彼の刃はもう彼のためには斬らない

彼の刃はもう彼のためには斬らない

大宮西幸 · 完結 · 27.7k 文字

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紹介

私はかつてブラックウェル一族の裏社会で最も鋭利な刃だった。彼のために、私は手についた血を洗い流し、彼の影に隠れる普通の女として生きることを選んだ。そして彼の娘まで産んだ。

これが救済だと思っていた。だが、それはより深い地獄へと堕ちる始まりに過ぎなかった。

三年前、埠頭での抗争に、彼の高嶺の花――初恋の女が、彼との間にできた私生子を連れて巻き込まれた。敵対組織の銃口が同時に二人の子供に向けられたとき、彼は躊躇なく初恋の息子を守ることを選んだ。

私の娘は、轟音とともに爆発の炎に呑まれ、灰となった。

その瞬間から、私が十年間愛した男は死んだ。生きているのは、ただ不倶戴天の敵だけだ。

チャプター 1

アイリス視点

 かつて私は、ブラックウェル一族の裏社会において最も鋭い刃だった。彼のために手の血を洗い流し、彼の背後に隠れるただの女になることを選び、娘まで産んだ。

 それが贖罪だと思っていた。けれど実際は、さらに深い地獄へ落ちていく始まりにすぎなかった。

 三年前、港で起きた銃撃戦。彼の「高嶺の花」――初恋の女が、彼の隠し子を連れてその場に巻き込まれた。敵対する一族の銃口が、私たちの子どもたちへ同時に向けられた瞬間。彼は迷いなく、初恋の女の息子を守る選択をした。

 私の娘は、轟音とともに灰と化した。

 その瞬間、十年間愛した男は死んだ。

 生きているのは、もはや不倶戴天の敵だけ。

 私は二人のボディガードに押さえつけられ、埠頭のコンクリートに顔を伏せていた。生臭い潮風が襟元に流れ込み、膝は擦りむいて血が滲む。

 少し離れた場所で防弾車が止まり、エイドリアンが降りてくる。黒いトレンチコート、指に挟んだ葉巻。冷たい横顔には、一片の温もりもなかった。

 彼は私の前まで来ると、見下ろした。まるで、聞き分けのない囚人でも眺めるみたいに。

「半月も逃げ回って、わざわざそんなザマになりたかったのか?」

 私は顔を上げ、嘲るように笑う。

「あなたから離れられるなら、死んだって痛快よ」

 エイドリアンは葉巻を捨て、屈んで私の顎を掴み、無理やり目を合わせた。

「ルールを忘れたか。俺の縄張りで、俺の許可なしに誰も逃げられない。お前は一生、俺のものだ。生きても、死んでもな」

「ルール?」私は手を振り払った。「あなたのルールって、別の女の私生子のために、自分の娘を殺すことなの!」

 禁忌の呪文みたいな一言が、周囲の空気を瞬時に凍りつかせた。エイドリアンの瞳が細まり、呼吸が一拍止まる。

「黙れ!」低く唸る。「あれは事故だ! あの場で先にあいつの息子を助けなきゃ、あいつは壊れてた! イーデンは俺の娘だ。俺だって痛かったに決まってるだろ!」

 痛かった?

 私は堪えきれず笑い、涙までこぼれた。

 三年前のあの夜、誘拐犯がエヴリンを巻き込まなければ、私は十年もの間、彼が外に「もうひとつの家」を持っていたことさえ知らなかった。

 隠し方が上手すぎた。枕を並べて眠る私ですら、気づけないほどに。

 あの埠頭で私は地面に膝をつき、額が裂けるほど地面に頭を打ちつけた。

「お願い、イーデンを助けて! あなたの子なのよ!」

 けれど彼の視線は、泣き崩れるエヴリンに釘づけだった。

「先にあの子を助けて! じゃないと私、あなたの目の前で死ぬ!」

 エヴリンの悲鳴が、最後の一押しになった。

 エイドリアンは選んだ。部下が飛び出し、隠し子を奪い返す。イーデンが縛られた車は蹴り落とされ、暗い海へ――その直後、耳を裂く爆発。

 最後に見えたのは、炎に呑まれる直前のイーデンの茫然とした瞳。口を動かし、声にならない形で言った。

「ママ……」

「三年よ。イーデンが死んで、まだ三年」私はエイドリアンの耳元へ身を寄せ、一語ずつ噛みしめるように告げた。「どうしてあなたを憎まずにいられるの? 何で償うの。イーデンの命、返してよ」

