第3章
林田知音のあからさまな皮肉混じりの口調に、目黒雲月は眉をきつく寄せた。声を落として言う。
「彼女は病人だ。それに、食事だってまだ手をつけていない。林田知音、今の問題はそこなのか?」
林田知音はそっと目を閉じ、呟いた。
「そうね。今の問題は、そこじゃない。問題なのは……」
その視線は野呂の父母を通り越し、野呂雨芽へと向く。
「野呂さんは見たところ元気そうだし、野呂家のお二人が私にそんな悪意があると思うなら、これから先、野呂さんの食事を私が作る必要なんてもうないでしょう?」
野呂雨芽は一瞬きょとんとし、それから慌てて言った。
「知音、うちの両親はそういうつもりじゃないの。それに雲月さんの言う通り、わがままを言って雲月さんと食事を取り替えたのは私よ。それで海老のペーストを食べてアレルギーが出たの。だから、あなたのせいじゃないわ」
「あなたは責めなくても、ご両親は責める。雲月さんも責める。病院へ来る道すがら、うちの息子にまで、どうして食事に気をつけてあげなかったのって責められたわ……さすがに、私だって少しは自分を責めたのよ」
林田知音は目黒雲月の手を静かに振りほどき、そのまま続けた。
「最初に雲月さんの頼みを受けてあなたの食事を作ることにしたのは、一つには、あなたが気の毒だったから。もう長くないって聞いていたし。もう一つは、らいちゃんがあなたの肩を持ったから。……でも本音を言えば、私は心の底から嫌だった」
「知音……」
「野呂さん。私たち、そこまで親しくないわ。そんなふうに呼ぶのはやめてちょうだい」
目黒雲月が林田知音の袖を引く。いつも穏やかな彼女が、こんなふうにむき出しの攻撃性を見せるのは珍しかった。
「林田知音、話は帰ってからにしよう」
林田知音はふっと笑い、目黒雲月を見返して問い返す。
「私をここへ連れて来るって、どうしてもって言ったのはあなたでしょう?」
目黒雲月は珍しく言葉に詰まった。
「目黒雲月。私はあなたの奥様よ。あなたの幼馴染だとか、初恋の人だとか、しかも不治の病だとか――そんなこと、私に何の関係があるの? 毎日毎日、私の目の前で二人が仲睦まじくしてるのを見せつけられて、そのうえ食事まで作らされるなんて」
「……」
「野呂さん。あなたの食事を作ること自体、私は乗り気じゃなかった。それなのに作り終えたら、今度は私の夫があなたと一緒に食べる。こんな話、他人に聞かせてみなさいよ。もし私が食事に毒でも入れたって、それくらい当然だって思われてもおかしくないでしょう!」
最後の言葉は、目黒雲月に向けたものだった。
もう十分に我慢した――そう言わんばかりに。
「雲月、聞いたでしょう! この女、最初から腹の中じゃ何を考えてたかわかったものじゃないわ。今、自分で認めたじゃない! こんな女、たとえ雨芽のことがなくたって、離婚を考えるべきよ!」
野呂母はさらに騒ぎを大きくしたかったのだろう。だが「離婚」という一言に、目黒雲月の胸はどくりと沈んだ。ほとんど反射的に言い返す。
「おばさん、知音は俺の奥様です。それは変わりません。言葉には少し気をつけてください。昨夜のことはただの事故です。もし本当に責任を問いたいなら、俺に言ってください」
「……雲月、あなた……」
野呂母も呆気に取られた。林田知音を連れて来たくせに、庇うつもりだとは思ってもみなかったのだ。
同じように意表を突かれたのは林田知音もだった。ただし、それを表には出さない。けれどすぐに、深く考えるのはやめようと自分に言い聞かせる。目黒雲月が庇ったからといって、それが自分を大事に思っている証拠にはならない。五年前だって、彼は一度、同じように自分の前に立ってくれたのだから。
「雲月さん、林田知音さん、本当にごめんなさい。私のせいで、みんなこんな嫌な思いをして……ごめんなさい」
