第9章 車内のキス
「母も年を取りましてね。家の平穏が何より大事なんです。今回戻ってきたのも、いくつか耳にしたらしくて」
古川静弘は湯気の立つ湯呑みを持ち上げ、指先にわずか力を込めた。
「俺と篠華のことだ。母は俺たちが一緒になるのを強く反対してる。古川家の名に傷がつく、って」
羽鳥秋葉は、胸の奥で乾いた笑いが鳴った。
「私たちのこと、今さら隠す必要もないんじゃない? お義母さんには」
秋葉は静かに言う。
「どうせ、三か月後には……」
「三か月後は三か月後だ」
古川静弘が遮った。
「でも今は駄目だ。母は体が弱いし、感情を揺さぶられると危ない。もうすぐ離婚するなんて知ったら……耐えられないかもしれない」
彼は秋葉を見つめ、わずかに息を吸う。
「だから、母の前では――俺たちは仲のいい夫婦でいないといけない。少なくとも、母が帰るまでは」
羽鳥秋葉の心が、すうっと冷え切った。
だから彼が慌ててここへ来たのは、須藤篠華のためでも、午後の自分の惨めさを気にかけたからでもない。母親のため。
彼にとって必要なのは、羽鳥秋葉ではなく――古川奥さんという肩書きだ。
年上を安心させ、体裁の「円満」を守るための、都合のいい役。
疲れた。うんざりした。息をするのも面倒なくらい。
この三年、よく耐えたものだと、自分でも信じられない。
「それ、楽しいの? 一か月騙せたとしても、一生は無理でしょ。いずれ知る」
「隠せるうちは隠す」
古川静弘の声がふっと柔らかくなる。懇願が混じった。
「母の体調が落ち着いて、スイスに戻ってから……そのとき、ゆっくり話そう。な?」
秋葉は口角を引きつらせた。こみ上げるのは皮肉だけ。
「仲良し夫婦のふりをしろって? 今日の昼みたいに、あなたが須藤篠華と一緒にいるのを見て……それでも私が笑って、大人の対応をしろってこと?」
古川静弘は眉間に深いしわを刻む。
「篠華の件は、俺が片をつける」
それから、言い放った。
「とにかく今は、別荘に戻れ。明日、母が“俺たち”の様子を見に来る」
「嫌よ」
羽鳥秋葉はハンドバッグをつかみ、立ち上がる。
「協議書の一部だ」
古川静弘も立ち上がった。
「三か月の間、おまえは古川奥さんだ。役目が必要な場面――うちの家族の対応も含めて、拒否する権利はない。拒否するなら、協議は破棄だ」
彼は距離を詰める。
「離婚したいんだろ? 俺に協力しないなら、俺だって離婚に同意しない」
脅しだった。
午後の光景が、ぱっぱっと脳裏に点滅する。怒る力すら残っていなかった。
考えてみれば、最初から最後まで――自分に「嫌だ」と言える資格なんて、あっただろうか。
この先もずっと、こんなふうに吐き気のする思いをし続けるのか。
羽鳥秋葉は目を閉じた。こぶしを握り、そしてほどく。
「……分かった。戻る」
古川静弘が、ほっと息を吐く。
「今夜のうちに。あとで秘書を行かせる、荷造りを手伝わせる。細かい話は明日だ」
秋葉はうなずくしかなかった。
ホテルを出て、古川静弘は自ら車を出し、彼女をマンションへ向かわせた。
車内は、重い沈黙が続いた。
羽鳥秋葉は限界だった。乗り込む前から何度かえづき、額には冷や汗がにじむ。助手席にもたれるようにしているうちに、いつの間にか意識が落ちた。
車が小さく揺れ、彼女の頭が横に傾く。
古川静弘は横目で見て、こんな寝方じゃ首がつらいだろうと思った。
実際、眠りは浅そうだった。
眉根がかすかに寄り、化粧も崩れて目の下の影が濃い。唇のルージュもほとんど落ちている。
その顔を見ていると、なぜだか胸の奥に張りつめていた糸が、誰かにそっと弾かれた気がした。
赤信号で停まったとき、彼は一瞬迷ってから身を乗り出し、そっと彼女の頭を支えて角度を変える。少しでも楽な位置へ。
彼の手のひらの中で、秋葉の頬がこすれる。毛の柔らかい小動物みたいに。
古川静弘は、知らず笑っていた。
今まで気づかなかった。羽鳥秋葉は……案外、可愛い。
眠っているのに、睫毛が小さく震えている。
そう思った瞬間、胸のどこかが勝手に動いた。得体の知れない力に引かれるみたいに、彼は口元をゆるめ、彼女へ顔を近づけ――
ぱちり。
濃く巻いた睫毛が跳ね上がり、羽鳥秋葉の澄んだ瞳が、ぼんやりと彼を映した。
「……何するの」
掠れた声。
古川静弘の口角が、すっと冷える。
――そうだ。俺は何をしている。
自分たちは所詮、形だけの夫婦だ。
「着いた」
古川静弘は冷えた声で言う。
「上がって片づけろ。秘書はもうすぐ来る」
羽鳥秋葉はシートベルトを外して降りると、彼を振り返りもしなかった。
荷物をまとめ、別荘へ戻るころには外はすっかり夜だった。
鉄門が、ちん、と小さな音を立てて左右へ開く。
噴水の脇を車がすべり、見慣れた車道と庭が、淡い暖色の灯りに包まれている。どこまでも穏やかで、温かな「家庭」の景色。
けれど秋葉の胸は、巨石を押し当てられたように重かった。息苦しくて仕方がない。
秘書が先回りしてスーツケースを運び入れており、執事の安さんが玄関で待っていた。秋葉が降りると、すぐに一礼して近づく。
「奥様、お帰りなさいませ。旦那様、夕食はご用意できておりますが、すぐお食事になさいますか」
「いや、あとでいい」
古川静弘は秋葉の顔色を見て、不調を察した。
「安さん。奥様を先に部屋へ。消化のいい夜食を、別で用意して」
「かしこまりました」
安さんはうなずき、秋葉へ向き直る。
「奥様、お部屋は整えております。ほかに必要なものはございますか」
「客室を用意して。私は客室で寝る」
羽鳥秋葉はそれだけ言い、奥へ進む。
安さんが目を丸くする。古川静弘は苛立ったように声を荒げた。
「おい……!」
乱暴に手を振り払う。
「いい。好きにしろ。客室に住みたいなら住め。俺が頼んでるとでも思ったか」
客室は二階の廊下の突き当たり。主寝室ほど広くはないが、整っていて静かだった。
安さんが使用人に指示して掃除をさせ、真新しいリネンに替える。
「奥様……旦那様は、奥様のことを気にかけていらっしゃいますよ」
「このところ休めていないだろうと、寝室には安眠用のアロマキャンドルまで用意して。夕食も奥様のお好みに合わせるよう言いつけておられました」
「せっかくお戻りになったのですから、わざわざ角を立てなくても……」
シーツを整えながら、安さんは諭すように言った。
羽鳥秋葉は、かろうじて笑った。説明はしない。
――今の体で、そういうことは無理だなんて言えるはずがない。
それに、古川静弘は欲に関して、いつも荒っぽい。
安さんが善意で言ってくれているのも分かる。適当に相づちを打って、話を終わらせた。
慣れないベッドに替わったせいか、その夜も眠りは浅い。
うつらうつらしていると、誰かがベッドの前に立っている気配がした。
重く沈んだ視線が、自分を見下ろしている。
妊娠してからずっと眠りが安定しない。だから深く考えなかった。
――夢だろう。きっと。そう思った。
