彼は私を捨てた、だから…

彼は私を捨てた、だから…

ミサキ · 連載中 · 523.4k 文字

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紹介

三年間、名ばかりの古川の妻として、私はひたすら「最も物分かりの良い妻」を演じ続けてきた。破綻寸前だった顧家を羽鳥家が救ってくれた恩義から、大学時代に一目惚れした古川静弘のもとへ嫁いだのだ。

いずれ時が経てば、彼の心も少しは和らぐだろう——そう信じて。

だが、彼のかつての恋人・須藤篠華が帰国した途端、すべては泡沫と消えた。

彼は自ら初恋の女のために帰国祝いのパーティーを開き、私には「会社を手伝ってほしい」と偽りの言葉で呼び出し、邪魔になった途端に追い払った。社内中に飛び交う陰口が、針のように胸に突き刺さる。

そんな矢先、病院から電話が来た。私は彼の子を身ごもっていたのだ。新しい命の訪れを知ったまさにその日に、彼の口からは軽やかに「離婚」の二文字が落とされた。

私はただ、三ヶ月だけの猶予を乞うた——せめて最期の矜持だけは保って去れるように。彼は無関心に頷いた。だが、私が屋敷を出ると、彼は密かに私を最高級のマンションへと移し、監視の目を絶やさなかった。

