第1章

スマホの画面が暗闇の中で微かに光り、私の疲れた顔を映し出す。

もう午前一時。プロジェクトの締め切りは目前に迫っているというのに、コードのデバッグ作業はまだ終わっていない。

親指が機械的にインスタグラムの画面をスワイプしていく。やがて、一枚の写真が私の動きを止めた。

それは東京湾のクルーザーの上に立つ男の写真だった。仕立ての良いスーツを身に纏い、横顔の輪郭とトレードマークの短髪だけが見える。

彼はシャンパングラスを掲げ、背景には東京の灯りがきらめく夜景が広がっていた。

「まさか……」

私はそう呟くと、すぐにアルバムを開き、幸広と私のツーショット写真を探し出して見比べる。

写真の中の彼は、ユニクロのベーシックなTシャツ姿で、温かく素朴な笑みを浮かべていた。

二枚の写真を何度も切り替えるうち、胸の内に一抹の不安が込み上げてくる。

少し躊躇った後、私は山田美月にメッセージを送った。

【夜分にごめん。この人、誰か知ってる?】

美月からの返信は、ほとんど即座に届いた。

【あんたが聞けるような人じゃないよ。何でそんなこと探ってんの】

【別に。ただ、私の彼氏にすごく似てる気がして】

【あんたのあの月給二十万のプログラマーの彼氏? 千絵子、あんた何の夢見てるの?】

美月の返信には、明らかな嘲りが滲んでいた。

【うちの旦那ですら、あの人の前じゃ一言も口利けないんだから。あんたの、渋谷のボロアパートに住んでるプログラマーの彼氏が、あんな人たちと関われるわけないでしょ】

「染宮グループ」という文字を目にして、私の心臓がどきりと跳ねた。

美月は続けてメッセージを送ってくる。

【あんた、あんなに綺麗なのに、何であんな普通の男に青春を無駄にしてるわけ?】

美月と私は同じ専門学校の卒業生だ。彼女は私のことをずっとライバル視していたが、卒業後、彼女があるグループの御曹司と結婚し、私が金のない貧乏プログラマーの染宮幸広と付き合い始めてから、その比較もようやく終わったのだった。

私は深呼吸をしてLINEを開き、幸広にメッセージを送った。

【出張どう?】

五分も経たないうちに、幸広から返信が来た。

【すごく忙しい。まだバグ直してる。今夜は遅くなるかも】

メッセージを見て、私は無理やり自分を落ち着かせた。

考えすぎだろう。そうよね、私のプログラマーの彼氏が染宮グループの御曹司なわけがない。

【お疲れ様。明日は幸広の好きなものお弁当に入れるね】

これ以上探るのはやめて、私はコードのデバッグ作業に戻った。

だが、思いがけずプロジェクトのインターフェースに深刻な問題が発生した。

これは重大なインシデントだ。すぐに野村組長に連絡を取らなければ。

野村組長が今夜、東京湾のクルーザークラブでクライアントと会っていると知り、私は書類をまとめ、東京湾クルーザークラブへと急いだ。

そこは東京のハイソな人々が集う社交場で、一般人は足を踏み入れることすら難しい。私は会社で一番フォーマルなスーツを着ていたが、それでも豪華絢爛なロビーでは場違いな存在に思えた。

受付で野村組長はVIPエリアにいると教えられる。

小走りで向かうと、個室のドアの前で、半開きになった扉の隙間から、出張中のはずの染宮幸広の姿が見えた。

「……あの佐藤千絵子って子、自分の貯金全額の千二百万円を下ろして、さらに親から八百万円借りて幸広の『個人AIアシスタントプロジェクト』に投資したらしいぞ……」

「幸広に金がないから結婚の話を切り出せないとでも思ってんのかね?」

「染宮の若様の庶民体験ごっこも、そろそろ限度ってもんだろ。あの子、わざわざUIデザインまで勉強して、外注費を浮かせてやろうとしてるんだぜ……」

私はその場で凍りついた。全身の血液が凝固していくようだ。

彼らは何を言っているの? 染宮の若様?

さらに私を驚かせたのは、野村組長が幸広の隣で恭しく立ち、彼を「染宮の若様」と呼んでいることだった。

普段、オフィスで彼に見せている厳しい上司の顔とはまるで違う。

私は柱の陰に隠れ、幸広の友人である高橋誠の声を聞いた。

「五年の庶民体験は、社会学の論文でも書くには十分だろ? そろそろこの『社会実験』も終わりにしたらどうだ」

幸広は何も言わず、手の中のシャンパンを揺らしている。

高橋誠は続けた。

「来週には財務省次官のお嬢さんとの婚約式なんだ。あの子とのこと、そろそろケリをつけないと」

「手切れ金として渋谷のマンションでもくれてやれば? 彼女、おまえに結構尽くしてたみたいだし」

その場に立ち尽くしたまま、私は世界がぐるぐると回るのを感じた。

この五年間の出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

表参道のラーメン屋での初デート。彼のために徹夜でインターフェースをデザインしたこと。毎日五時に起きてお弁当を作ったこと。

「社会実験」。

そう、ただの『社会実験』だったのだ。

骨の髄から冷気が染み渡り、東京湾の夜風さえも身を切るように冷たい。

冬の桜の木は、嘘の重みに耐えきれず、もう次の花季を期待することはないだろう。

私は黙ってクルーザークラブを後にした。東京湾のほとりに立ち、煌々と灯りのともるクルーザーを見つめながら、涙が音もなく頬を伝った。

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