彼は永遠に元妻を失った

彼は永遠に元妻を失った

バラへの愛 · 連載中 · 503.9k 文字

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紹介

余命宣告を受けた野呂雨芽は、弱々しく目黒雲月の胸に寄り添い、こう囁いた。
「雲月さん、最期のときだけでも、あなたのそばにいさせて……」

そうして林田知音は、夫が別の女のために台所に立ち、息子がその女に唆されて自分を遠ざけていく様を、ただ耐えながら見つめてきた。だが、ついにあの雨の夜、彼女はすべての我慢を引き裂いた。

一流の心臓外科医・日野成謙が彼女の行く手を阻む障害を取り払い、彼女が天才画家として眩いばかりの復活を遂げたその時——野呂雨芽の「不治の病」は、あっさりと完治した。そして目黒雲月の世界は、音を立てて崩れ去る。

「知音……俺が愛していたのは、お前だったんだ!」

林田知音は膨らみ始めた腹をそっと撫で、目の前の男に微笑みかける。

「悪いけど、この子の父親は——あなたじゃないの」

チャプター 1

「本日スクープ。川市の新進実業家・目黒雲月が、人気ダンサーの野呂雨芽と手をつないでショッピングする姿を激写――。近年、若き起業家・目黒雲月の指揮のもと目黒グループは急成長を遂げ、彼の私生活も世間の大きな関心事となっている。関係者の話では、野呂雨芽と目黒雲月は幼なじ――」

ぷつり。

テレビの音が唐突に切れ、代わりに家政婦の大島さんの小さなぼやきが落ちた。

「旦那様も、いったい何をお考えなんでしょうね。幼なじみって……奥様がいらっしゃるのに……」

「……っ」

キッチンから、息をのむ音が聞こえた。林田知音は反射的に蛇口をひねり、冷たい水で赤くなった手を洗い流す。気づいた大島さんが慌てて駆け寄った。

「奥様! まあ……なんてこと……! だから申し上げたのに。野呂嬢のお食事は私が作りますって。味なんて、違いが分かるわけ――」

「少し冷やせば大丈夫です」

知音は淡々と言い、濡れた手をかばいながら続けた。

「大島さん、全部詰めておいてください。執事に頼んで、野呂嬢のところへ届けてもらいます」

心配そうに知音の手を見つめ、大島さんが唇を尖らせる。

「奥様のお手は、細くて白くて……本当に、芸術家の手ですのに。台所になんて立つべきじゃございません。あの野呂嬢は、旦那様と小さい頃から一緒だからって――」

「雲月は、彼女を身内みたいに思ってるんです」

知音は言い聞かせるように言葉を選んだ。

「病状が良くなったり悪くなったりで……あの子の望むようにしてあげないと、って。難しい病気だって言われてるけど、気持ちが落ち着いていれば、もしかしたら奇跡が――」

「気持ちが落ち着く方法が、人様の旦那様を独り占めすることだなんて」

「大島さん!」

声に鋭さが混じり、大島さんがはっと黙る。知音は無意味な愚痴が嫌いだった。他人に、雲月とのことへ踏み込まれるのも。けれど、大島さんが自分のために怒ってくれているのも分かっている。

「……余命の宣告を受けた人が、最後の時間を、好きな人と過ごしたいと思うのは当然です。雲月も、その願いを叶えてあげたいだけ。……形だけのことです」

大島さんは唇を結び、何も言わずに作業へ戻った。蛇口から流れる冷水だけが、じんじんとした熱と痛みを鈍らせていく。

……

林田知音は一人、食卓で質素な野菜料理を口に運んでいた。目黒雲月が家で夕食を取らない日々には慣れてしまった。けれど、慣れないものがある。

息子の目黒らいが、家にいないこと。

『ママ、雨芽お姉さんが、らいに会いたいって言ってたよ。新しいおもちゃも買ってくれた! 雨芽お姉さんのところ行ってくるね、すぐ帰る!』

「……うん」

「うん」と答える以外に、何が言えただろう。

考えなくても分かる。電話の向こう、らいちゃんのそばには目黒雲月がいる。

胸の奥に、どろりとしたものが溜まる。それ以上に、怖いほどの空白が広がっていく。雲月が雨芽に向ける感情は、本当に幼なじみとしての無垢な情だけなのか。それとも――まだ消えていないのか。五年間、自分が見ないふりをしてきただけで。

もしかして、不倫相手は――自分のほうだったのでは。

そのとき、スマホが震えた。画面に浮かぶ、久しぶりの名前。

木下実初。

「先輩?」

『まだ先輩って呼べるなら、知音、私のことブロックしてないってことね?』

笑い交じりの声に、知音は額を押さえて返す。

「まさか。私がそんなこと、できるわけないじゃないですか。……それで先輩、どうして急に?」

『今日のニュース、見てないの?』

「え? あ、えっと……あれは、違うんです。雲月には雲月の――」

『違うって。私、木下実初のニュース』

「……え?」

『毎日毎日、目黒雲月の周りでぐるぐるしてないで、たまには他人のことも気にしなさいよ。自分で見て。それから考えて――主婦、やめる? ステージに戻る? 戻る気があるなら、黙って私のところに来なさい』

ぶつりと通話が切れ、「ツーツー……」という音だけが残った。

ステージに……戻る?

