第2章

 あの日を境に、私は一方的に和人との連絡をすべて断った。

 電話は着信拒否、SNSはブロック。修英調理芸術学院で廊下ですれ違っても、ただの空気として扱う。私は全神経を、全国青年シェフコンテストの準備へと注ぎ込んだ。

 夜が明けきる前に起きて市場へ走り、いちばん瑞々しい食材をかき集める。深夜、実習室の灯りが全部落ちても、私はまだブラインドカットの練習を続けた。包丁はさらに速く、温度のわずかな揺らぎさえ指先で掴めるようになっていく。

 その一方で、和人は――完全に羽目を外した。

 私の口うるさいストップも、朝の鬼のような連続コールもなくなって、彼は都心部の場末の居酒屋の常連になった。莉央が街の不良仲間を連れてきて、毎日のように和人を引っ張り回す。店に並ぶのは、脂ぎった屋台の焼きそば、黒くなるまで揚げた手羽先の唐揚げ、チーズがどろりと盛られたジャンクなナチョス。それに、安物のブレンデッドウイスキー。

 ミシュラン三つ星シェフを目指す人間にとって、味覚は命だ。ああいう刺激の強いものは、慢性の毒みたいなものなのに。

 でも、私は少しも気にしなかった。私に何の関係がある?

 それから半月。修英調理芸術学院では、極めて重要な段階評価が行われた。高湯のブラインドテイスティングと復刻。

 上田先生は有名な鬼講師だ。レシピは見せない。先生が煮出したフレンチ・コンソメを味だけで解析し、含まれる二十種類の食材を言い当てる。そのうえで四時間以内に完璧に再現しろ――そう言い放った。

 実習室の空気は張りつめて、息をするのもためらうほど。私は自分の作業台の前で、淡々と最後の澱を漉していた。黄金色の液体は琥珀のように澄み切り、ふくよかな香りを立てる。仕上がりに迷いはない。

 対して、隣の台の和人は額に冷や汗をびっしり浮かべていた。

 鍋の中のスープは濁っている。火入れの管理が甘く、雑味が踊った証拠だ。彼は焦った手つきでおたまを口に運び、眉をぎゅっと寄せる。

 前の人生なら、こんな評価は彼にとって朝飯前だった。研ぎ澄まされた味覚で材料を容易に見抜けたし、面倒な煮込みは全部、私が前夜にアパートでこっそり小さなコンロを使ってベースを取っておいて、彼は当日それを持ち込み、体裁だけ整えればよかった。

 でも今日は、彼は自力でやるしかない。

 さらに致命的だった。半月続いた濃い味とアルコールの麻痺、そして慢性的な睡眠不足。彼の「天才の味覚」は、もう鈍っている。

「時間だ!」

 上田先生がパンパン、と手を叩く。講師たちが順に味見を始めた。

 私の前に来ると、上田先生はひと口だけ啜り――硬かった表情が、すっと緩んだ。瞳に、かすかな驚嘆が走る。

「澄み具合が完璧だ。玉ねぎのカラメル香を極限まで引き出してる。タイムは一つ増やせば前に出すぎ、減らせば薄くなる。その線を正確に押さえたな。紗季、今学期でいちばんの澄ましだ。……よし、満点だ」

 私は小さく頭を下げる。

「ありがとうございます、上田先生」

 そして上田先生は和人のほうへ向かった。

 和人は平静を装い、スープを差し出す。上田先生は濁りを見ただけで眉をひそめ、渋々スプーンを口に運んだ。次の瞬間――横のゴミ箱へ吐き捨てた。

 スプーンが台に叩きつけられ、ガンッと乾いた音が響く。上田先生の顔は青黒い。

「和人……これは何を飲ませるつもりだ。鍋洗いの湯か? セロリの苦味がまるで抜けていない。にんじんを入れすぎて甘ったるい。しかも――うま味調味料を入れたな?」

 どよめきが走る。修英調理芸術学院で工業的な調味料に頼るなど、料理人として最大級の侮辱だ。

 和人の顔色が一瞬で抜けた。慌てて言い訳が飛び出す。

「ち、違います、先生。うま味調味料なんて入れてません……たぶん、パルメザンチーズの比率が……」

「黙れ!」

 上田先生は容赦なく切り捨てた。

「天然のうま味と合成のうま味の区別もつかないほど鈍ったのか? この半月、いったい何をしていた。天賦の才を犬にでも食わせたか! 採点する価値もない、不合格だ!」

 和人は糸が切れたみたいに肩を落とし、唇を噛みしめたまま、両手で作業台の縁を掴んで震えていた。

 授業が終わり、実習室の人影がまばらになる。私は包丁を洗い、刃を拭き上げていた。

 そのとき、和人が突然、目の前に突進してきた。目は真っ赤で、怒りに駆られた獣みたいだった。

「紗季……おまえ、わざとだろ?」

 私はまぶたすら上げない。刃を布で撫で、淡々と艶を出す。

「何の話?」

「おまえ、今までは俺のベースを用意してた! 最近、俺の調子が悪いの分かってただろ! なんで助けないんだよ! 俺が恥かくの見たかったんだろ! 俺の才能が妬ましいんだ!」

 鼻で笑って、包丁を置く。ようやく顔を上げ、彼を見た。

「和人。自分で考える頭もなくなっちゃったの? 私、あんたの母親? それとも雇われ家政婦? なんで私が、あんたのためにスープ取らなきゃいけないわけ」

「俺たち幼なじみだろ! 前は、ちゃんと……!」

「前は私が馬鹿だっただけ」

 私は遠慮なく言い切る。

「今は目が覚めた。あんたの成績は、あんたが自分で作った結果。莉央とつるんでジャンク食って、夜更かしして酒飲んで――自慢の才能、どれだけ残ってるの。不合格は自業自得。ここで喚くな」

「黙れ! 莉央の名前出すな!」

 急所を踏まれたみたいに和人が声を荒らげ、手を振り上げて私を突き飛ばそうとした。

 ――その瞬間、私の目が冷たく尖る。

 作業台のまな板の上。磨いたばかりの骨スキ包丁を、すっと掴む。刃先が和人の胸元へ真っ直ぐ向いた。

「触ってみなよ。どうなるか」

 声は氷みたいに冷えていた。

 和人は刃先の寒光に呑まれ、ひゅっと息を詰めて二歩、三歩と後ずさる。顔色が青くなったり白くなったり忙しい。

「紗季……おまえ変わったな。冷血で、自分勝手で、話が通じない!」

「褒め言葉として受け取っておく」

 私は包丁を納め、包丁ケースのファスナーを閉める。

「この世でいちばん役に立たないのは、他人を可哀想がること。莉央と末永くお幸せに。絶対に別れないでね」

 鞄をひょいと持ち上げ、私は振り返りもせずに扉へ向かった。

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