第4章

 頭の中がぐるぐると駆け回った。あの中には大勢がいる。

 私は大悟の横をうかがうように視線を外し、居間へ続く廊下の突き当たりにある、重厚で黒ずんだマホガニーの両開き扉に目が吸い寄せられた。あれは私がここへ来た日からずっと、内側から閂で固く閉ざされたままだった。

 その瞬間、車椅子が乱暴に後ろへガクンと引かれた。

 息をのむ間もなく、大悟が私の両肘掛けを力任せにつかみ、椅子の背へ完全に押しつけて身動きを封じる。

「スープが煮えるの、待ちきれねえな」大悟は荒い息を吐き、熱く生臭い息が私の頬にまとわりついた。

「お前の脚、きれいすぎる。今すぐ生の肉をひと口いきてえ!」

 大悟は顎を外すように口を歪め、むき出しの太ももへ勢いよく食らいつこうと身を投げてきた。

 私は完全にパニックに陥った。取り繕っていた仮面など吹き飛び、生存本能がすべてを押し流す。両腕に力を込めて車椅子を支え、右脚を引き戻して、あの傷だらけの顔面のど真ん中へ、出せるだけの力で蹴り込む覚悟を決めた。

 バンッ!

 廊下の突き当たりにある鍵のかかったマホガニーの扉の片方が、容赦なく蹴り破られた。

「彼女から離れろ、この豚野郎!」

 宗一郎だった。

 宗一郎は狂犬みたいな勢いで廊下を駆け下りてくる。大悟の歯が私に届く前に、宗一郎は襟首をつかみ、そのまま後方へ放り投げた。大悟は床へ叩きつけられ、頭がコーヒーテーブルに当たって鈍い音を立てる。情けない声でうめき、血のにじむ頭皮を押さえながら、四つん這いで台所へと逃げ込んでいった。

 宗一郎は私の前に膝をつき、必死に私のふくらはぎを上下になぞって噛み跡がないか確かめた。

「大丈夫か? 皮膚まで噛み破られてないか?」息は乱れ、言葉が荒い。

 私は本物の、止めどない嗚咽をこぼし、彼の手から身を縮めて逃げた。

 宗一郎が、ここにいる。

 南の牧場へなんて行っていない。どこにも行っていなかった。

 次の瞬間、もう一方の鍵のかかったマホガニーの扉が、カチリと音を立てて開いた。

 美津子が廊下へ姿を現した。服の上から分厚い肉屋のエプロンをつけている。

「ああ、かわいそうに」美津子は甘くあやすように言った。

「ごめんなさいね、いい子。もう二度と、絶対にあなたを一人にはしないわ」

 胃の底が、底なしの穴へ落ちていく。

「牧場の仕事」なんて、全部嘘だった。この間ずっと、あの鍵のかかった部屋に隠れて、黙って私を見張っていたのだ。

 正午になるころ、私は大悟に襲われたせいでまだ動悸が治まらない、と訴え、ラジオをつけたまま居間で静かに座っていたいと言った。ぼんやりと壁を見つめながらも、視界の端はずっと台所のアーチ状の出入り口に釘づけだった。

 美津子が昼食の支度をしている。戸口の隙間から、彼女がしゃがみ込み、下の収納棚に組み込まれた隠しチェスト型冷凍庫を引き開けるのが見えた。

 凍った、ビニールで包まれた塊をカウンターへ落としたとき、胸の悪くなる重たい鈍音が響いた。霜の張った透明な包みの中には、濃い赤肉に囲まれた人間の鎖骨の輪郭が、はっきりと見えていた。

 美津子は調味料棚に手を伸ばした。取り出したのは塩でも胡椒でもない。無地の小さなビニール袋――粗い白い粉がぎっしり詰まったものだった。

 彼女は鼻歌まじりに、その粉をスプーン山盛り一杯、私に出すはずのスープの椀へ直接ドサリと落とした。

 息が喉で詰まった。あれが薬だ。私の脚を麻痺させ、あの恐ろしい牧場で「肉」を柔らかく保つための、化学薬品の寄せ集め。あの昼食を口にすれば、せっかく目覚め始めた神経はまた死に、私は振り出しに戻る。肉屋の包丁を待つだけの、元の私に。

