彼がようやく口を開いた時、私はもう去った後だった

彼がようやく口を開いた時、私はもう去った後だった

大宮西幸 · 完結 · 25.6k 文字

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紹介

三年前の交通事故の後、夫の神崎琉生は失語症を患い、まる三年間、私に一言も話しかけなかった。

リハビリ費用を工面するため、私は同時に四つの仕事を掛け持ちし、疲労で吐血して倒れ、冬には息子と薄い布団一枚にくるまり、息子が熱を出しても薬を買う金がなく、一晩中冷水で体を冷やすしかなかった。

一方琉生は、冷淡にスマホで文字を打って私に指示するだけで、息子が求める抱擁には苛立たしげに手を振って拒絶した。

私は黙って耐えていた。なぜなら、彼をあの事故に遭わせたのは私だと、ずっと思い込んでいたから。

あの日まで――私は歌姫佐藤有紀のコンサート会場で搬入作業員として働いていた。ステージに謎の覆面ゲストが現れ、彼女と情熱的なデュエットを披露した。

あの声、あの肘の傷跡――三年間「失語症」だったはずの夫だった。

私はバックステージまで追いかけ、有紀の甘えた笑い声を耳にした。「おめでとう琉生、『啞者ゲーム』もうすぐ勝ちね」

三年間の献身は、彼と初恋の女との賭けに過ぎなかった。

チャプター 1

怜奈視点

「てめえ、もっと気をつけて運びやがれ!」

 現場監督の怒号が舞台裏に響いた。私は奥歯を噛み締め、手にした音響機材を落とさないよう必死に堪える。

「すみません、すみません……」

 私は何度も頭を下げ、腰を折り曲げて搬入作業を続けた。

 時計はすでに夜の十一時を回っている。腕は感覚がなくなるほど痺れているが、手を止めるわけにはいかない――金が必要なのだ。

 琉生の来月のリハビリ代に三万円、怜央の心臓の薬も切れかけているし、家賃だって……。

「見ろよあの女、いつも一番キツイ仕事ばっかり選んでらあ」

「旦那が事故で廃人になったらしいぜ。一人で家族養ってるんだとよ、必死になるわけだ」

 嘲笑が耳に届く。目頭が熱くなり、私はさらに作業のピッチを上げた。

 そう、必死にならなきゃいけない。

 三年前のあの事故以来、琉生は言葉を失った。あんなにプライドの高かった人が、今は再起不能のまま抜け殻のようになってしまったのだ。

 私が支えなければ、誰がこの家を守るというのか。

 ライブが始まった。

 舞台裏がようやく静まり返る。機材の山陰に隠れ、家から持ってきた小さなおにぎりを取り出すと、今日初めての食事を貪るように詰め込んだ。

「今夜はスペシャルゲストがいるらしいぞ!」スタッフたちが興奮気味に話している。「俺たちも知らされてないんだ!」

「有紀さんの特別な親友だってよ、超大物らしいぜ」

 有紀……その名に胸が締め付けられる。

 琉生の元カノにして、今をときめくトップシンガー。五年前に琉生は寂しげな目でこう言った。「彼女は夢を追ったんだ。応援するよ」。そうして彼は、どこにでもいる平凡な私と結婚した。

 ステージで燦然と輝く有紀を見つめ、ふさぎ込んでいる琉生を思うと、胸の奥が酸っぱくなる。

 私さえいなければ、彼もあんなふうに輝けていたはずなのに……。

 罪悪感という名の毒蛇が、じわりと心臓に巻き付く。

 深く息を吸い込む。あと二つ、仕事を掛け持ちしようと心に決める。もうすぐ彼の誕生日だ。

「今夜は、特別なゲストをお呼びしています」

 不意に響いた有紀の声が、一瞬の間を置いて艶めいたものに変わる。

「私の人生において、とても大切な人。今夜は二人で……ある愛の歌を」

 ファンの黄色い悲鳴が上がる。

 仮面をつけた人影がステージに現れた。スラリと伸びた背筋、滲み出る気品。顔を隠していても、その非凡さは隠しきれていない。

 イントロが流れ、まずは有紀が甘く切ない美声で歌い出す。

 そして――

「振り返ると いつも君が笑ってくれた……」

 ゲストが口を開いた。

 磁力を帯びたような、低く、完璧な――あの声。

 手からおにぎりが滑り落ちた。

 まさか。嘘だ。ありえない。

 私はステージを凝視した。心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。あの声は、琉生と瓜二つだった。いや、似ているなんてもんじゃない――あの人の声そのものだ。三年も経っているけれど、たとえ彼が言葉を失っていても、あの声を忘れるはずがない。

 だが、琉生は失語症のはずだ! 三年間、一言だって発していないのに!

