紹介
いずれ時が経てば、彼の心も少しは和らぐだろう——そう信じて。
だが、彼のかつての恋人・須藤篠華が帰国した途端、すべては泡沫と消えた。
彼は自ら初恋の女のために帰国祝いのパーティーを開き、私には「会社を手伝ってほしい」と偽りの言葉で呼び出し、邪魔になった途端に追い払った。社内中に飛び交う陰口が、針のように胸に突き刺さる。
そんな矢先、病院から電話が来た。私は彼の子を身ごもっていたのだ。新しい命の訪れを知ったまさにその日に、彼の口からは軽やかに「離婚」の二文字が落とされた。
私はただ、三ヶ月だけの猶予を乞うた——せめて最期の矜持だけは保って去れるように。彼は無関心に頷いた。だが、私が屋敷を出ると、彼は密かに私を最高級のマンションへと移し、監視の目を絶やさなかった。
やがて私は膨らみ始めた腹を隠し通し、たった一人で子を産み育てる決意を固めた。そんな私を、彼は血走った目で部屋の隅に追い詰め、声を震わせた。
「羽鳥秋葉……誰が、俺の子を連れて消えていいと言った」
チャプター 1
「血液検査の結果は明日になります。古川奥さま、今日はお帰りになって休まれてください」
診察室で医師が羽鳥秋葉にそう告げた。
ここ最近、秋葉は吐き気が続いていた。念のため、病院で診てもらおうと思ったのだ。
何か言いかけた、そのとき。スマホの着信音が鳴った。
「どこにいる」
受話口から聞こえたのは古川静弘の声。
「会社の周年パーティー、人手が足りない。来い」
秋葉は一瞬ためらった。体調がよくない、と言いたかった。
けれど電話の向こうでは、わっと歓声が上がっている。何かを祝っているような空気だった。
「みんな残って準備してる。おまえだけ欠席はない」
そう言い捨て、古川静弘は一方的に通話を切った。
秋葉は手にした診療記録を握りしめる。指先がひんやり冷えた。
古川静弘は普段、こういう社員向けの催しに顔を出さない。なのに今日は、なぜこんなに必死なのか。
――それでも、彼女は行った。
この三年、秋葉は古川奥さんという役をきちんと演じてきた。手を抜いたことなど一度もない。
会場に着くと、総務の若い女の子たちが口元を押さえてくすくす笑っていた。
「ほらね、やっぱり来た」
「古川社長の一本の電話がいちばん効く」
「でも気の毒。社長、羽鳥さんのこと掛け名だけの奥さま扱いだし……」
いつもの噂話。秋葉は聞こえないふりをして、まっすぐ古川静弘のほうへ向かった。
古川静弘は落ち着いた足取りで、床まで届く窓の前に立ち、電話をしていた。
濃いグレーのスーツ。すっと伸びた背、広い肩、彫りの深い顔立ち。
秋葉に気づくと、彼は片手を上げて「待て」と合図する。
……気のせいだろうか。あの真剣な表情。相手は、彼にとってよほど大切な人らしい。
しばらく待っても、切る気配はない。
秋葉は諦め、先にホールの様子を見に行くことにした。
その直後、背後から総務の二人の声が聞こえてくる。
「社長、須藤嬢のことほんと大事にしてるよね。風船の色まで好みに合わせるって」
「そりゃそうでしょ。須藤嬢、予定より早く帰ってきたんだって。社長が自分で会場飾りに来たの、サプライズのためらしいよ」
「やば……須藤篠華、羨ましすぎ」
須藤篠華――。
その名前を聞いた瞬間、心臓がきゅっと痛んだ。秋葉の指が無意識に強く握り込まれる。
なるほど。
このパーティーは会社のためじゃない。
古川静弘が三年前、海外留学へ送り出した元恋人――須藤篠華の帰国を祝う会だったのだ。
「羽鳥、なんで来たの?」
同僚が近づいてきた。からかうような目つき。
「古川社長に呼ばれたから」
そう答えたタイミングで、ちょうど古川静弘が通話を終えた。
彼は秋葉を見るなり、淡々と言う。
「もう人手は足りてる。帰っていい」
訳がわからない。でも彼の態度は揺るがない。
秋葉は従うしかなかった。
「……わかりました」
背後の話し声が、さらに鮮明に耳へ刺さる。
「社長、須藤嬢が来て羽鳥がいたら気まずいもんね」
「当時だって、羽鳥の父親が古川家を助けなかったら結婚してないって話だし」
「須藤嬢が戻ってきたら、古川奥さんの座、守れないんじゃない?」
秋葉は表情を崩さなかった。けれど胸の内は、刃物で細かく刺されているみたいに痛い。
結婚してから、古川静弘はずっと冷たかった。
それでも信じていた。自分が従順でいれば、いつか振り向いてくれるはずだ、と。
なのに元恋人の帰国。その一報だけで、また自分は笑いものになる。
ビルを出ると、空気が一段と冷えていた。
秋葉は上着の前を合わせる。すると、また吐き気がせり上がってきた。
そのとき、スマホが鳴った。病院からだ。
「奥さま、血液検査の結果が早く出ました」
医師の声が弾んでいる。
「おめでとうございます。妊娠です。8週ですね。よく休んでください。特に最初の3か月は――」
それ以上、耳に入らなかった。
頭の中で、ぶわん、と音が鳴った。夢みたいだ。
――妊娠。
古川静弘との、子ども。
秋葉は反射的に下腹へ手を当てた。気づけば涙が滲んでくる。
神様は、彼女を笑っているのだろうか。
須藤篠華が帰国した、その矢先に妊娠だなんて。
でも、静弘はこの子を受け入れるのだろうか。
帰り道、胸の奥がずっと落ち着かない。
どう伝える? どう言えばいい?
