第8章 すっぱりした報復

冷たく粘つく液体が一瞬でスーツのジャケットとロングスカートを濡らし、あっという間に染み込んだ。

布地は肌にぴたりと貼りつき、羽鳥秋葉はみっともないほど狼狽した姿になる。

「きゃっ! ごめんなさい! 羽鳥さん、本当にわざとじゃないんです!」

ようやく体勢を立て直した須藤篠華は、顔に残る動揺も消えないまま、慌ててグラスを置く。ティッシュを引き抜き、秋葉の身体を拭こうと手を伸ばした。

「まあ……こんなになっちゃって、どうしましょう」

「その格好じゃ取引先に会えないじゃない。はあ、私ってほんとバカ……」

「静弘にさっき『任せた』って言われたばっかりなのに。最悪、恥ずかしい……羽鳥さん、怒らないですよね?」

口では謝っている。けれど声はどこか弾んでいた。

周囲の視線がじわりと集まる。濡れて汚れた秋葉を見て、ひそひそと指をさし合う者まで出てきた。視線も表情も、ばらばらだ。

秋葉の頭の中がぶわん、と鳴る。

人前で恥をかくことより――この状態で、どうやって取引先に会えばいい?

「大丈夫です」

秋葉は息を整え、言葉を選んだ。

「須藤部長もわざとじゃないでしょうし。理解しています」

須藤篠華は、予想外だったのか一瞬きょとんとする。

「でも、どうするんです? そんなみっともない格好でお客さまに会うんですか?」

「運転手さんに頼んで新しい服を買ってきてもらいましょうか。羽鳥さんのサイズ、私わからないけど……下着まで濡れてますよね?」

さっきまでの「申し訳なさ」は消え、言葉の一つひとつに、白々しい悪意が滲んだ。

秋葉の胸に、かっと熱いものがせり上がる。

そのとき、反対側から男の声が飛んできた。

「篠華、どうした?」

秋葉の肩がぴくりと固まる。振り向けなかった。

古川静弘が長い脚で近づいてくる。眉間には薄い皺。ラフな装いだが、須藤篠華の服とどこか「揃い」になっている。色も、細かなデザインも。まるで――恋人同士のペア。

秋葉は横顔だけ向けた。何度も、気にするなと言い聞かせてきたはずなのに。

須藤篠華は頼れるものを見つけたように、半歩前へ出る。甘えるような声音で、静弘の肩を軽く叩いた。

「静弘のせいよ。私を一人にするから……それで、さっき私、うっかり羽鳥さんにお酒こぼしちゃった」

「羽鳥さん、取引先に会うのに……私、やらかしちゃったかも」

親しさを隠す気もない距離感。事情を知らない者が見れば、夫婦は彼らのほうだと勘違いするだろう。

「それ俺のせいか? まあ……事故だろ。そんなに気にすんな」

静弘の視線は、秋葉の濡れた服にほんの一秒だけ落ちて、すぐに離れた。眉がわずかに寄る。

「秋葉、取引先に行くのはいつだ? 人に買わせて、着替え用意させる。篠華も悪気はない」

誰が隣にいて、誰が弾かれているのか――見ればわかる。

冷たい酒が布を抜けて、心臓の奥にまで染み込んでくるようだった。指先が痺れ、感覚が薄くなる。

秋葉は伏し目がちになり、静弘の目を避ける。同時に、込み上げてきた酸っぱさも隠した。

顔を上げたとき、そこに残っていたのは静かな距離だけ。

「お気遣いなく、古川さん」

声は大きくない。けれど、はっきり通った。

「自分で対処します」

秋葉は、さっき頼んだ飲み物を手に取ると、そのまま須藤篠華の頭からぶちまけた。

「失礼。須藤部長、手が滑りました」

須藤篠華が固まる。

粘度のあるフルーツジュースが、丹念に巻かれた髪を伝い、首筋へ、胸元へととろりと流れ落ちる。

状況を理解した瞬間、須藤篠華は悲鳴を上げた。さっきまでの媚びた顔は粉々に崩れ、優雅さなど投げ捨てて喚き散らす。

「頭おかしいんじゃないの?!」

ティッシュを掴み、必死に拭こうとする。

