています。至急いらしてください!」
アシスタントの声が悲鳴のように裏返る。
琉生は慌ただしく最後のページに署名すると、書類を私に押し付け、更衣室を飛び出していった。
私は壁に背を預け、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。
震える手の中にある、署名済みの離婚届。
成功した。
ついに、自由になれたんだ。
それからの数日、琉生は人が変わったようになった。
「業績が好転した」とかこつけて、頻繁に大金を振り込んでくる。
怜央の病状を尋ねるメールも送ってきて、病院への付き添いまで申し出てきた。
何をしているのかは分かる――償い、だ。あのクルーザーで息子の病気を知って、良心が痛んだのだろう。
だが、遅すぎる。すべては手遅れだ。
金は受け取ったが、会いたいという要求は適当な理由をつけてすべて断った。別の都市の病院には連絡済みだ。近いうちに怜央の手術のために転院する。
離婚届はもう手元にある。彼とはもう一秒たりとも関わりたくない。
その午後、病室のドアが開いた。
琉生だった。手には洒落た弁当箱を持っている。彼はスマホに文字を打ち込み、画面を私に見せた。
「怜央の好きなハンバーグ弁当を買ってきた」
ベッドでアニメを見ていた怜央が音に気づいて振り返り、パッと目を輝かせた。
「パパ!」
琉生がベッドサイドへ歩み寄り、箱を差し出す。怜央は興奮気味に蓋を開けた。中にはお子様ランチ風のハンバーグ弁当とポテト、小さなおもちゃが入っている。
「パパ、僕ずっとこれ食べたかったんだ!」
怜央は目を細めて満面の笑みを浮かべる。
「でも、ママが高いからダメって……」
ハッとしたように口をつぐみ、私を盗み見る。
胸がナイフで抉られるようだった。
琉生は怜央を見つめ、その瞳に複雑な色を走らせる。スマホの画面を見せた。
「食べたいものは、パパが何でも買ってやる」
「本当に? じゃあ……」
怜央は少し考えて、おずおずと言った。
「下のお店のチョコケーキ! クマさんの絵が描いてあるやつ!」
琉生が頷き、踵を返そうとする。
「パパ!」
怜央が呼び止めた。
「一緒に行ってもいい? 買ってくれるところ見たいの」
息子が懇願するような目で私を見る。
万感の思いが込み上げた。琉生を憎んではいても、怜央から最後の父子の時間を奪うのは忍びない。
これが最後になるかもしれないのだから。
「いいわよ」私はついに許可を出した。「ちゃんとパパの手を繋いで、走ったりしないのよ」
怜央は嬉しそうにベッドから飛び降り、琉生の手を引いて出て行った。
私は荷造りを続けた。手術は一週間後。明日にはこの街を離れる。
しばらくすると、外は雨になっていた。
雨脚が強くなるのを見て、私は溜息をつき、傘を持って下へ降りた。
エレベーターのドアが開き、ロビーに出た瞬間、ガラス越しに外の光景が目に入った。
通りの向かい側、スイーツショップの前に琉生が立っている。手にはピンク色のケーキの箱。
こちら側の歩道には怜央がいて、興奮した様子で琉生に向かって手を振っている。
信号は、赤。
心臓が縮み上がった。
「怜央!」
ドアへ走る。
だが、遅かった。
パパの手にあるケーキを見て、怜央は興奮のあまり赤信号にも気づかず、車道へ飛び出してしまったのだ。
「パパ! パパ! クマさんが見えたよ!」
無邪気な笑顔で、小さな身体が走る。
「危ない!」
暴走した車がコーナーから飛び出し、クラクションを鳴らしながら突っ込んでくる。耳をつんざくような音が空気を引き裂いた。
琉生の表情が変わったのが見えた。
口が開き、喉が震える。叫ぼうとしている。
だが――その瞬間、彼は止まった。
唇を震わせながら、声を出さなかった。
躊躇ったのだ。
たった一秒。
怜央はまだ笑って走っている。パパが手招きしていると思っているのだ。
「いやぁぁぁっ!」
悲鳴を上げて飛び出した。
間一髪、横から飛び出した男性が怜央を突き飛ばす。
濡れたアスファルトに叩きつけられた怜央が悲鳴を上げた。身代わりになった男性は車にはねられ、地面に倒れ込む。雨水があっという間に鮮血で染まっていく。
「怜央! 怜央!」
駆け寄り、膝をついて息子を抱き起こす。腕を強く打ったようで、泣き叫んでいる。
顔を上げると、顔面蒼白の琉生が近寄ってくるところだった。
「何やってんのよ!」
私は激情に駆られて彼の頬を思い切り叩いた。
「なんで叫ばなかったの!? ただ突っ立って見てるだけって、どういうつもり!?」
琉生は雷に打たれたように硬直し、慌ててスマホを取り出して文字を打とうとする。
私はそれをひったくり、地面に叩きつけた。
「ふざけんじゃないわよ!」
雨に混じって涙が溢れ出した。
「一生そのままでいればいいわ、この役立たず!」
私は怜央を抱きかかえ、病院へと駆け戻った。
それから一週間、琉生は毎日病院に来た。だが、私は面会を拒絶し、怜央にも会わせなかった。
彼は何時間も病室の前に立ち尽くしていた。看護師がとりなそうとしても、「帰らせてください。顔も見たくありません」と突っぱねた。
彼は紙に文字を書いてドアの隙間から差し入れてきたが、私はすべて破り捨て、一枚も読むことはなかった。
八日目の朝、私は怜央に着替えをさせた。
「ママ、どこ行くの?」
ギプスで固定された腕を庇いながら、怜央が尋ねる。
「病気が治る街へ行くのよ」
靴紐を結んであげながら、優しく答える。
「パパは?」
私の手が止まった。
「怜央」
私はしゃがみ込み、彼の目を見つめた。
「パパは……嘘つきだったの。ママ、もうパパとはいたくないの。いい?」
怜央は私を見つめ、突然その小さな手で私の涙を拭ってくれた。
「ママ、泣かないで」彼は声を詰まらせた。「僕、ママがいればいいよ。パパは……僕たちがいらなくなったんでしょ?」
「違うわ、怜央」私は彼を強く抱きしめる。「ママが、いらなくなったの」
サイドテーブルに離婚届を残し、私は病室を最後に見渡してから、怜央の手を引いて出て行った。
琉生視点
八日目の早朝、私は大きなピンクの薔薇の花束と、怜央が好きな仮面ライダーの玩具を抱えて病院の廊下に立っていた。
この一週間、怜奈は会ってくれなかった。理解できる。彼女は怒っているのだ。
だが、今日は違う。
今日で、あの「賭け」は正式に終わった。やっと喋れる。
真実を話すんだ。この三年の苦しみ、そしてあの事故の時の躊躇いについて。叫びたくなかったわけじゃない。ただ……咄嗟に賭けのことが頭をよぎってしまっただけなんだ。
深呼吸をして、病室のドアを開ける。
「怜奈、俺は――」
言葉が喉に詰まった。
部屋には、誰もいない。
ベッドは綺麗に整えられ、カーテンが開け放たれた窓から差し込む陽光が、痛いほど眩しい。
サイドテーブルの上に、一通の書類が静かに置かれていた。
近づき、震える手でそれを拾い上げる。
離婚届。
私の署名の横に、彼女の署名がある。
そして最後のページに、彼女の字で一行だけ書き添えられていた。
「琉生、賭けには勝てた? おめでとう」