やがて私は膨らみ始めた腹を隠し通し、たった一人で子を産み育てる決意を固めた。そんな私を、彼は血走った目で部屋の隅に追い詰め、声を震わせた。

「羽鳥秋葉……誰が、俺の子を連れて消えていいと言った」

チャプター 1

「血液検査の結果は明日になります。古川奥さま、今日はお帰りになって休まれてください」

診察室で医師が羽鳥秋葉にそう告げた。

ここ最近、秋葉は吐き気が続いていた。念のため、病院で診てもらおうと思ったのだ。

何か言いかけた、そのとき。スマホの着信音が鳴った。

「どこにいる」

受話口から聞こえたのは古川静弘の声。

「会社の周年パーティー、人手が足りない。来い」

秋葉は一瞬ためらった。体調がよくない、と言いたかった。

けれど電話の向こうでは、わっと歓声が上がっている。何かを祝っているような空気だった。

「みんな残って準備してる。おまえだけ欠席はない」

そう言い捨て、古川静弘は一方的に通話を切った。

秋葉は手にした診療記録を握りしめる。指先がひんやり冷えた。

古川静弘は普段、こういう社員向けの催しに顔を出さない。なのに今日は、なぜこんなに必死なのか。

――それでも、彼女は行った。

この三年、秋葉は古川奥さんという役をきちんと演じてきた。手を抜いたことなど一度もない。

会場に着くと、総務の若い女の子たちが口元を押さえてくすくす笑っていた。

「ほらね、やっぱり来た」

「古川社長の一本の電話がいちばん効く」

「でも気の毒。社長、羽鳥さんのこと掛け名だけの奥さま扱いだし……」

いつもの噂話。秋葉は聞こえないふりをして、まっすぐ古川静弘のほうへ向かった。

古川静弘は落ち着いた足取りで、床まで届く窓の前に立ち、電話をしていた。

濃いグレーのスーツ。すっと伸びた背、広い肩、彫りの深い顔立ち。

秋葉に気づくと、彼は片手を上げて「待て」と合図する。

……気のせいだろうか。あの真剣な表情。相手は、彼にとってよほど大切な人らしい。

しばらく待っても、切る気配はない。

秋葉は諦め、先にホールの様子を見に行くことにした。

その直後、背後から総務の二人の声が聞こえてくる。

「社長、須藤嬢のことほんと大事にしてるよね。風船の色まで好みに合わせるって」

「そりゃそうでしょ。須藤嬢、予定より早く帰ってきたんだって。社長が自分で会場飾りに来たの、サプライズのためらしいよ」

「やば……須藤篠華、羨ましすぎ」

須藤篠華――。

その名前を聞いた瞬間、心臓がきゅっと痛んだ。秋葉の指が無意識に強く握り込まれる。

なるほど。

このパーティーは会社のためじゃない。

古川静弘が三年前、海外留学へ送り出した元恋人――須藤篠華の帰国を祝う会だったのだ。

「羽鳥、なんで来たの?」

同僚が近づいてきた。からかうような目つき。

「古川社長に呼ばれたから」

そう答えたタイミングで、ちょうど古川静弘が通話を終えた。

彼は秋葉を見るなり、淡々と言う。

「もう人手は足りてる。帰っていい」

訳がわからない。でも彼の態度は揺るがない。

秋葉は従うしかなかった。

「……わかりました」

背後の話し声が、さらに鮮明に耳へ刺さる。

「社長、須藤嬢が来て羽鳥がいたら気まずいもんね」

「当時だって、羽鳥の父親が古川家を助けなかったら結婚してないって話だし」

「須藤嬢が戻ってきたら、古川奥さんの座、守れないんじゃない?」

秋葉は表情を崩さなかった。けれど胸の内は、刃物で細かく刺されているみたいに痛い。

結婚してから、古川静弘はずっと冷たかった。

それでも信じていた。自分が従順でいれば、いつか振り向いてくれるはずだ、と。

なのに元恋人の帰国。その一報だけで、また自分は笑いものになる。

ビルを出ると、空気が一段と冷えていた。

秋葉は上着の前を合わせる。すると、また吐き気がせり上がってきた。

そのとき、スマホが鳴った。病院からだ。

「奥さま、血液検査の結果が早く出ました」

医師の声が弾んでいる。

「おめでとうございます。妊娠です。8週ですね。よく休んでください。特に最初の3か月は――」

それ以上、耳に入らなかった。

頭の中で、ぶわん、と音が鳴った。夢みたいだ。

――妊娠。

古川静弘との、子ども。

秋葉は反射的に下腹へ手を当てた。気づけば涙が滲んでくる。

神様は、彼女を笑っているのだろうか。

須藤篠華が帰国した、その矢先に妊娠だなんて。

でも、静弘はこの子を受け入れるのだろうか。

帰り道、胸の奥がずっと落ち着かない。

どう伝える? どう言えばいい?

静弘が知ったら、喜ぶだろうか。

――夜11時。

古川静弘が帰宅した。

リビングは暗い。彼が上着を脱ぐと、ソファの隅に丸くなった人影が見えた。

羽鳥秋葉だった。

両手で下腹を押さえ、額には冷や汗がびっしり。

静弘の胸がきゅっと縮む。彼は足早に駆け寄った。

「秋葉、どうした」

返事はない。痛みに肩が小さく震える。

「どこが辛い?」

静弘はしゃがみ込み、額に手を当てた。熱い。

「病院へ行く」

「……いらない」

秋葉がようやく目を開ける。声はかすれていた。

「胃が痛いだけ。引き出しに薬が……」

静弘は薬箱を探り、胃薬を見つけるとぬるま湯も用意した。

彼が支えて秋葉を起こし、錠剤を飲み込むのを見届ける。眉間にしわが寄ったまま。

「具合悪いのに、なんでパーティーに行った」

責めているのか、心配しているのか。判別できない声音。

「人手が足りたら帰っていいって言っただろ?!」

秋葉は目を閉じる。顔色は真っ白だ。

「……私に来てほしかったんじゃないの?」

静弘は視線を逸らし、硬く言った。

「古川奥さんとして、いるべき場だ」

「須藤篠華の歓迎会のために、私が大人のふりして出ていかなきゃいけないってこと?」

口にした瞬間、秋葉は後悔した。

こんなにみっともなく嫉妬したくなかった。それでも、止められなかった。

――お腹には赤ちゃんがいるのに。

その父親は、別の女のために歓迎会を取り仕切っている。

気にしないなんて、無理だ。

古川静弘の顔が険しくなる。

「どうしてそれを知ってる」

秋葉は苦く笑った。

「知らないほうがよかった? そう言いたいの?」

薬が効きはじめ、痛みが少し引いていく。

自分でも後ろめたかったのか、静弘は彼女の背に手を回し、そっと撫でた。

「……もういい。機嫌を直せ」

彼がこんなふうに優しくするのは珍しい。そのわずかな優しさに、秋葉の意識が揺らぐ。

妊娠のせいで、彼女はいつにも増して脆くなっていた。声も力がない。

だが静弘の目には、それが妙に艶めいて映ったのだろう。

「古川静弘……今日は、私……」

秋葉が小さく言いかけた、そのとき。

彼の手が肩から背へ、そして腰へ滑っていく。

耳元に吐息。微かに酒の匂い。

「まだ胃、痛いか?」

低い声。指先が腰のあたりを撫でた。

秋葉の体が硬直する。

――赤ちゃん。お腹に赤ちゃんがいる。医師も言っていた。初期は特に気をつけろと。

「だめ……だめ!」

秋葉は彼の手を押さえつけた。

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ふん、今さら一体、何の真似のつもりかしら。