第1章
闇の地下社会で、米津弘武は名を聞くだけで震え上がる極道の組長だった。両親を亡くした私にとって、唯一の拠り所でもある。
掌の上で大事にされてきた――十八のあの年、私はなにもかも投げ出して彼に想いを告げるまでは。
あの日を境に、彼の目にあった慈しみは嫌悪へ変わった。か弱い淡島涼夏を屋敷へ連れ帰り、私は泥の底へ踏みつけられた。
前の人生。弘武が罠にはまり、強い媚薬を盛られた夜――私は彼を助けるため、自分を差し出した。それなのに彼は私を「恥知らずの淫乱女」だと断じた。けれど、思いがけない妊娠が発覚すると、彼は私を妻に選んだ。
その後、結婚式の日。涼夏は悲しさのあまり敵対組織の縄張りへ飛び込み、殺された。訃報を聞いても、弘武はなにも言わない。淡々と式を最後までやり切った。
私が出産間近になった頃、彼は私を家に閉じ込め、冷めた声で言った。
「おまえさえいなければ、俺が結婚したのは彼女だった。彼女も悲しくなって敵のシマなんかに行かず、死なずに済んだ」
罪はすべて私に押しつけられた。そして私は難産で死んだ。
――目を開けると、運命を変えたあの夜に戻っていた。
「出ていけ……全員、出ていけ!」
弘武のしゃがれた怒号が、分厚いオークの扉を突き抜けて廊下へ響く。外に立つ護衛たちは凍りつき、誰ひとり近づこうとしない。
私ははっと目を見開いた。額に冷や汗がびっしり。ここは前の人生の寝室じゃない。弘武の憎しみに満ちた視線もない。
私は屋敷の二階廊下に立っていて、手には醒ましのスープが載った盆。
重生した。弘武が薬を盛られた、この日に。
前の人生では、私は扉をこじ開けて飛び込み、自分の清白を代償に「解毒剤」になった。
でも、今度は同じ過ちを繰り返さない。
私は盆を女中に雑に渡し、スマホを取り出して涼夏の番号を開いた。
すぐに、甘ったるく作った声が耳に入る。
「彩未? こんな遅くにどうしたの?」
「弘武が盛られた。城南の半山の屋敷、二階の主寝室。米津の奥さんになりたいなら、今すぐ来て」
電話の向こうが明らかに固まった気配がした。涼夏は、私が弘武を好きだとずっと知っている。普段から私の前で権利を主張し、陰で嫌がらせもしてきた。私が自分から電話するなんて、想像もしなかったのだろう。
「……な、なに言って……?」
「十分。十分以内に来られないなら、別の女を入れる。どうするか、自分で決めて」
そう言って、私は躊躇なく通話を切った。そして護衛へ向き直る。
「扉を見張って。淡島涼夏以外、誰も入れないで」
護衛たちは顔を見合わせた。
私は取り合わず、廊下の奥――自分の部屋へ真っすぐ歩いた。
数分後。階下から急ブレーキの音。続いて、廊下を叩くハイヒールの足音が近づいてくる。
「弘武! 弘武、中にいるの?」
涼夏の声には焦りと、隠し切れない高揚が混じっていた。
護衛は彼女を止めない。主寝室の扉が乱暴に開き、すぐに勢いよく閉まる。
ほどなく、耳が熱くなるような音が、壁越しに途切れ途切れ漏れてきた。夜の大半をそのまま続いたのに、私は驚くほど安らかに眠れた。
翌朝。
私は朝食をとりに階下へ降りた。
主座に弘武がいる。シャツの襟元は開き、肌にはいくつもの引っかき傷。顔色は険しいのに、眉間にはどこか満ち足りた色がある。
隣に座るのは、頬を染めておずおずとした涼夏。男物のシャツを羽織り、首筋に残る赤い痕が、昨夜なにがあったかを世界に言いふらしているみたいだった。
私を見るなり、涼夏が勝ち誇った笑みを浮かべる。
「彩未、ほんとありがとう。あなたが電話してくれなかったら、弘武が……」
「どういたしまして。手間でもなかったわ」
私は顔も上げず、朝食に意識を落とした。
その冷淡さに、涼夏の表情が一瞬ひきつる。彼女は弘武へ向き直り、被害者ぶった声を出した。
「弘武……彩未、私のことあんまり歓迎してないのかな。小さい頃から一緒に育ったんだもんね。私みたいなよそ者が急に入ってきたら、嫌だよね……」
弘武が眉をひそめ、私を見る。
「その態度はなんだ?」
そして続けて、命令のように言い放った。
「涼夏と関係を持った以上、俺は涼夏を娶る。これからは米津の女主人だ。礼儀をわきまえろ。身分を盾にいじめるな」
私は顔を上げ、二人に微笑む。
「ご安心ください、弘武おじさん。今までは私が子どもで、しつこくまとわりついて困らせました。でも、もうしません」
「心から、おめでとうございます」
弘武の動きが止まった。訝しげな目が私を刺す。
私が彼のもとへ来てからずっと、私は「弘武」とだけ呼び続けてきた。「おじさん」なんて一度も言ったことがない。冷たくされるようになってからも、私は彼のそばに張りつき、名前を呼び捨てる癖が抜けなかった。
それなのに――
「……分かった。そんなに物分かりがいいなら、涼夏はこの屋敷に住む。おまえが身の回りの世話をしろ」
涼夏が白々しく首を振る。
「弘武、そんな……彩未はまだ子どもだし……」
「決まりだ」
弘武は一切の異論を許さない口調で告げた。
私は立ち上がり、二人へ丁寧に小さく会釈する。
「承知しました、おじさん。ほかにご用がなければ、部屋へ戻ります」
そう言って踵を返し、階段へ向かった。
背中に突き刺さる、喰い殺しそうな弘武の視線を無視して。
三十分ほど経った頃。私の部屋の扉が乱暴に押し開けられた。
立っていたのは弘武。顔色は暗く、目は鋭い。
私は反射的に一歩下がる。
けれど彼は大股で部屋に踏み込み、その距離を一気に詰めてきた。
「なんで俺を、おじさんなんて呼ぶ。今まで一度も呼ばなかっただろ。……俺に怒ってるのか?」