 狂ったように首を振る。きっと疲れすぎて幻聴を聞いているのだ。けれど……。

 ステージ上のゲストがマイクを握り直そうと腕を上げた瞬間、スポットライトが袖口から覗いた白い傷跡を照らし出した。

 あの傷。

 三年前の事故で残った、右肘の外側にある稲妻のような傷跡。

 その瞬間、私の世界は音を立てて崩れ去った。

「嘘……」

 よろめきながら立ち上がり、背後の機材を倒しそうになる。

「何やってんだ!」現場監督が忌々しげに睨む。

 返事もせず、私は足をもつれさせながらステージの方へと走った。頭の中はぐちゃぐちゃで、ただ一つの思考だけが渦巻いている。ありえない、見間違いに決まっている。

 曲が終わり、雷鳴のような拍手が沸き起こる。仮面のゲストと有紀は抱擁を交わし、スタッフに囲まれて舞台を後にした。私はなりふり構わず後を追い、柱の陰に隠れながら彼らがVIPルームへ入っていくのを見届けた。

 ドアが少しだけ開いている。

 震える体を引きずって近づき、ドアの隙間から覗き込む。仮面の男が、その仮面を外した。

 琉生だ。

 間違いなく、琉生だった。

 その顔も、目鼻立ちも、肘の傷も――すべてが彼だ。

 両手を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。

「おめでとう、琉生」有紀の甘ったるい笑い声が聞こえた。「あなたの『口無しゲーム』も、もうすぐ終わりね」

 口無し……ゲーム?

「ああ、あと一ヶ月だ」琉生は軽薄な笑みを浮かべた。「正直な話、三年間もしゃべらないなんて、息が詰まって死ぬかと思ったよ」

 しゃべっている。彼が、しゃべっている!

「奥さんと子供と三年も口を利かないなんて、よくやるわね」有紀が感嘆の声を上げる。「あの女、あなたのために死に物狂いで働いてたじゃない。心が痛まなかったの?」

 短い沈黙。

「覚えてるか?」琉生の声には呆れたような響きがあった。「三年前に君が帰国して、俺が結婚して子供までいると知った時だ。君は俺が約束を裏切ったと言い放った。『離婚して私だけを愛していると証明するか、それとも……賭けに乗るか』と迫っただろう」

「それで乗ったわけ?」有紀がケラケラと笑う。「三年間声が出せないふりをして、事故の後遺症だと思い込ませて、治療費のために身を粉にして働くあの女を眺める。琉生、あなたって本当に残酷ね」

「有紀……」

「子供はどうなの?」と有紀がからかう。「あの子とも話してないんでしょう? 四歳の子供が、生まれてから一度も父親の声を聞いたことがないなんて」

「賭けが終われば普通に話すさ」琉生の口調はどこまでも淡々としていた。「たかが賭けだろ。別に大したことじゃない」

 体の震えが止まらない。

 三年。

 三年の汗、三年の涙、三年の献身――。

 それらすべてが、ただのくだらない賭けだったというのか。

「それにしても」また有紀の声がした。「あの交通事故の演技、迫真だったわね。運転手役はどこで見つけてきたの?」

 事故も……嘘……?

 脳裏に三年前の光景がフラッシュバックする――暴走車が私に向かって突っ込んできて、琉生が私を突き飛ばし、代わりにはねられたあの瞬間。目が覚めた彼が言葉を失っていた時のこと。医師が「脳の損傷によるもので、一生話せないかもしれない」と告げた時のこと。

「そうでもしなきゃ、あいつも信じないだろ?」琉生が笑った。「だが、あの演出のおかげで、この三年間あいつはずっと罪悪感に苛まれ、俺の言いなりだったよ」

 ドォン――。

 激しい目眩に襲われた。

 事故は嘘。失語症も嘘。

 三年間、私が耐え忍んできた罪悪感も、彼の冷淡な態度も――すべては演技だったのだ。

 私は……私はなんて馬鹿なんだろう。一つの嘘のために、三年もの人生を捧げてしまったなんて。

 どうやってそこを離れたのか、記憶が定かではない。

 午前二時。泥のように重い体を引きずって家のドアを開けた瞬間、ガラスのコップが顔めがけて飛んできた。

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——

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