第1章
芹奈視点
「芹奈、もうすぐ帰ってくるはずよ」
森崎純香は屋敷の玄関ホールのソファに腰を下ろし、不安げな面持ちで扉を見つめている。
メキシコ湾でのクルーザー爆発事故の報せが届いてから三日。私たちは片時もここを離れずにいた。救助隊からの連絡を、奇跡を、そして夫たちの無事な帰還を待ちわびて。
私は向かいのソファで両手を固く握りしめ、表向きは純香と同じように不安と悲痛に暮れる妻を演じている。だがその腹の底では、これから何が起こるかを正確に理解していた。
「あの人たち、無事よね?」純香が涙のあふれそうな瞳で私を見る。
「もちろんよ」私は努めて優しく声をかけた。「明良も翔一さんも泳ぎは得意だもの。きっと無事に帰ってくるわ」
その時、カチャリとドアの鍵が開く音が響き、私たちは弾かれたように立ち上がった。
入り口に姿を現したのは、包帯だらけの明良だった。その手には白い骨壺が抱えられ、表情は苦渋に満ちている。
「明良!」
「翔一さん!」
私と純香はほぼ同時にそれぞれの夫の名を叫び、ドアへと駆け寄った。
「よかった、生きててくれたのね!」
真っ先に彼のもとへ辿り着いた私は、その体にしがみつこうとした。
だが明良は一歩後ずさりした。手の中の骨壺が微かに震えている。「芹奈……純香さん……明良を、連れて帰ってきました」
「明良?」私は足を止め、瞬時に顔色を失ってみせる。「それって、どういう……」
「爆発事故で……」彼は声を詰まらせた。「明良は……逝ってしまったんです」
「嘘よ!」私は金切り声を上げた。「何を言ってるの? あなたが明良じゃない! 私の夫よ!」
「芹奈さん、すまない。僕は……僕は翔一なんだ」
私は彼に掴みかかり、両手でシャツの胸倉を締め上げると激しく揺さぶった。「どうしてあなたが翔一さんだなんて言うのよ! 私が自分の夫を見間違えるはずないでしょう!?」
揉み合う拍子に明良のシャツの襟元がはだけ、右腕に巻かれた分厚い包帯が露わになる。
(そこだわ)
前世の私も、こうしてこの包帯を見つけた。あの時は単なる怪我だと思い込んでいたけれど、今はその下に何が隠されているかを知っている。昇り龍の刺青――明良だけが持つ、決定的な証拠。
「その腕はどうしたのよ!」私はわざと声を張り上げた。「どうしてそんなに大袈裟な包帯を巻いているの!?」
明良の瞳孔が収縮し、とっさに手で患部を覆い隠す。「爆発の時にやったんだ……酷い火傷でね」
「火傷ですって?」私は冷ややかな笑いを漏らした。「それなら、どうして顔は無傷なの? どうして腕だけそんな怪我をしているわけ?」
「芹奈さん、やめてくれ!」彼は私の拘束を振りほどこうとする。
「確かめさせてもらうわ!」私は彼の目を射抜くように見据えた。「明良の右腕の内側には龍の刺青があるのよ。あなたが本当に誰なのか、見せてもらうわ!」
明良の顔色が変わり、素早く左手で右腕を庇う。「触らないでくれ! そこは……酷い傷なんだ!」
「芹奈、落ち着いて!」不意に純香が割って入り、私たちに歩み寄る。「見えないの? 彼は大怪我をしているのよ。こんな風に責め立てるなんて酷すぎるわ!」
「私が酷いですって?」私は純香を睨みつけ、目に怒りの涙を溜めた。「この人は今、私の夫が死んだと言ったのよ? 自分は翔一だと言い張っているのよ? それなのに、どう反応しろって言うの!?」
「でも……」
「僕は翔一なんだ」明良が不意に声を上げた。「信じられないのはわかる。だが、証拠があるんだ」
「証拠って何よ?」私は食ってかかる。
明良は深く息を吸い込み、シャツのボタンを外し始めた。「二人とも知っているはずだ。翔一の左肩にはハート型の痣があるが、明良君にはないことを」
ボタンが外され、左肩の肌が露わになる。そこには確かに、うっすらとしたハート型の痣があった。
(なんて小賢しい「証拠」)
前世の私は、まさにこの痣を見て信じ込んでしまった。けれど今の私は知っている。医療用の特殊メイクや転写シールを使えば、こんな痣くらい簡単に作れるということを。
「わかってくれたかい?」明良は静かに言った。「僕は本当に、翔一なんだ」
純香が歩み寄り、その痣を食い入るように見つめる。やがて彼女は顔を覆い、泣き崩れた。「翔一さん……っ、本当に、あなたなの?」
「僕だよ、純香」明良は慈愛に満ちた瞳で彼女を見つめる。「ただいま」
「嘘よ……」私はよろよろと後ずさりし、計算通りに今にも気絶しそうな様子を装いながら声を震わせた。「そんなこと、あるわけない……明良が……死んだなんて……」
「芹奈さん、辛いのはわかる」明良はシャツのボタンを留め直し、一歩一歩、私へと近づいてくる。「だが、これが真実なんだ。すまない……明良は最期の瞬間に、僕に約束させたんだ。君のことを頼む、と」
「私のことを、頼む……?」私は彼を見上げ、糸が切れたようにその場に崩れ落ちると、声を上げて泣き叫んだ。「明良……明良……っ! どうして私を置いていってしまったの……どうして……!」
