第2章
アイリス視点
丸三日、地下室に閉じ込められている。エイドリアンはこんなやり方で私の反骨心をへし折るつもりなのだろうが、この程度の監禁で私の意志が砕けることなどない。
冷たい壁にもたれかかり、静かに目を閉じる。
二十年前、私は教会の門前に捨てられた赤ん坊だった。名前もなければ、過去もない。ブラックウェル一族に拾われ、最短で標的の喉を掻き切る方法や、三秒で銃を解体する術を叩き込まれた。
十年前、私はエイドリアンの側近護衛となり、彼の抱えるあらゆる厄介事を片付けてきた。
あの冬、彼は私に求婚した。
「俺と結婚してくれ、アイリス。娘を産んでほしい。二人には最高のものを用意する」
後になって知ったことだ。彼が私を妻に迎えたのは、単に私がエヴリンに似ていたからにすぎない。暗がりに隠した彼女を守るため、ただそれだけの理由だった。
私は身代わり。ただの道具。――最初から最後まで。
唐突に鉄扉が開き、網膜を焼くような眩い光が差し込んできた。
エイドリアンが救急箱を手に私の前へと歩み寄り、静かにしゃがみ込む。その仕草は酷く優しく、まるで何も起きていなかったかのようだ。
「傷を見せろ」
頬の赤く腫れ上がった箇所へ、彼が手を伸ばしてくる。
私は顔を背けた。
「触らないで」
エイドリアンの手が空中で強張り、その瞳に一瞬だけ傷ついたような色が浮かぶ。だが彼はすぐに感情を押し殺し、さらに声を和らげた。
「アイリス、落ち着け。お前がエヴリンを許せないのはわかる。だが、子どもは無実だ。イーデンがいなくなって、俺だって苦しい。イーデンのためだと思って――」
私はその言葉を遮る。
「あなたに、イーデンの名前を口にする資格があるの?」
「俺はあの子の父親だ!」
「父親?」
冷笑が漏れた。
「別の女の私生子のために、自分の娘が海へ蹴り落とされるのを黙って見ていた父親が?」
エイドリアンの顔色が一瞬にして青ざめる。
「あの女の顔を見るたび、私は何度でも殴るわ」
一語一語、噛み締めるように告げた。
「エイドリアン、あの女を私から遠ざけておいて。次は平手打ちじゃ済まない。命を奪うわ」
エイドリアンは長い間、私を睨み据えていた。その瞳には怒りと、そして抑えきれない焦燥が渦巻いている。やがて彼は乱暴に立ち上がり、背を向けて立ち去った。
重い音を立てて、再び鉄扉が閉められる。
私は床に取り残された救急箱を引き寄せ、自分の顔の傷を手当てし始めた。
痛い。けれど、三年前のあの日、目の前でイーデンが死ぬのを見た時の痛みに比べれば、こんな表面的な痛みなど無に等しい。
翌日、鉄扉がまた開いた。
今度現れたのはエヴリンだった。息子の手を引いている。小さな男の子は彼女の背後に隠れるように立ち、その腕に何かを抱えていた。
私の視線がそこに落ちた瞬間、瞳孔が鋭く縮む。
ぬいぐるみのクマちゃん。イーデンの二歳の誕生日に、エイドリアンが贈ったものだ。イーデンがこの世界に残した、唯一の痕跡。
「アイリス、あなたがここで反省するのも大変だろうから、ちょっと様子を見てこいってエイドリアンが言うのよ」
エヴリンは鼻を覆い、薄暗く湿った地下室を露骨に嫌悪する目で見回した。
私は彼女の言葉など無視して、男の子が抱えるクマのぬいぐるみだけを死に物狂いで睨みつけた。
「それを返して」
エヴリンは私の視線を追い、その口角を歪に吊り上げる。
「あら、こんなボロボロのおもちゃ。うちのタイラーが気に入っちゃったみたいだから、譲ってあげればいいじゃない。エイドリアンも言っていたわ、タイラーが喜ぶなら何でも与えていいって」
私はゆっくりと立ち上がり、一歩、また一歩と彼らへ近づいていく。
「もう一度言うわ。それを返して」
エヴリンの瞳の奥に、毒蛇のような悪意がちらついた。
彼女は突然タイラーの手から小熊を奪い取ると、私の目の前で、思い切りその首を引きちぎった。
ビリッ、という嫌な音とともに、黄ばんだ綿が飛び出す。彼女は笑いながら中の綿を掻き出し、残骸となったクマのぬいぐるみを綿もろとも床へ投げ捨てた。
「あらぁ、ごめんなさい。壊れちゃったわね」