 エイドリアンは青ざめ、手を放して一歩退いた。だがすぐに冷酷な仮面を取り戻す。

「俺が悪かった。……もう罰は与えた。代償も払わせた」

 そう言い聞かせるみたいに呟き、部下へ冷たく命じた。

「屋敷へ連れ戻せ」

 私は乱暴にSUVへ押し込まれた。

 屋敷に戻った頃には深夜だった。

 全身傷だらけのまま部屋へ放り込まれ、すぐに意識が落ちた。

 どれほど経ったのか。目を開けると、月光が水みたいに床へ滲んでいる。身体を引き起こした瞬間、階下から笑い声が聞こえた。

 階段の踊り場へ行き、手すり越しに覗く。

 リビングでエイドリアンがソファに座り、エヴリンが彼の胸に寄りかかってテレビを見ていた。

 淡い部屋着に控えめな化粧、眉も目も弧を描く笑顔。エイドリアンは時折、甘やかすように彼女の髪を撫でる。

 カーペットの上では、小さな男の子が積み木で遊び、時々顔を上げて「パパ」と呼んだ。

 家族三人。幸福そのもの。

 罰など、どこにある?

 私は暗がりの中で、その光景を冷たく見下ろす。

 ――罰を与えた。

 ――代償を払わせた。

 よくもまあ、そんな言葉が吐ける。

 期待なんて、とっくに捨てるべきだった。そうでしょう?

 部屋へ戻り、枕の下から携帯を取り出す。指が勝手に動いた。

「ブラックウェル一族を潰す手伝いをする。その代わり、私の偽装死を用意して」

 私が死んで初めて、彼は手を放すのだろう。

 返事は即座だった。

「取引成立だ」

 私は冷笑し、携帯をしまう。

 振り向いた瞬間、扉が開いた。エイドリアンが入ってくる。声音だけは柔らかい。

「さっきのは……説明できる。お前が怒ってるのはわかる。でもイーデンの件は……俺は本当に、できる限り償おうとしてる」

「エヴリンは中枢から外した。もう何の仕事にも関わらせてない。今のあいつは、ただの母親だ」

「ただの母親?」私は鼻で笑う。「だからさっき、下で抱いてたのも『母親の世話』? それがあなたの言う罰?」

 エイドリアンが言い淀んだ、その背後から、エヴリンの怯えた声がする。

「全部、私が悪いの……。あなたがどうしても私を憎むなら、命で償う。ね?」

 涙目で震えてみせながら、その瞳の奥は勝者の光でチラついていた。

 吐き気がした。

 もう我慢の限界だった。

 私は駆け寄り、エイドリアンを押しのけ、エヴリンの頬を思い切り張った。乾いた音。エヴリンは床へ転び、甲高く叫んだ。

 エイドリアンの瞳が鋭く縮み、咄嗟にエヴリンを庇う。

「もういい!」手首を掴まれ、怒りが滲む。「あの時のことは、エヴリンも被害者だ。何をそこまで根に持つ!」

 根に持つ?

「イーデンは死んだんだぞ!」低く抑えた怒気が漏れる。「死人のために、エヴリンを追い詰めて殺す気か!」

 私は呆然と彼を見た。まるで初めて会った男みたいに。

 ――そう。彼の中では、イーデンは「死んだらそれまで」。

 守る価値があるのは、生きている者だけ。

 エイドリアンはボディガードへ命じた。

「地下室へ。俺の許可なしに出すな」

 私は彼を睨み据える。

「絶対に後悔するわ」

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