第6章

クラウドレストランは市の中心、その中でもひときわ華やかな一角にあった。眼下には遮るもののない都会の夜景が広がり、店内の設えも意匠も、隅々まで洗練されている。

ダイニングの共用席はすべて窓際に配され、フロアは洋食エリアと和食エリアの二つに分かれていた。

上階は五つ星ホテルになっており、目黒雲月はすでに個室を押さえている。

完全な密閉空間ではないものの、個室のプライバシー性は十分だった。

目黒雲月と林田知音が席に着くと、給仕係がいくつかおすすめの料理を挙げた。林田知音はどれも食べてみたいと言い、目黒雲月も当然のように彼女に合わせる。

「かしこまりました。ただ、林田様、こちらの酒粕漬けムール貝は本日の人気料理でして、食材をちょうど切らしてしまいました。新しいものを取り寄せておりますので、少々お時間をいただきます」

「大丈夫です。待てますから。あなたは?」 

林田知音が目黒雲月へ視線を向ける。

目黒雲月はふっと笑った。

「知音、今夜の俺の時間は全部きみのものだ。きみが何を待ちたいと言っても、俺は一緒に待つよ」

林田知音はメニューを給仕係へ返した。給仕係はくすりと笑い、

「かしこまりました、林田様、目黒様。どうぞ素敵な夜をお過ごしください」

個室にはやわらかなピアノの音色が流れていた。林田知音はその響きに誘われるように、個室の外に置かれた一台のピアノへ目を向ける。

「弾いてみるか?」

目黒雲月は今夜、本当に意識のすべてを彼女に向けていた。彼女がただ一度ピアノを見やっただけで、その胸の内を察してしまうほどに。

「もうずいぶん、鍵盤に触ってないの……」

「俺も、きみの演奏をずっと聞いていない。今夜の贈り物だと思って、聞かせてくれないか」

変わらずやさしく背中を押され、林田知音は小さくうなずいた。

風衣を脱ぎ、彼女は赤いドレス姿のまま立ち上がる。白い肌が目を引き、耳たぶに揺れる小さな二粒の真珠が、透き通るような気品をいっそう際立たせていた。

「すみません、このピアノを少しお借りしてもよろしいでしょうか」

演奏していたピアニストへ、彼女は静かに声をかけた。

「どうぞ、ご遠慮なく」

林田知音はピアノ椅子に腰かける。目の前の楽器はかなり年季が入っていたが、手入れは行き届いていた。少なくともこの店の主人が、ピアノをわかっている人間だということは伝わってくる。

鍵盤にそっと指を置き、いくつか音を鳴らす。ぽつり、ぽつりと試し弾きの音がこぼれるだけでも、彼女の技量が確かなものであることは明らかだった。

林田知音はわずかに手首を持ち上げ、目黒雲月を一度だけ見る。目黒雲月もまた、まっすぐ彼女を見つめていた。

それだけで、心臓が不意に速くなる。

やがて音楽が流れ始めると、レストランの空気まで音に合わせて揺らぎ出した。食事を楽しんでいた客たちも、次第にその旋律へ引き寄せられ、そして演奏者の容姿と雰囲気に目を奪われていく。

