第1章
イヴリン視点
ジェーン――義妹の誕生日パーティーの夜、私は冷たい海に沈みかけて、死にかけた。
ヨットが傾き、耳を裂く警報が鳴り響いた瞬間。父は震えるジェーンを抱き上げると、振り返りもせず甲板へ駆けた。母は取り乱しながら、ジェーンのラグドールを抱えて、護衛に守られつつ後を追った。
猫まで連れて行った。
なのに――実の娘は、沈みかけた船室に置き去り。
三日後。全身に傷を負ったまま、私は家に戻った。
屋敷のリビングにはアロマキャンドルが灯り、三段のバースデーケーキが据えられている。軽やかなピアノの音と笑い声が重なり合い――彼らはジェーンの誕生日会をやり直していた。「家族」が生き延びたことを祝うために。
――私が大きな玄関扉を押し開けたとき、目に入ったのは、その光景だった。
母のエレノアは優しくジェーンの髪を撫でている。その仕草を、私は一度も向けられたことがない。 父のアーサーはシャンパンを手に、客たちへ微笑みかけた。
「神に感謝しよう。私たち家族は、みな無事だ」
ジェーンは、あの忌々しいラグドールを抱きしめ、涙を浮かべて言った。
「ほんとに怖かった……でも、お父さんとお母さんが守ってくれてよかった」
私は玄関口に立ち尽くしたまま、ずぶ濡れだった。髪からはぽた、ぽたと水が落ちる。破れた救命胴衣の下には、青あざと血のかさぶただらけの肌。頬に走るガラス片の切り傷が、じん、と疼いた。
笑いたい。
本気で、笑いたい。
「……お、お嬢様! イヴリン様!」
執事の悲鳴のような声。
ピアノの音がぷつりと途切れ、視線が一斉にこちらへ刺さった。
誰もが固まっている。出るはずのない幽霊でも見たかのように。
母は反射的に私へ歩み寄った。でも、私の惨状を見て差し出しかけた手を空中で止め、ためらって引っ込める。
汚い、とでも思ったのだろう。
昔もそうだった。養父母の家から「戻ってきた」日のこと。地下室の湿ったカビの匂いが服に染みついていて、母は眉をひそめ、使用人に命じて私を風呂に入れさせた。
「イヴリン……あなた、どうして……」母の声が揺れる。「病院にいるものだと……助かったほかのお客さんと一緒にいるものだと……」
ほかの客?
私は氷点下近い海を、一晩中漂った。浮かぶ木切れにしがみつき、遠くを走る救助船の灯りを何度も見送った。手を振った。叫んだ。喉が嗄れて血が滲むまで――それでも、どの船も止まらなかった。
だって、救助記録には「ドーソン一家三名」しかいない。とっくに全員救出済み、となっていた。
海に四人目がいるなんて、誰も知らない。
いや――知ろうとしなかった。
「そうよ、イヴリン……」ジェーンが、柔らかい声に不満げな色を混ぜる。「あのときは本当に混乱してて、みんな家族を探してたの。あなた、どこか別の場所に行っちゃったんじゃないかな……だから……」
彼女は顔を上げ、か弱い目で父を見つめる。
「私が誕生日なんて言ったせいだよね……こんなことになって……イヴリンも、きっと怖かったよね……」
ふわりとした言葉で責任を「混乱」と私の「行方不明」に押しつけ、ついでに自分は気遣いのできる妹に収まる。
父の顔に浮かんだ罪悪感は一瞬で消え、不満が取って代わった。
「まったく……事故のとき、お前はどこに行ってた? 母さんが下のデッキにショールを取りに行くのを手伝えって言っただろう。助かったなら助かったで、電話の一本くらい入れろ。家族がどれだけ心配したと思ってる!」
信じられない。
置いていったのは、そっちなのに。私が責められるの?
「……電話した」声が掠れる。「残りの電池、全部使って」
父の表情が固まる。スマホを取り出し、深夜の着信履歴に残る不在着信を見て――顔色がさっと変わった。
海水の中で、凍えた指で必死にかけた、救いの電話。
でも、誰も出なかった。
その頃彼らは、ネットにジェーンの「生還セルフィー」を上げるのに夢中だったのだから。乾いた服を着て、父と母に寄り添い、腕の中にはラグドールを抱いている。添えられた文は、こうだ。
「人生でいちばん怖い瞬間だった……💔でもお父さんとお母さんが必死に私とマフィンを守ってくれた。私の大事な子も無事🐱世界でいちばん私を愛してくれる人に感謝❤️」
いま、その投稿には二万を超える「いいね」が付いている。
コメント欄は「素敵な家族」「親の愛が尊い」「ジェーン幸せ者」――そんな言葉で埋め尽くされていた。
私は海の上で、木切れを抱え、スマホ画面の光が少しずつ暗くなっていくのを見ていた。体温が、じわじわと奪われていくのを感じながら。
母は空気がまずいと気づいたのか、慌ててタオルを取って差し出した。
「イヴリン、まずお風呂に入って着替えなさい。冷えるわ――」
私は一歩退き、母の手を避けた。
母は目を見開き、タオルは宙に止まったまま。
「いらない」私は静かに言った。「平気。……邪魔しないから、続けて」
背を向けて階段へ向かうと、背後で父の低い声がした。
「ますます礼儀がなってない。今日はジェーンの大事な日だぞ。わざわざこのタイミングで帰ってきて……こっちを恥かかせるつもりか?」
「お父さん、怒らないで……」ジェーンが小さく宥める。「イヴリンは……戻ってきたのが遅かったから。まだ慣れてないだけだよ……」
遅く戻ってきた。
そう。私は「あとから来た」ほう。
十五年前、病院で取り違えが起きた。私は養父母の家で、怯えるように育った。DNA鑑定の結果が出て初めて、アーサーとエレノアは「実の娘」を思い出した。
けれど、その頃にはジェーンがこの家で十五年も暮らしていた。
私の部屋も、私の両親も、私の居場所も――彼女のものになっていた。
私は二階のいちばん日当たりの悪い客室で、居候みたいに息を潜めているしかない。
部屋に入って鍵をかけ、扉にもたれた。
階下からは母のため息、父の叱責、ジェーンのすすり泣き。客たちのひそひそ声まで、薄い壁越しに届いてくる。
目を閉じて、息を吸う。大丈夫。平気。私はもう慣れている――そう言い聞かせた。
それでも涙は止まらなかった。
この瞬間、はっきりわかったからだ。
私には、もう両親がいない。
たぶん、最初からいなかった。
涙を拭い、机へ向かう。ノートパソコンを開くと、受信箱に海外のデザイン学校からの留学招待状が残っていた。指導教員のジュリアンはメールにこう書いている。「いつでも君を歓迎する」と。
返信を開き、震える手で一行打ち込んだ。
「招待を受けます。来週出発します」
送信。
窓の外で、またピアノの音と笑い声が弾んだ。
私はカーテンを引いた。
世界が、ようやく静かになった。
