第10章 須藤篠華もいた

翌日。羽鳥秋葉はどうにも具合が悪く、そのうえ古川母を迎える準備まで重なった。結局アトリエには連絡を入れ、「今日は休みます」とだけ告げた。

別荘に残り、安さんと一緒に家の中を軽く整える。

ところが昼前、古川静弘から電話が入った。

「母さん、別荘には来ないってさ。今夜は古川荘園に戻る」

それを聞いた瞬間、胸の奥がむっとした。苛立ちと、どうしようもなさが入り混じる。

――結局、あの人は「母」を口実にして私を呼び戻したいだけなんじゃないの?

そんな疑いが頭をもたげる。けれど次の瞬間、嫌になるほど冷静な自分が水を差した。

本当に惜しいなら、あのとき私が出ていくのを黙って見送ったりしない。わざわざマンションまで用意して、戻ってこないように逃げ道まで塞いだくせに。

「今夜は荘園で、母さんの前では……」静弘が言いかける。

「わかってる」

秋葉は被せるように遮った。

「仲のいい夫婦のフリでしょ。安心して。三年もやってきたんだから、慣れてる」

静弘は何か言いたげに息を飲んだが、結局それ以上は口にせず、一方的に通話を切った。


夕暮れ。

静弘は秋葉の腕を取り、まるで本当に仲睦まじい夫婦みたいに歩調を合わせて、古川荘園の門をくぐる。

郊外の山と水に抱かれたその屋敷は、古典的な城館のような佇まいで、空気まで静かだった。秋葉は訪れた回数も少なく、玄関へ向かう足取りが自然と硬くなる。

――と。

扉の向こうから、楽しげな笑い声がかすかに漏れた。

秋葉が足を止める。静弘の表情も、驚愕へと変わった。

その声は――須藤篠華。

静弘は秋葉の手をきゅっと握り直し、言い訳めいた口調で急いで言う。

「彼女が来るなんて知らなかった。ただ須藤家とうちは付き合いもあるし、母さんが戻ったばかりで、後輩として挨拶に来るのは当然だろ。変に考えるな」

秋葉は変に考えもしない。考える価値すらない。

さっさとやり過ごしたいだけだ。

須藤篠華がここにいようがいまいが、せいぜい胸焼けが増える程度――それだけ。

リビングに入ると、古川母が上座の椅子に腰かけていた。上質で気品のある装い。六十を越えているはずなのに、手入れの行き届いた肌と姿勢のせいで四十代前半にしか見えない。