「どこかで見たことある気がするな……」

そんなささやきが漏れる。

「調べてみればわかるんじゃない?」

だが、林田知音の写真を撮って検索してみても、これといった結果はなかなか出てこない。代わりに、目ざとい誰かが個室に座る目黒雲月に気づいた。

「ちょっと、あれって目黒グループの目黒雲月じゃないか?」

そのひと言で、周囲の視線がにわかに集まる。

「目黒雲月って目黒グループの社長なのに、私生活はかなり表に出ないからな。知り合いに彼を知ってる人がいるけど」

「へえ、目黒グループの社長って、こんなに格好いいんだ。現実で見た中じゃ、張り合えそうなのはクラウドのオーナーくらいかも」

「じゃあ、あのピアノ弾いてる女の人って彼女?」

「いや、違うと思う。少し前に彼女との記事が出てなかった? たしか野呂って名字だったはず」

「検索してみてよ、ほら」

そうして野次馬めいた声があちこちで飛び交う。

「ほら、やっぱり違う。この人じゃない」

「目黒グループの社長って、普段は目立たないのに、私生活は案外複雑なんだな」

「目黒雲月って既婚者でしょう」

「え、結婚してるの?」

「そうそう。でも公の場で結婚について話すことはほとんどないし、家族を連れてどこかに出てくるのも見たことない。奥さんは専業主婦だって、友達から聞いた」

「それなら、あのピアノの人が奥さんってことはないでしょ。あんなにきれいで、しかも才能まである奥さんがいたら、普通は自慢したくなるじゃない?」

そんな細かな囁きは、林田知音の音楽に飲み込まれていった。

音符が彼女の指先から次々とほとばしる。気づけば聴く者の心までも、音楽に合わせて大きく揺さぶられていた。客たちの意識は、くだらない色恋の詮索から離れ、いつしか演奏そのものへと引き戻されていく。

「すごい……この人、めちゃくちゃ上手い」

「本当だ。もうほとんどプロの域だな。少しだけ手が合ってない感じがするのは、このピアノにまだ慣れてないからか」

もともとクラウドレストランに集うのは、川市でも名のある者たちばかりだ。音楽を正しく聞き分けられる人間がいても不思議ではない。

「そこまで気になるなら、挨拶しに行けば? 目黒雲月ってただでさえ近づきにくいし、こういう機会に縁を作っておくのも悪くないだろ」

「やめとけよ。ここはクラウドレストランだぞ。みんな恋人同士で来るような場所なんだし、あれは二人の時間ってやつだろ。今、邪魔するのは野暮だ」

林田知音は音楽に深く沈み込んでいた。指先は鍵盤の上を疾走し、鳴り響く旋律は胸がすくほど鮮烈で、どこか息を呑むような切迫ささえ帯びている。

一曲を弾き終えても、彼女の指先はなお鍵盤に触れたままだった。

解き放たれたあとの爽快感。そのあとに残る、言葉にしがたい空虚。

ふいに、数日前に先輩からかかってきた電話のことが脳裏をよぎる。静まりかけた心が、またざわめき始めた。

やはり彼女は――舞台を、求めている。

そのとき、不意に拍手が響いた。

黒いシャツに端正なスラックスを合わせた男が、ピアノのそばにもたれながら彼女へ拍手を送っている。林田知音は顔を上げ、見知らぬ男と視線を合わせた。自分の演奏を称えてくれているのだと思い、微笑んで立ち上がり、軽く会釈する。

「ありがとうございます」

礼を言った、その直後だった。

整った顔立ちの男がわずかに身をかがめ、彼女のすぐ近くで低く囁く。

「……ずいぶん雰囲気が変わるんだな。危うく気づかないところだった」

その声――妙に聞き覚えがある。それに、このからかうような言い方も。

林田知音はぱちりとまばたいた。気づいたときには、男はもう離れていくところだった。彼女は悔しそうに小さく足を踏み鳴らす。

あの日、廊下で彼女と目黒雲月の会話を盗み聞きしていた、あの医者だ。

苛立ちを覚えたそのとき、背後にもう一人の気配が重なる。いつの間にか近くまで来ていた目黒雲月が、彼女の丸みのある肩をそっと抱いた。

「今の男、誰だ? 知り合いか?」

林田知音は軽く咳払いをして、

「知らない人よ」

「じゃあ、何を話してたんだ?」

「別に。演奏を褒めてくれただけ」

あの男のことは、どうしても口にしたくなかった。思い出せば、病院で味わった屈辱も、野呂家の人間との言い争いも、一緒に蘇ってくる。

今夜だけは、そんな不快なことを何一つ思い出したくない。

目黒雲月は男が去っていった方向へ目をやり、わずかに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。

料理はすでに運ばれてきており、あとはあのムール貝の一皿を残すだけだった。

「どうだ、うまいか?」

目黒雲月は気を利かせてステーキを食べやすく切り分けてくれている。そんな相手に、まずいだなんて言えるはずもない。

「おいしいわ」

「気に入ったなら、これからもまた来よう」

林田知音は一瞬だけ動きを止めたが、何も答えなかった。

目黒雲月は時刻を確認し、唇の端をわずかに持ち上げる。

「知音……」

「なに?」

「窓の外を見て」

不思議に思いながら林田知音が外へ目を向けると、漆黒の夜空に、ぼんやりと無数の光が浮かび始めていた。

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