第2章
藤井英介の元に身を寄せて六年目。
一つの予期せぬ出来事が、私の人生に舞い降りた。
子供を授かったこと——その奇跡は、私の生への情熱に火を灯してくれた。
十九歳の私は、父が遺した借金を返済するため故郷を離れ、金沢の老舗料亭で接客係として働いていた。
そこで初めて、藤井英介と出会ったのだ——彼は上座に座り、冷ややかな眼差しで周囲の人間を値踏みしていた。
その視線が私に落ちた瞬間、心臓が異常なほど激しく早鐘を打ったのを覚えている。
妊娠の事実は、丸二ヶ月間、藤井英介に隠し通した。
彼が想定外の事態を嫌うことは知っている。けれど、密かに産んで、たった一人で育ててでも、この子を残したいという私の我儘だった。誰にも知られなくてもいいから。
しかし、その全てはある接待の席で露見してしまった。
「葵、高橋社長にもう一杯注げ」
藤井英介が私に目配せする。
銚子を手にした途端、突然の吐き気に襲われた。私はそれを必死に堪え、高橋社長の盃を満たした。
「竹内さん、顔色が優れないようですが?」
高橋社長の連れの女性が、鋭く私の異変を察知した。その瞳には、何かを悟ったような色が浮かんでいた。
「大丈夫です。少し疲れが出ただけですから」
微笑んで取り繕ったが、藤井英介の視線が鋭く私を射抜いているのが肌で感じられた。
三度目に酒を注ぐ際、私の顔面が蒼白になると、藤井英介の眉間には深い皺が刻まれていた。
宴の後、彼は私医を呼び寄せた。妊娠が確定すると、彼は扉を閉ざし、怒りを爆発させた。
「見くびっていたよ、葵。大した度胸だ」
藤井英介の声は氷のように冷たい。
「俺の子を宿せば、身分が変わるとでも思ったか?」
私は弁解せず、ただ黙って彼を見つめ返した。
「一晩やる。それでも自分の立場を弁えないなら、出て行け!」
彼はそう吐き捨て、私を別荘から追い出した。
金沢に初雪が舞う夜。私は別荘の門前に立ち、僅かに膨らんだ下腹を撫でながら、目頭を熱くしていた。
寒風が吹き抜ける。けれど、寒くはなかった。
この子が、一緒にいてくれるから。
しかし翌日、藤井英介は古森を寄越し、私を私立病院へと連れて行かせた。
医師は告げた。胎児はすでに十二週。中絶手術は子宮頸管の裂傷を招く恐れがある、と。
「それに……」
医師は言い淀んだ。
「竹内様は特異体質です。術後、受胎の確率が極めて低くなる可能性があります」
私は藤井英介を見上げた。僅かでも心が揺らぐことを期待して。だが、彼は冷淡に言い放った。
「それが俺と何の関係がある?」
そうだ。
この人は、気になどしていないのだ。
その後の会合でのこと。
「英介、子供は産ませて海外にでもやればいい。そこまで非情になる必要があるのか?」
ある者が言った。
「あれだけ長く手元に置いていたんだ。情が湧かないとでも言うのか?」
別の者が問う。
「あの娘に執着しているように見えたがな。でなきゃ、これほど長く囲っておくまい」
「見てくれが良く、従順だから置いていただけだ」
藤井英介の声は冷ややかだった。
「俺の立場を忘れるな。あのような酌婦風情、愛人には適していても、俺の妻には相応しくない」
「やはり、水野月のせいか?」
誰かがその名を口にした瞬間、部屋の空気が数秒間凍りついた。
「彼女の名を出すな」
藤井英介の声が、危険な響きを帯びた。
「それとこれとは違う」
私は蒼白な顔でその場を去った。
そして直ちに病院へ向かい、妊娠を終わらせた。
終始、涙は流さなかった。ただ静かに手術台に横たわり、突き刺すような白い光を見つめていた。
——
赤ちゃん、今はまだ、その時じゃなかったの。本当に。
もう少しだけ、ママを待っていてね。
ママが全てを準備して、あなたが来るのを待っているから。
愛してる。
大量出血が起きるとは思っていなかった。
手術台の上で、命が流れ出していくのを感じる。意識は遠のき、世界の全てが遠ざかっていった。
集中治療室で数週間を過ごし、ようやく一命を取り留めた。
退院の日、藤井英介は役員会議をキャンセルして会いに来た。
彼は病床の脇に座り、いつもより柔らかな表情を見せた。
「葵、お前を娶ることはできない」
彼は私の目を直視した。
「藤井家には純血の継承者が必要だ。一族に紹介もできない隠し子など、認められない」
「分かっています」
私は従順に答えた。瞳の焦点は合っていない。
彼が好むのは、私のこの物分かりの良さと、従順さだ。
藤井英介は林檎を剥きながら、態度を和らげた。
「回復したら、鞄でも宝石でも好きなものを買いに行くといい。高ければ高いほどいいぞ」
彼の手が、優しく私の頬を撫でた。
「政略結婚が済めば、お前の将来もきちんとしてやる。葵、聞き分け良くな。悪いようにはしない、な?」
ええ。
あなたが私を冷遇しないことは知っている。
怒りも湧かなかった。
ただ、窓の外を吹き荒れる吹雪を眺めながら、ふと気付いたのだ。
私たちが出会ってから、これほどの歳月が流れてしまったのだと。
私は——外の世界を見てみたくなった。