知音はぼんやりしたまま、社交サイトを開く。そこには、木下実初が帰国し、音楽文化会社を立ち上げたという記事が踊っていた。胸の奥がざわつく。熱が上がる。

けれど、その熱はすぐに鎮まった。

知音は自嘲を含ませた短いメッセージを送り、復帰の誘いを丁寧に断った。

すぐに返事が来る。

――尊重する。

先輩のことは分かる。この短い言葉の裏に、どれだけの落胆が詰まっているか。

でも、どうしろというのだろう。

五年前、思いがけず妊娠したときの雲月の言葉が、今も耳に残っている。

「結婚してやる。でもな、俺は自分の妻に派手なことはしてほしくない。林田知音、欲張るな。ピアノと家庭――選べるのは、どっちか一つだ」

たとえ当時の条件を持ち出さなくても、知音は自分の手を見る。指先の薄いタコが、静かに告げていた。

これは、ピアニストの手ではない。主婦の手だ、と。

夜九時を過ぎて、目黒雲月が帰宅した。知音が寝間着のまま廊下へ出ると、雲月は眠り込んだ目黒らいを抱え、子ども部屋へ運んでいくところだった。

「起こして、歯磨きとか……してから寝かせたほうが」

「雨芽のところで済ませた」

雲月はそう言って、子どもの布団を整える。

胸の奥に石が沈む。子ども部屋の扉が閉まり、雲月はネクタイを緩めながら主寝室のほうへ向かった。知音は意を決して後を追う。

「どうした」

雲月はひどい潔癖で、眠りも浅い。結婚して五年、二人は別々の部屋で寝ていた。知音が主寝室へ入るのは、掃除や片づけのときだけだ。

「話があるんです」

「……」

雲月は肩をすくめ、淡々と上着を脱ぐ。知音は扉を閉め、その上着を受け取ってハンガーに掛けた。

「このところ、らいちゃんを連れて、いつもあの人の家に行ってますよね。子どもに良くないと思います」

雲月のボタンを外す手が、一瞬止まった。

「何が良くない。らいちゃんは雨芽が好きだ。生まれてから今まで、雨芽は行事のたびにプレゼントをくれた。お前が産後にしんどかった時期だって、雨芽が毎日、らいちゃんの面倒を見てくれた。今、雨芽が病気なんだ。らいちゃんが見舞いに行くのは当然だろう」

あまりにも当然という口ぶりに、知音の指先がきゅっと握り込まれる。

「らいちゃんはまだ四歳です。あの子の目には……パパと『雨芽お姉さん』のほうが、ママより仲がいいように映ってる。それが普通ですか?」

「結局、何が言いたい」

雲月の声に苛立ちが混じる。

「雨芽さんの病気が治らない限り、ずっと、そうやって甘やかし続けるつもりですか」

弱い言い方になってしまった、と知音自身が思う。けれど、その一言が雲月の神経に触れた。

「甘やかして何が悪い?! あいつはもう、長くないんだぞ! それなのに、ここで嫌味みたいなことを――!」

「……私が、嫌味?」

知音の顔が、青白さから一気に赤へ変わる。

「あなたは私の夫です。毎日、別の女の人のところに行って……私は、聞いちゃいけないんですか? 間違ってますか? 願いを叶えるって言うけど、雲月……それは本当に、あの人の願い? それとも、あなたの願い?」

こんなふうに食い下がる知音を、雲月はほとんど見たことがなかった。いつも穏やかで、淡々として、争わず、奪わず。その印象と、どこか違う。

五年間、二人は礼儀正しく夫婦を続けてきた。知音が良き妻で、良き母であることも、雲月は見ていた。ベランダで静かに本を読む彼女に日が差し、時間がゆっくり流れているように見える――あの落ち着きが、いつしか雲月にとって……

「知音。俺は疲れてる」

雲月はため息を落とし、言葉を切った。

「らいちゃんを雨芽のところに行かせたくないなら、これからは減らす。雨芽は病状が不安定だ。刺激を与えたくない。……少しは大人になってくれ。な?」

雲月が肩に手を置き、低く宥める。

いつもなら、知音は飲み込んだだろう。喉の奥が裂けそうな苦しさごと、黙ってしまっただろう。

でも今日は、どうしても、誤魔化される気になれなかった。

涙の光を含んだ目を上げ、知音は雲月を見つめる。

「病気なら、お医者さんに行けばいい。あなたを呼び続けるのなら、それは体じゃない。頭が――おかしいんです!」

「……っ」

ぱんっ。

乾いた音が部屋に響いた。

頬が、かっと熱い。林田知音はその場に立ち尽くし、燃えるような痛みだけが遅れて広がっていった。

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***

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