静弘も、秋葉がここまでやり返すとは思っていなかったのだろう。眉をきつく寄せ、須藤篠華の前に立って庇う。

「羽鳥秋葉、何してる!」

秋葉は空になったカップを置き、眉を上げる。平然としたまま。

「さっき言いましたよね。手が滑ったって。須藤部長の『うっかり』は事故で、私の『手が滑った』は故意なんですか?」

「それとも、須藤篠華のうっかりは許して、私の手滑りは許さない? 二重基準、露骨すぎません?」

静弘は言葉に詰まる。

馬鹿ではない。秋葉が「須藤篠華はわざとだ」と言っているのは分かる。

「こじつけだ!」

「見てください!」

須藤篠華がようやく立て直し、泣き声混じりで静弘に縋った。

「私、ちゃんと謝ったのに……こんなことするなんて! このワンピースだって、この前あなたがイタリアで――」

「いい加減にしろ」

静弘が遮った。声が冷えた。

大勢の前でここまで騒げば、みっともない。

彼は時間を確認し、それから秋葉を見る。

「とにかく先に――取引先のほうは……」

「言いました。私のことは、古川さんに気を遣ってもらう必要ありません」

秋葉は、もうここにいたくなかった。息をするだけで吐き気がする。

結局、彼女は汚れたまま取引先に会った。

相手は軽く二言ほどからかっただけで、それ以上は何も言わない。契約も滞りなくまとまった。

ホテルを出るころには、空はもう夕暮れ色だった。

秋葉はふう、と息を吐く。下腹がじくじく痛み、胃の中が空っぽのまま、むかむかする。

車を呼び、マンションへ戻ることにした。

走り出してすぐ、スマホが鳴る。知らない番号。

迷ってから通話を取る。

「……もしもし?」

「俺だ」

古川静弘の声。感情が読めない。

そういえば以前、彼の番号はブロックした。番号を変えてまでかけてくるなんて、ろくな用件じゃない。

「午後の件なら、私は『手が滑った』って謝りましたけど」

電話の向こうで、二秒ほど沈黙が落ちた。静弘が息を吸った気配。

「それじゃない。今どこだ」

「ご報告します、古川さん。私の住まいに戻ってる途中です」

皮肉を噛ませた返事に、静弘は構わず言う。

「今は帰るな。迎えに行く。話がある」

秋葉は眉を寄せた。

「電話じゃだめなんですか?」

「会って話す」

静弘は付け足す。

「俺たちの“取り決め”の件だ」

取り決め――残り三か月の、名ばかりの夫婦関係のこと?

いや、今はもう……二か月と十五日。

けれど静弘の声音は硬い。重要な話なのだろう。

秋葉は疲れた指でこめかみを揉み、運転手に謝って行き先を変更した。

「さっきのホテルに戻ります。来てください」

二十分後。秋葉は、さきほど商談を終えた部屋で静弘と向かい合っていた。

彼は午後よりもずっと苛立って見える。

「座ってください」

秋葉は向かいの席を示す。

静弘は、秋葉の青白い顔と目の下の影に視線を留め、わずかに目を動かした。

「この前の検査、結果はどうだった」

「問題ありません。要件だけ言ってください。私、疲れてて……帰って休みたいんです」

静弘が小さく息を吐く。

「母がスイスの療養先から戻ってきた。今日の午後に着いた」

「……母は、俺たちが離婚することを知らない」

秋葉は一瞬、言葉を失う。

静弘の母はここ数年ずっと体調が悪く、スイスで療養していた。会う機会は少なく、秋葉も詳しくは知らない。ただ――記憶の中では、息子の妻としての自分をそれなりに認めてくれていた。

「それで?」

秋葉は問い返す。

「……何を、私にしてほしいんですか?」

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