第3章
この週末、私はほとんど眠れずにいた。
瞼を閉じれば、嫌でもあの光景が脳裏に焼きついて離れない。
私と覚は、同じ商店街で育った幼馴染だ。七歳の時だった。鎌田徹郎が私達の町に越してきたのは。街角で、覚と一緒にチョークで家の絵を描いていた私達を見て、彼はしゃがみ込み、こう尋ねたのだ。
「君たち、建築とは何か知っているかい?」
その日を境に、私達の人生はこの一人の教師と深く結びつくことになった。
鎌田徹郎は生涯独身を通し、子供もいなかった。その代わり、彼はありったけの情熱と愛情を私達に注ぎ込んでくれた。中学時代の建築入門から、大学の共同プロジェクト、そして大学院での直接指導に至るまで。
先生は口癖のように、私達こそが天性のパートナーだと言っていた。あの頃の覚の瞳には、確かに希望の光が宿っていた。
私は信じて疑わなかった。製図台を並べるこの日常が、やがてはヴァージンロードへと続いていくのだと。
――そう、彼女が現れるまでは。
葉山由紀子。
葉山堂一郎の娘である。葉山堂一郎――この業界でその名を知らぬ者はいない、唾棄すべき男。かつて先生の設計を盗用して名を上げ、その後も卑劣な手段で先生を妨害し続けてきた宿敵だ。二人の確執は二十年にも及ぶ。
だが覚は、まるで何かに憑かれたかのように、狂気じみた情熱で由紀子に溺れていった。
「先生、親の世代の因縁を子供に持ち込むべきじゃない。由紀子に罪はないんだ」
先生は苦渋の表情を浮かべていたが、最後には情にほだされた。ただ、一つだけ釘を刺した。
「お前がプライベートでどうしようと構わん。だが、研究室のコアデータだけは、1バイトたりとも持ち出すことは許さんぞ」
その時の私はまだ、覚に分別の心が残っていると、愚かにも信じていたのだ。
悪夢は、大学院の最終学年で起きた。
先生が五年の歳月を費やした集大成。生涯の設計理念と最新の構造革新を詰め込んだ、そのプロジェクト。コンペの締め切りを一週間後に控えたある日、覚が突然姿を消した。
電話にも出ない。メッセージの既読もつかない。
狂ったように彼を探し回り、アパートのドアを叩き、行きつけのカフェも回ったが、どこにもいなかった。
そう、私がインスタグラムで由紀子の投稿を目にするまでは。
写真の中で、覚はステーキハウスのテーブルにつき、由紀子と向かい合っていた。添えられたキャプションにはこうある。
『ありがとう、ダーリン。私の論文のために何日も徹夜してくれて。あなたがいないと無理だった.❤️』
私は写真に写り込んだノートパソコンの画面に釘付けになった。そこに表示されている3Dモデルは、紛れもなく先生のプロジェクトそのものだったのだ!
覚はあろうことか、それをそのまま由紀子の卒業制作への「プレゼント」として献上していたのである。
私は先生のオフィスへと駆け込んだ。
ドアを押し開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、胸を押さえて床に倒れ伏す先生の姿だった。点けっぱなしのモニターには、届いたばかりのメールが表示されていた。
差出人:葉山堂一郎
『徹郎、どうやら君の自慢の愛弟子は、私と組む方が気に入ったようだね。貴重なデータを提供してくれて感謝するよ――有効に使わせてもらう』
その瞬間、私の世界は音を立てて崩れ去った。
救急車はすぐに到着した。
救急救命室の前で、医師が書類を手に私に迫る。
「広範囲の心筋梗塞だ、危険な状態です。あなたは患者さんの?」
「私は……教え子です」
声が震える。
「先生には、他に身寄りがいません」
「では、あなたがこの緊急手術同意書にサインを」
私は並列する医学用語を睨みつけながら、震える手でサインをした。
手術室へと運ばれていく先生の背中を見送りながら、私は恐怖に震えていた。この重圧を誰かと分かち合いたくて、すがるような思いで覚に電話をかけた。
一度目は切られた。
二度目をかける。
今度は長くコールした後、ようやく繋がった。
「もしもし?」
聞こえてきたのは、覚の声ではなかった。
由紀子だ。その声には、隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。
「雲雀、あんた頭おかしいんじゃないの? 覚は今、ステージの上にいるのよ。今夜は私たちの婚約パーティー兼、パパのプロジェクト受注記念パーティーなんだから。しつこく電話してこないでくれる? 興醒めなんだけど」
受話器の向こうからは、耳をつんざくような歓声が響いてくる。
シャンパンの抜栓音、囃し立てるゲストたちの「キス! キス! キス!」というコール。そして、葉山堂一郎の勝ち誇った高笑い。
「皆様、若き二人の愛に乾杯! そして、私の新たなプロジェクトに乾杯!」
それは、彼らの狂乱の宴。
対してこちら側にあるのは、心電図モニターの無機質な警告音、医師たちの焦燥に満ちた足音、そして手術室の扉が閉ざされた後の、底知れぬ静寂だけ。
私はスマートフォンを握りしめたまま、全身の血液が凍りつくのを感じていた。
覚。あなたが恋人のご機嫌取りのために捧げたその「プレゼント」は――先生の命そのものなんだよ。