「宗一郎」私は声を震わせるのを必死に作り、呼びかけた。

「ここ、息が詰まりそう。大悟にあんなことされて……少し、新鮮な空気が吸いたいの。玄関先のポーチまで、押して連れてってくれる?」

 爪をソファでいじっていた宗一郎が顔を上げた。短く唸り、立ち上がると、私を玄関の外へ押し出し、ポーチの段の縁ぎりぎりに車椅子を止めた。

「すぐ戻る」宗一郎は私の肩をぽんと叩く。

「美津子の盛りつけ、手伝ってくる」

 背を向けて家の中へ入っていく。網戸がカチリと閉まった。

 六十秒。たぶん、それ以下だ。

 私は音を立てないように肘掛けを握り、足をフットプレートに押しつけて、立ち上がった。

 治りかけの筋肉が灼けつくように痛んだが、心臓を突き上げるアドレナリンがその苦痛をまるごと押し流した。痛みなんてどうでもいい。私はポーチの段を駆け下り、正面の庭を突っ切って正門へ向かって全力で走った。

 だが、車道の端にたどり着いた瞬間、必死にしがみついていた希望は一気に死んだ。

 重い鉄の門は太い鎖でぐるぐるに巻かれ、南京錠で固く施錠されている。その向こうに舗装路はない。近所の家もない。あるのは、果てしなく続く乾ききった死んだ土の平原だけ――そして周囲すべてを取り囲む、高さ十二フィートの高圧電流フェンス。

 私は完全に、逃げ場を失っていた。

「エレナ!」

 背後のポーチから、背筋が凍るような血も凍る咆哮が轟いた。宗一郎が空の車椅子に気づいたのだ。

 戻れない。前にも進めない。私はくるりと身を翻し、残された唯一の選択肢へ視線を縫い止めた。

 裏庭の古い納屋。

 敷地を縁取る茂みの陰へ身を滑り込ませ、枝が腕を引き裂くのも構わずに走る。大悟が指さしていた、錆びた巨体のような建物へ。

 納屋の裏手に回り込み、低い木の柵を飛び越えた。泥に身体を打ちつけ、空気をむさぼる。外側はしんと静まり返っていた。中から声はしない。「ほかの連中」の物音もない。

 濡れた草から身体を起こそうとしたとき、泥に半分埋もれた硬い金属が手に触れた。

 掘り出す。

 軍用めいた重い無線機だった。背面には、色あせた警察無線の識別番号がいくつも刻印されている。

 心臓が喉元まで跳ね上がった。電池パックはひび割れ、配線は泥にさらされていたが、本体の外装は生きている。私はそれを上着の内側へねじ込み、納屋の重い鉄扉へもつれるように駆け寄った。

 錆びた掛け金を外し、するりと中へ滑り込み、重い扉を背で押し閉めた。

 中の空気は凍えるほど冷たい。響くのは、巨大な業務用冷却機が低く唸る機械音だけ。獣臭さはない。鼻を刺すほど漂白剤が強く、凍った金属――銅の匂いがした。

 暗闇の中をよろめきながら進み、手が金属製の作業台に当たった。無線機を引っ張り出し、露出した配線についた泥を必死に拭う。昨夜、食卓からこっそりくすねておいた小さな折りたたみナイフで、電池側の配線の被覆を慌てて剥いた。

 机の上に、電池が半分死んだランタンがあるのを見つけた。私は無線機のむき出しの銅線を、ランタンの電池端子へ直接押し当て、どうか一瞬でも回路がつながれ、と祈った。

 パチッ、と鋭い火花が指先の下で弾けた。

 無線機の上部にある小さな赤い表示灯が、ふっと明滅して息を吹き返した。

 私は息を殺し、指が白くなるほど樹脂の筐体を握りしめた。

 厚いザーッという雑音の向こうから、深く切迫した声が突然、スピーカー越しに割れた。

「ウグイス、応答できるか! こちら、座標を捕捉した! 繰り返す、ウグイス、応答してくれ!」

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