タイラーはひどく怯え、その場に立ち尽くして泣き出しそうな顔をしている。
エヴリンはスカートの裾を優雅に整え、ゆっくりと私の前へ歩み寄って屈み込んだ。唇を私の耳元へ寄せ、ひどく低い声で囁く。
「知ってる、アイリス? 三年前の港での抗争――あれ、実は私が裏で手を回して仕組んだのよ。わざとイーデンの居場所を奴らに流してやったの。あの子を殺すためにね。そうすれば、タイラーが唯一の跡継ぎになれるでしょ。エイドリアンは今でも気づいていないわ。ただの事故だと思い込んで、三年も罪悪感に苛まれているのよ。ほんと、馬鹿な男」
頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。
私は弾かれたように飛びかかり、エヴリンの首を鷲掴みにして壁へと力任せに叩きつけた。エヴリンの顔がみるみるうちに鬱血して赤黒くなり、両手で私の腕を必死に叩きながら、喉の奥から「がっ、げっ」と苦しげな呻き声を漏らす。傍らでタイラーが恐怖のあまり大声で泣き叫んだ。
私は両目を血走らせ、理性を失った獣のように咆哮する。
「あんたが殺したのね! イーデンのところへ送ってやる!」
「アイリス! 何をしている!」
入り口から鼓膜を裂くような怒号が響いた。
エイドリアンが大股で飛び込んできて、私の肩を掴むなり、渾身の力で投げ飛ばした。私は床に激しく叩きつけられ、背中が壁に激突する。喉の奥に、鉄錆のような血の味が込み上げた。
エイドリアンは痛ましげな顔でエヴリンを抱き寄せた。エヴリンは激しく咳き込みながら、大粒の涙をぼろぼろとこぼす。
「エイドリアン……私、ただ彼女の様子を見に来ただけなのに……急に狂ったように、私を殺そうとして……」
その声は、ひどく怯えて壊れてしまったかのように震えていた。
エイドリアンが振り返り、血走った目で私を睨みつける。
「お前は一体何がしたいんだ! イーデンはもう死んだんだぞ! 死んだんだ!」
床に散乱した綿と、首をもがれたクマのぬいぐるみの残骸を見つめながら、私はふいに笑い声を漏らした。
「そうね。イーデンは死んだわ。あなたのせいで、まともな骨一つ残らなかった。今度は、あの子の最後のかけらすら消し去るつもり?」
エイドリアンは床のクマのぬいぐるみに気づき、一瞬だけ目を泳がせた。微かな後ろめたさがよぎったようだが、彼はすぐに表情を硬くする。
「エヴリンはわざとやったんじゃない! お前はいい大人だろう、子ども相手に何をムキになっているんだ。アイリス、お前はいつからそんなに心が狭くなったんだ?」
私は彼をじっと睨み据える。彼が居心地の悪さに耐えかねて視線を逸らすまで、長く、長く。
「今日、あの女はイーデンの遺品を壊した。明日には、私があの女の首を落としてやる」
「やってみろ!」
乾いた破裂音が響き、彼の平手が私の頬を無慈悲に打った。衝撃で首が横へ弾け飛び、耳の奥でひどい耳鳴りが響く。顔の半分が一瞬にして痺れ、感覚が完全に消失した。
エイドリアンの手は宙で止まったまま、その指先が微かに震えていた。彼の瞳に動揺が走る。自分の手を見つめるその顔は、自らが叩いてしまったという事実さえ信じられないかのようだった。
彼はギリッと歯を食いしばる。
「アイリス、お前には心底失望した。ルールが学べないというのなら、外で跪いて反省しろ! こいつを門の外へ連れて行け。俺の許可が下りるまで立たせるな!」
私は彼に返事一つ返さない。床に散らばった綿を少しずつ拾い集め、破れたクマのぬいぐるみの胴体へと押し込んでいく。
二人のボディガードが踏み込んできて、私の両腕を乱暴に架け上げた。私は残骸となったクマのぬいぐるみを胸にしっかりと抱きしめたまま、地下室から引きずり出されていく。
屋敷の門外。夜闇はどこまでも深い。
私は氷のように冷たい石畳の上に跪き、クマのぬいぐるみを胸に抱き抱える。破れ目からは、いまだに綿がぽろぽろとこぼれ落ちていく。少しずつ、少しずつ。
まるで、イーデンの命が指の隙間から零れ落ちていった、あの夜みたいに。
