第4章

 敬明は黙ったまま、私をじっと見つめていた。

 その時、登美子が彼の背後から姿を現し、私のそばに立つ雅也へちらりと視線を向けた。

「瑠理香、どうしてその人と一緒にいるの? その人は誰? 私と敬明のこと、ずっと誤解してるのは知ってるけど……」

「それに、あなたの家だって敬明の家とあるプロジェクトで競合してるわよね。でも、あまりにも偶然が重なりすぎじゃない? 都合よく雪崩が起きて、都合よくあなたが敬明に私を優先して助けさせて、都合よくこんな見ず知らずの男の人に助けられるなんて……」

 彼女はうっすらと目元を赤くして言った。

「瑠理香、これって本当にただの偶然なの?」

 私は一瞬、言葉を失った。

 何を仄めかしているの? まさか、私が雪崩を仕組んだとでも言いたいの?

 信じられない。

 自ら生き残るチャンスを放棄してまで彼女を助けたというのに、恩を仇で返すつもりか。

 胸の奥からふつふつと怒りが込み上げてくる。前世で彼女に抱いていた同情心や、つい先ほど下した『二人を結ばせてあげよう』という決断を思い出した。

 まったく、馬鹿げている。

 こんなことになるなら、あのまま雪の底に埋もれさせておけばよかった。

「何を言っているの?」

 私は冷ややかな視線を彼女へ送った。

 登美子は唇を噛み、今にも零れ落ちそうな涙を瞳に浮かべている。

「ただ、あまりにもできすぎていると思っただけ……。あなたはこのプロジェクトの責任者でもないし、わざわざスキー場に来る必要なんてなかったはずよ。敬明は家を代表してこのビジネスイベントに参加しなきゃいけなかった。こんな大事な時期に、よりによってこんなことが起きるなんて」

「いい加減にして」

 私は彼女の言葉を遮った。

「言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ。ここで被害者ぶるのはやめて」

 敬明の顔色がサッと険しくなった。

「瑠理香、なんて言い草だ。登美子はただ事の真相をはっきりさせたいだけじゃないか。なんと言っても、彼女は今回の雪崩の被害者なんだぞ」

 呆れて笑いが出そうになった。

「彼女が被害者? じゃあ私は何なの? 敬明、よく考えてよ。私が生きるチャンスを譲ってあげなかったら、彼女は今ここでピンピンしていられたとでも思ってるの?」

 敬明の顔がカッと朱に染まる。

 私は構わず言葉を続けた。

「あなたは私の婚約者だけど、彼女を助けたこと自体はとやかく言わないわ。でも、先ほど何が起きたのか一番よく分かっているはずのあなたが、彼女にこんな戯言を言わせたまま庇うなんて。一体どの口が言っているの?」

 その言葉を口にした瞬間、これまでにないほどの爽快感が体を駆け巡った。

 前世の私なら、彼に向かってこんな口の利き方は絶対にできなかった。いつも惨めな思いで言い訳をし、謝り、理解してもらおうとすがりついていた。

 でも今は?

 私は彼に何一つ借りなどない。

 その時、雅也が口を開いた。

 彼の声は決して大きくなかったが、なぜか無視できない確かな重みを持っていた。

「横で聞かせてもらったが、だいたいの事情は分かった」

 彼は敬明へ視線を向け、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。

「つまり、あんたはこのお嬢さんの婚約者ってことだな?」

 敬明が頷く。

「それなら一つ聞きたい」

 雅也は一歩前へ出た。

「どうして自分の婚約者を見捨てて、別の女を助けるような真似をしたんだ?」

 敬明の顔からさっと血の気が引いた。

 雅也は言葉を紡ぐ。

「おまけに、あんたはその時、必ず助けに戻ると婚約者に約束したそうじゃないか。だが俺が見る限り、のこのこ二人でこんな所に現れてる時点で、彼女を助けに行こうなんて気は微塵も感じられないな。俺がいなかったら、彼女は山の中で死んでたんだぞ」

 その言葉は鋭い刃のように、敬明の痛いところを正確にえぐった。

 青ざめたり怒りで赤くなったりと、目まぐるしく変わる彼の表情を見つめながら、私の胸の中に言葉にならない痛快さが湧き上がる。

 そう、これでいい。

 自分がどれほど偽善的で、どれほど滑稽なのかを思い知ればいい。

 雅也が振り返り、私へ視線を落とした。その眼差しは、ほんの一瞬でひどく優しいものへと変わる。

「行こう」

 そう言って、彼は私へ手を差し出した。

 その場の空気に当てられたのか、それとも敬明を苛立たせたかったのか。自分でも分からないが、私はほとんど躊躇うことなくその手を取った。

 彼の掌は温かくて乾いていて、言い様のない安心感を与えてくれる。

 敬明の表情がみるみる険悪になった。

「瑠理香!」

 押し殺したような怒気を孕んだ声。

「自分でも俺が婚約者だと言っただろう。お前、その男と一体どういう関係なんだ?」

 雅也が顔を上げ、面白がるような目で彼を見返す。

「今? 今は別に何の関係もないよ。だがこの先は……かなり深い関係になるかもしれないな」

 敬明が何かを言い返そうとした、その時だった。

「そちらの方々が、雪崩の生存者でしょうか?」

 不意にかけられた声に、私たちの会話は遮られた。

 制服姿の警察官が数人、こちらへ近づいてくる。

「事情をお聞きしたいので、少しご同行いただけますか」

 警察署の取調室で、私は雪崩が発生した時の状況を簡潔に説明した。警察官はそれを記録し、さらに細かい質問をいくつか投げかけてきた。

「現在のところ、二度の雪崩による被害者はあなた方三人だけです」

 警察官は手帳を閉じた。

「人為的なものである可能性も排除していません。何か新しい展開があればご連絡します」

 警察署を出た時、雅也が眉をひそめて私を見下ろした。

「それで? 家がないとか、天涯孤独だっていうのはそういうことか?」

 私の顔が一気に熱を持った。

 嘘がばれた気まずさで返す言葉も見つからず、ただ小さな声で謝るしかなかった。

「ごめんなさい、私……」

「いいさ、ちょっと面白いと思っただけだから」

 彼は軽く笑った。

「行こうか」

 私はきょとんとして聞き返す。

「え?」

「しばらく居候させてくれって言ったのは君だろ?」

 彼は小首を傾げて私を見つめている。

「なんだ、気が変わったのか?」

 その瞬間、私の心臓が何かに強く打ち抜かれたような気がした。

 私に婚約者がいることも、さっきまで嘘をついていたことも知っているはずなのに、それでも彼は私を助けようとしてくれている。

 問い詰めることも、責めることもなく、ただ優しいからかいと包容力があるだけだった。

「ありがとう」

 私の声はわずかに震えていた。

 私は手を伸ばし、もう一度彼の手を握りしめた。

 今度は敬明を苛立たせるためではなく、心からの感謝と感動からだ。

「瑠理香」

 背後から敬明の声が響いた。

 振り返る。

 彼は警察署の出入り口に立ち、ひどく複雑な表情で私を見つめていた。

「雪崩のことは、もうお前の両親に知らせてある」

 彼は言った。

「とても心配していて、今こちらへ向かっているところだ」

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