第1章
アイリス視点
かつて私は、ブラックウェル一族の裏社会において最も鋭い刃だった。彼のために手の血を洗い流し、彼の背後に隠れるただの女になることを選び、娘まで産んだ。
それが贖罪だと思っていた。けれど実際は、さらに深い地獄へ落ちていく始まりにすぎなかった。
三年前、港で起きた銃撃戦。彼の「高嶺の花」――初恋の女が、彼の隠し子を連れてその場に巻き込まれた。敵対する一族の銃口が、私たちの子どもたちへ同時に向けられた瞬間。彼は迷いなく、初恋の女の息子を守る選択をした。
私の娘は、轟音とともに灰と化した。
その瞬間、十年間愛した男は死んだ。
生きているのは、もはや不倶戴天の敵だけ。
私は二人のボディガードに押さえつけられ、埠頭のコンクリートに顔を伏せていた。生臭い潮風が襟元に流れ込み、膝は擦りむいて血が滲む。
少し離れた場所で防弾車が止まり、エイドリアンが降りてくる。黒いトレンチコート、指に挟んだ葉巻。冷たい横顔には、一片の温もりもなかった。
彼は私の前まで来ると、見下ろした。まるで、聞き分けのない囚人でも眺めるみたいに。
「半月も逃げ回って、わざわざそんなザマになりたかったのか?」
私は顔を上げ、嘲るように笑う。
「あなたから離れられるなら、死んだって痛快よ」
エイドリアンは葉巻を捨て、屈んで私の顎を掴み、無理やり目を合わせた。
「ルールを忘れたか。俺の縄張りで、俺の許可なしに誰も逃げられない。お前は一生、俺のものだ。生きても、死んでもな」
「ルール?」私は手を振り払った。「あなたのルールって、別の女の私生子のために、自分の娘を殺すことなの!」
禁忌の呪文みたいな一言が、周囲の空気を瞬時に凍りつかせた。エイドリアンの瞳が細まり、呼吸が一拍止まる。
「黙れ!」低く唸る。「あれは事故だ! あの場で先にあいつの息子を助けなきゃ、あいつは壊れてた! イーデンは俺の娘だ。俺だって痛かったに決まってるだろ!」
痛かった?
私は堪えきれず笑い、涙までこぼれた。
三年前のあの夜、誘拐犯がエヴリンを巻き込まなければ、私は十年もの間、彼が外に「もうひとつの家」を持っていたことさえ知らなかった。
隠し方が上手すぎた。枕を並べて眠る私ですら、気づけないほどに。
あの埠頭で私は地面に膝をつき、額が裂けるほど地面に頭を打ちつけた。
「お願い、イーデンを助けて! あなたの子なのよ!」
けれど彼の視線は、泣き崩れるエヴリンに釘づけだった。
「先にあの子を助けて! じゃないと私、あなたの目の前で死ぬ!」
エヴリンの悲鳴が、最後の一押しになった。
エイドリアンは選んだ。部下が飛び出し、隠し子を奪い返す。イーデンが縛られた車は蹴り落とされ、暗い海へ――その直後、耳を裂く爆発。
最後に見えたのは、炎に呑まれる直前のイーデンの茫然とした瞳。口を動かし、声にならない形で言った。
「ママ……」
「三年よ。イーデンが死んで、まだ三年」私はエイドリアンの耳元へ身を寄せ、一語ずつ噛みしめるように告げた。「どうしてあなたを憎まずにいられるの? 何で償うの。イーデンの命、返してよ」
エイドリアンは青ざめ、手を放して一歩退いた。だがすぐに冷酷な仮面を取り戻す。
「俺が悪かった。……もう罰は与えた。代償も払わせた」
そう言い聞かせるみたいに呟き、部下へ冷たく命じた。
「屋敷へ連れ戻せ」
私は乱暴にSUVへ押し込まれた。
屋敷に戻った頃には深夜だった。
全身傷だらけのまま部屋へ放り込まれ、すぐに意識が落ちた。
どれほど経ったのか。目を開けると、月光が水みたいに床へ滲んでいる。身体を引き起こした瞬間、階下から笑い声が聞こえた。
階段の踊り場へ行き、手すり越しに覗く。
リビングでエイドリアンがソファに座り、エヴリンが彼の胸に寄りかかってテレビを見ていた。
淡い部屋着に控えめな化粧、眉も目も弧を描く笑顔。エイドリアンは時折、甘やかすように彼女の髪を撫でる。
カーペットの上では、小さな男の子が積み木で遊び、時々顔を上げて「パパ」と呼んだ。
家族三人。幸福そのもの。
罰など、どこにある?
私は暗がりの中で、その光景を冷たく見下ろす。
――罰を与えた。
――代償を払わせた。
よくもまあ、そんな言葉が吐ける。
期待なんて、とっくに捨てるべきだった。そうでしょう?
部屋へ戻り、枕の下から携帯を取り出す。指が勝手に動いた。
「ブラックウェル一族を潰す手伝いをする。その代わり、私の偽装死を用意して」
私が死んで初めて、彼は手を放すのだろう。
返事は即座だった。
「取引成立だ」
私は冷笑し、携帯をしまう。
振り向いた瞬間、扉が開いた。エイドリアンが入ってくる。声音だけは柔らかい。
「さっきのは……説明できる。お前が怒ってるのはわかる。でもイーデンの件は……俺は本当に、できる限り償おうとしてる」
「エヴリンは中枢から外した。もう何の仕事にも関わらせてない。今のあいつは、ただの母親だ」
「ただの母親?」私は鼻で笑う。「だからさっき、下で抱いてたのも『母親の世話』? それがあなたの言う罰?」
エイドリアンが言い淀んだ、その背後から、エヴリンの怯えた声がする。
「全部、私が悪いの……。あなたがどうしても私を憎むなら、命で償う。ね?」
涙目で震えてみせながら、その瞳の奥は勝者の光でチラついていた。
吐き気がした。
もう我慢の限界だった。
私は駆け寄り、エイドリアンを押しのけ、エヴリンの頬を思い切り張った。乾いた音。エヴリンは床へ転び、甲高く叫んだ。
エイドリアンの瞳が鋭く縮み、咄嗟にエヴリンを庇う。
「もういい!」手首を掴まれ、怒りが滲む。「あの時のことは、エヴリンも被害者だ。何をそこまで根に持つ!」
根に持つ?
「イーデンは死んだんだぞ!」低く抑えた怒気が漏れる。「死人のために、エヴリンを追い詰めて殺す気か!」
私は呆然と彼を見た。まるで初めて会った男みたいに。
――そう。彼の中では、イーデンは「死んだらそれまで」。
守る価値があるのは、生きている者だけ。
エイドリアンはボディガードへ命じた。
「地下室へ。俺の許可なしに出すな」
私は彼を睨み据える。
「絶対に後悔するわ」