野呂雨芽はベッドに手をついて起き上がり、降りようとした。だが、その前に小さな身体が立ちはだかる。
「雨芽おばさん、どうしてベッドから降りるの?」
目黒らいの顔色も、決してよくはなかった。大人たちのことはよくわからない。けれど幼いなりに、母が雨芽おばさんに敵意を向けていることくらいは感じ取れる。そして、こんなに優しい雨芽おばさんに、どうしてママはこんな冷たいのか――それがわからなかった。
「らいちゃん……」
野呂雨芽は目黒らいの頬に手を添え、苦しげに笑った。
「あなたのママに、ちゃんと謝ろうと思って」
「おばさんは何も悪くないよ。なんで謝るの? おばさんが病院に来ることになったのは、ママのごはんのせいなんだから、謝るならママのほうじゃないの?」
子どもに悪気はない。けれど林田知音には、それが何より残酷に聞こえた。
もう四歳だ。
普通なら、この年頃の子は母親しか見えていないはずなのに。
それなのに、この子は――
野呂雨芽が自分と目黒雲月の間に入り込んで以来、林田知音がいちばん無力さを思い知らされるのは、まさにこういうときだった。
「らいちゃん、そんなこと言っちゃだめ。あなたはまだ小さいのよ……あなたのママはとてもいい人。私が今まで会った中で、いちばん優しい人なの……知音さん、ごめんなさい、私、本当に……」
「もう、そういう白々しいことはやめてくれない?」
林田知音は吐き気がこみ上げるのを感じた。
「子どもの前で、目黒雲月の前で、そこまでして気持ち悪く振る舞わなきゃ気が済まないの?」
ほとんど歯の隙間から絞り出すような声だった。
その瞬間、ぱん、と乾いた音が病室に響いた。
「おばさん!」
目黒雲月が我に返ったときには、もう野呂母の平手が林田知音の頬を打っていた。
「目黒雲月! その奥様を連れて出て行って!」
野呂母は二人を指さして怒鳴りつける。
「何様のつもりよ、あの子にそんな口を利くなんて! 目黒雲月、あんた忘れたの? あんたが小さい頃、誰が面倒見てやったと思ってるの! こんな女に、病気で苦しんでる雨芽のことをあれこれ言わせておくつもり!?」
「……」
「目黒雲月、忘れるんじゃないよ! うちの雨芽を裏切ったのは、あんたなんだからね! あんたが!」
「林田知音、ずいぶん自分を大したものだと思ってるみたいだけど、当時あんたが卑怯な真似をしなければ、目黒家に嫁げるはずなんてなかったでしょう!」
「ママ……やめて……お願い、もうやめて……」
野呂雨芽は顔を真っ赤にして必死に止めた。
「どうしてやめるの? 今日ここへ来て、ちゃんと謝るだけならまだしも、この女は何しに来たのよ。こっちに嫌味を言いに来ただけじゃない!」
目黒雲月は目を閉じた。
もう野呂家の面子に気を遣うこともなく、林田知音の腕を掴んで病室を出る。
頬がひりひりと焼けるように痛む。消防階段の踊り場まで引っ張られたところで、目黒雲月が振り返った。
「どうしてだ?」
「何がどうしてなの?」
林田知音は顔を上げる。
「君は本来、そんなに狭量な人じゃない。なのに今日はどうして、全身に棘でも生えたみたいになってる?」
「目黒雲月、本気でわからないの?」
「……」
「それすらわからないなら、今日あのおばさんが言ったこと、案外まちがってないのかもしれないわね。私たちの結婚、本当に続ける意味があるのか、ちゃんと考えたほうがいいんじゃない?」
「……何を馬鹿なこと言ってるんだ?!」
目黒雲月は、林田知音を病院へ連れて来たせいでこんな展開になると知っていたら、何があっても来させはしなかっただろう。
「目黒雲月、もう五年よ……この五年で、私は自分が自分じゃなくなってしまった」
「要するに、君はまだ雨芽のことが引っかかってるんだろ?」と、目黒雲月もさすがに苛立ちを隠せない様子だった。