静弘が知ったら、喜ぶだろうか。
――夜11時。
古川静弘が帰宅した。
リビングは暗い。彼が上着を脱ぐと、ソファの隅に丸くなった人影が見えた。
羽鳥秋葉だった。
両手で下腹を押さえ、額には冷や汗がびっしり。
静弘の胸がきゅっと縮む。彼は足早に駆け寄った。
「秋葉、どうした」
返事はない。痛みに肩が小さく震える。
「どこが辛い?」
静弘はしゃがみ込み、額に手を当てた。熱い。
「病院へ行く」
「……いらない」
秋葉がようやく目を開ける。声はかすれていた。
「胃が痛いだけ。引き出しに薬が……」
静弘は薬箱を探り、胃薬を見つけるとぬるま湯も用意した。
彼が支えて秋葉を起こし、錠剤を飲み込むのを見届ける。眉間にしわが寄ったまま。
「具合悪いのに、なんでパーティーに行った」
責めているのか、心配しているのか。判別できない声音。
「人手が足りたら帰っていいって言っただろ?!」
秋葉は目を閉じる。顔色は真っ白だ。
「……私に来てほしかったんじゃないの?」
静弘は視線を逸らし、硬く言った。
「古川奥さんとして、いるべき場だ」
「須藤篠華の歓迎会のために、私が大人のふりして出ていかなきゃいけないってこと?」
口にした瞬間、秋葉は後悔した。
こんなにみっともなく嫉妬したくなかった。それでも、止められなかった。
――お腹には赤ちゃんがいるのに。
その父親は、別の女のために歓迎会を取り仕切っている。
気にしないなんて、無理だ。
古川静弘の顔が険しくなる。
「どうしてそれを知ってる」
秋葉は苦く笑った。
「知らないほうがよかった? そう言いたいの?」
薬が効きはじめ、痛みが少し引いていく。
自分でも後ろめたかったのか、静弘は彼女の背に手を回し、そっと撫でた。
「……もういい。機嫌を直せ」
彼がこんなふうに優しくするのは珍しい。そのわずかな優しさに、秋葉の意識が揺らぐ。
妊娠のせいで、彼女はいつにも増して脆くなっていた。声も力がない。
だが静弘の目には、それが妙に艶めいて映ったのだろう。
「古川静弘……今日は、私……」
秋葉が小さく言いかけた、そのとき。
彼の手が肩から背へ、そして腰へ滑っていく。
耳元に吐息。微かに酒の匂い。
「まだ胃、痛いか?」
低い声。指先が腰のあたりを撫でた。
秋葉の体が硬直する。
――赤ちゃん。お腹に赤ちゃんがいる。医師も言っていた。初期は特に気をつけろと。
「だめ……だめ!」
秋葉は彼の手を押さえつけた。
最新チャプター
#188 第188章 須藤篠華の暴走
最終更新: 9/28/2026#187 第187章 須藤篠華の真の姿
最終更新: 9/28/2026#186 第186章 古川静弘の詰問
最終更新: 9/28/2026#185 第185章 千八百余りの夜
最終更新: 9/28/2026#184 第184章 説明
最終更新: 9/28/2026#183 第183章 証拠
最終更新: 9/28/2026#182 第182章 対峙
最終更新: 9/28/2026#181 第181章 失望
最終更新: 9/28/2026#180 第180章 調査結果
最終更新: 9/28/2026#179 第179章 古川静弘の疑念
最終更新: 9/28/2026
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