その隣には須藤篠華が座り、茶を注いでいる。

篠華もまた、普段とは別人のように仕立てのいい服をまとい、社交界の令嬢らしい空気を纏っていた。

二人の姿を見つけるや否や、彼女はぱっと花が咲くように笑う。

「静弘、秋葉。来たのね!」

その言い方も立ち居振る舞いも、まるでこの家の女主人が彼女であるかのように自然だった。

古川母が目を上げ、まず静弘の顔を一瞬だけ確かめる。すぐに視線は秋葉へと落ちた。

「母さん」静弘が先に口を開く。「戻ったよ」

「スイスの療養院からお帰りになって、少しはお加減よくなられましたか」

秋葉は軽く身をかがめ、控えめに挨拶した。

古川母は小さく頷き、淡々と言う。

「少しはね。座りなさい」

須藤篠華はすぐに立ち上がり、使用人が運んできた茶器を当たり前のように受け取って、にこやかに注いだ。

「静弘も秋葉も、まずお茶をどうぞ。これ、おばさんがスイスから持ち帰ったの。味がちょっと特別なのよ」

そう言って静弘の前に湯呑みを滑らせ、指先がさりげなく彼の手の甲に触れる。

それからようやく、もう一杯を秋葉のほうへ。動きだけはどこまでも優雅だった。

静弘の眉がわずかに寄る。篠華へ向ける視線に、言葉にならない警告が滲んだが、彼は何も言わない。

秋葉は目を伏せ、「ありがとうございます」とだけ返した。ただし、茶には手をつけない。

――妊娠している。茶は避けたい。

「篠華は本当に気が利くわね」

古川母がゆっくり口を開く。笑みを含んだ声。

「私が帰ってきたこと、息子夫婦はまだ知らなかったのに。篠華はもう聞きつけて、こんなに手土産まで持ってきて。長いこと付き合ってくれて」

一見ほめ言葉。けれど、どこか刺のある響きだった。

それでも篠華は気づかない。ちょうどいいタイミングで、従順そうな笑みを作る。

「おばさん、私は小さい頃からおばさんに見守ってもらってきました。孝行するのは当然です」

「それに、静弘はお仕事がお忙しいでしょう? どうしても行き届かないことだってありますし。私みたいな後輩が、少しでも力になれたらって思っただけです」

篠華は甘えるように静弘を一度見て、軽く責める口調を混ぜた。

「おばさんの帰国なんて大事なこと、どうして事前に教えてくれなかったの? 私が情報に強くなかったら、知らないままだったわ」

静弘は秋葉をちらりと見る。彼女が表情を崩していないのを確認して、息をついた。

「古川家のことだ。君を煩わせるわけにはいかないだろ」

「煩わしいわけないじゃない」

篠華はすぐさま言い返し、古川母へ向き直る。

「おばさん、ほら。彼って昔からそうなんです。何でもひとりで背負い込んで」

「私が海外に行く前も、どれだけ大変な時でも何も言ってくれなかった。今は私も戻ってきたんですから、おばさん、ちゃんと叱ってあげてくださいね?」

古川母は静かに聞いているだけだった。時折、茶を一口含む。相槌もない。

篠華は肩透かしを食らったのか、今度は秋葉へ矛先を向ける。

「そういえば、羽鳥嬢って本当に幸せですよね。静弘と結婚できたら、何も心配しなくていいんだもの」

「私は海外で長く暮らして、ようやく帰国して会社に入って……やることだらけで大変です」

「でも秋葉も、もっと静弘を労ってあげないと。グループを任されて、毎日プレッシャーだって相当でしょう? 支えるのは、私たち女の役目なんですから」

遠回しな嫌味。秋葉が夫を支えていない、古川の妻として失格だと、そう言いたいのが透けて見える。

秋葉も遠慮はしなかった。

「須藤部長がそんなに羨ましいなら、お金持ちと結婚なさったらどうです?」

「ご主人と家庭のお世話がそんなにお好きなら、部長なんてやってる場合じゃないでしょう」

須藤篠華の笑みがぴくりと固まる。

「ちょっと、冗談で言っただけよ? 羽鳥嬢、どうしてそんなに攻撃的なの」

「私も冗談ですよ。須藤部長こそ、気にしないでください」

秋葉はにこやかに微笑む。形だけなら、いくらでも作れる。

そして、さらりと追い打ちをかけた。

「ただ……須藤部長、ずっと『羽鳥嬢』って呼びますよね。知らない人が聞いたら、私と静弘がもう離婚したみたいに思うかも」

「普通なら『古川奥さま』じゃありません?」

須藤篠華は言葉を失い、作り笑いすら保てなくなった。

そのやり取りに、静弘の眉間が深くなる。

彼は肘でそっと秋葉に触れ、「もういい」と合図した。それから篠華へ鋭い視線を投げ、口にする。

「篠華。秋葉は最近、少し気が立ってる。言い方がきつくても、悪く取らないでくれ」

篠華の胸中に不満が渦巻く。

静弘が、はっきり秋葉を庇っているからだ。

彼女は泣き落としのように古川母へ縋った。

「おばさん……私、二人のことを心配しただけなのに。二人で組んで、私をいじめるんです」

その瞬間。

古川母が、ぐっと茶杯を置いた。強い音。跳ねた茶が、卓に飛び散る。

リビングの空気が、ぴたりと凍りついた。

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