第11章 妊娠してるの?

古川母ほどの品格がある女性が、うっかり手元を狂わせてお茶をこぼすはずがない。

あり得るのはただ一つ――わざとだ。

「須藤篠華」

呼び声は低く、静かで、どこか威を帯びていた。けれどその場にいる誰もが分かった。彼女は怒っている。

「あなたの気持ちは受け取っておきます。でも、あの夫婦がどう付き合おうが、他人が口を挟むことじゃありません」

「それにあなた、まだ未婚の娘でしょう。妻のいる男性といつも一緒にいるなんて、みっともないと思わないの?」

「いい年して、陰口を叩かれるのが怖くないの? ご家庭で教わらなかったのかしら」

遠回しですらない。須藤篠華には家の躾もない、と面と向かって言っているのと同じだった。

須藤篠華の顔が、かっと赤くなる。目尻もみるみる熱を帯びた。

信じられないという顔で古川母を見つめる。

「おばさん……わたし、いつも静弘さんと一緒にいるわけじゃありません。それに、うちは昔から親しくしてきたのに……どうしてそんな言い方を……」

古川母は鼻で笑った。

須藤篠華の卑しい魂胆など、見抜けないはずがない。

息子に取り入り、夫婦の仲を壊そうとしておきながら、いまさら無垢な顔?

容赦はなかった。

「その薄汚い下心、自分が一番よく分かってるでしょう。今日はご両親の前でも、私は同じことを言います」

声音が一段と鋭くなる。

「年は取ったけれど、目はまだ曇ってないの。二人は法律で認められた夫婦よ。あなたは何?」

「はっきり言っておくわ。私が生きている限り、古川家の嫁は秋葉だけです」

「須藤家も名門のはず。礼儀とけじめくらい、ご両親から教わっているでしょう」

「いちいち私が教える気はないわ。今後は分を弁えなさい」

須藤篠華は完全に固まった。顔色が赤から白へ、白から赤へと忙しく変わる。

須藤家の面子まで踏みにじるつもりだなんて、思ってもみなかったのだろう。

涙を滲ませ、唇を噛み、縋るように古川静弘を見る。

古川静弘が唇を動かしかけた。

「母さん、篠華は……」

「黙りなさい!」

古川母の一喝が飛ぶ。

「あなたのことだってまだ言い足りない! 自分が何をしてきたか分かってるの? 私があの下品な噂を聞いてないとでも思った? 古川家の顔に泥を塗って……!」

その叱責で、リビングは一瞬にして凍りついた。

使用人たちは揃って俯き、息をするのさえ憚る空気になる。

古川静弘は口を結び、視線を落としたまま、もう何も言わなかった。

須藤篠華は血の気を失い、唇を震わせ、ついに涙をこぼす。

いつもはそれなりに優しかった古川母が、ここまで情け容赦なく叱り飛ばすなんて。

しかもこれだけ人がいる前で――羽鳥秋葉までいるのに。

そして何より、古川静弘が、彼女のために一言も言わない。

須藤篠華は両手で顔を覆い、しゃくり上げても、言葉にならなかった。

普段なら、古川静弘は彼女の涙にすぐほだされる。だが今は、理由もなく胸の内がむしゃくしゃするだけだった。

「篠華……今日は帰れ。今は……ちょっと都合が悪い」

やんわりした追い出しだ。

須藤篠華は雷に打たれたように固まった。彼まで自分を追い払うなんて。

顔を押さえたまま嗚咽を漏らし、手元のバッグを掴むと、足音も荒くリビングを飛び出していった。

羽鳥秋葉は、目の前の光景が信じられなかった。

古川母が、ここまで自分を庇うなんて。

けれどそれは、別の苦しさも連れてくる。

数か月後、彼女は古川静弘と離婚するつもりだ。

もし古川母が許さなかったら?

須藤篠華と古川静弘に、これから先ずっと胸を汚され続けるのか。

そう思っただけで気分が塞ぎ、夕食の味も分からなくなる。

古川母は礼儀作法に厳しい貴婦人だ。

スープを啜らない。ナイフとフォークを鳴らさない。口に入れたものは、どれほど不味くても吐き出さない。

「秋葉」

不意に名を呼ばれ、羽鳥秋葉は慌てて口の中のものを飲み込んだ。

目上と話すとき、口に食べ物を残したまま返事をしない――それもまた、守るべき作法。

古川母は心配そうに眉を寄せる。

「顔色が真っ青よ。具合が悪いの? お医者さまには診てもらった?」

胸がどくん、と跳ねる。何かを見抜かれそうで怖い。

「もう診ました。大したことはないって……最近ちょっと疲れてるだけだと思います」

それでも古川母は腑に落ちない様子だった。

「変ね。あのエスカルゴのグラタン、あなたの好物でしょう? 一口も手をつけてないじゃない」

羽鳥秋葉は手のひらに汗が滲むのを感じ、ナイフとフォークをそっと置いた。

「最近、胃腸の調子が良くなくて。先生に、こういうものは控えた方がいいって言われました」

古川母は、どこか納得していない。

女として、似た経験がある。だからこそ、思い当たるところがあるのだろう。

眉がわずかに上がり、機嫌が少しだけ和らいだ。口元に柔らかな笑みが浮かぶ。

「そう……なら、しっかり養生しなさい。軽く考えちゃだめよ」

古川母は使用人へ手招きした。

「奥さま、ご用でしょうか」

「私の栄養士に連絡して。明日、邸に来させて秋葉のための食事プランを組ませるわ」

「それから、スイスから持ち帰ったサプリメントがたくさんあるの。秋葉に合いそうなものを選んで別宅へ持たせて」

「それと、秋葉の体調が良くないなら、静弘。腕の立つ人を手配して、アトリエの仕事を少し手伝わせなさい」

羽鳥秋葉は目を見開き、慌てて首を振る。

「お義母さま、アトリエのことは――」

「いい子だから、言うことを聞きなさい」

古川母が遮る。

「まず身体よ。若いんだからって無理をして、私みたいに年がら年中療養所暮らしになったらどうするの」

ここまで決められてしまえば、これ以上断るのは無作法だ。

羽鳥秋葉は胸の奥で小さく息をつき、黙って受け入れた。

上の空のまま食事を続けていると、ふいに、何がきっかけか分からないまま胃がきゅっと痙攣した。

眉間に皺が寄る。吐き気を押し込めようとするが、込み上げるものが強すぎて耐えられない。

「失礼します」の一言すら間に合わない。

羽鳥秋葉は椅子を引いて立ち上がり、よろめくように洗面所へ駆け込み、そのまま吐いた。

リビングに残された全員が呆然とする。

古川母は驚くというより、確信を深めた顔だった。

古川静弘だけが、羽鳥秋葉の消えた方向を、沈んだ目で見つめている。

吐き終えた羽鳥秋葉は、胸騒ぎを抱えたまま外へ出た。

途端に視線が突き刺さる。全員の目が、自分に集まっていた。

なかでも古川静弘の視線は、まるで内側まで見透かすようで――逃げ場がない。

彼は、ようやく異変に気づいたのだ。

このところ頻繁な嘔吐。苛立ちやすさ。変わった食の好み。

「秋葉……妊娠してるのか?」

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