紹介
医者は「もう二度と歩けない」と言った。身寄りもなくなった私を、美津子おばさんと宗一郎おじさんが、人里離れた農家へ連れていってくれた。
ふたりは私を甲斐甲斐しく世話し、「治療を続ければまた歩けるようになる」と約束してくれた。あれほどの目に遭ったあとだ。ようやく安心できる場所を見つけたのだと思った。
――今日までは。
脚の感覚が、突然戻ってきたのだ。けれど、なぜか胸の奥の何かが告げていた。ふたりには言うな、と。
チャプター 1
太ももに、鋭い針のような痛みが走った。
私は車椅子の肘掛けをぎゅっと掴む。感覚は一気に広がり、何週間も感じていなかった筋肉痛が、まとめて押し寄せてきた。私は身を起こした。
膝ががくんと折れる。床に強く打ちつけたのに、心臓は純粋な歓喜で早鐘のように鳴っていた。
動く。私は――動ける。
壁に手をついて、立ち上がる。パジャマを脱いで、美津子おばさんに知らせなきゃ。
こわばった脚を引きずるようにして、私はクローゼットへよろめいた。ここへ来てから、一度も開けていない。いちばん手前のジーンズを掴んで履き、ファスナーをもたつきながら上げようとする。
ポケットの中で、何かがカサリと鳴った。
くしゃくしゃの紙切れを引っぱり出し、広げて平らにする。
『脚の感覚が戻ったことを言うな。口をつぐめ!』
思わず鼻で笑った。前の患者が置いていった悪趣味ないたずら、ってところか。
私は紙をまた丸めてゴミ箱に投げ捨て、別のズボンに手を伸ばした。
指先が、ポケットの奥――底のほうに押し込まれた別の紙の端に触れた。
息が詰まる。引き抜く。まったく同じ警告だった。
焦りが込み上げ、私はクローゼットの中を必死で掻き回し始めた。
三本目、四本目……長ズボンのほとんどすべての深いポケットの奥に、同じ文面が待っていた。
最初の数枚は字が比較的整っていた。だが探し続けるほど、文字は崩れ、混乱した引っかき傷みたいな走り書きへと変わっていく。
最後の数枚に至っては、紙を突き破るほどに筆圧が荒く、どうしようもない絶望が染みついた臭いすらしそうだった。
血の気が、すうっと引いていく。
これを書いた誰かは、この瞬間を寸分違わず予測していた。
下半身不随の人間が脚の感覚を取り戻したその瞬間、最初にやることが何か――このクローゼットへ歩いていき、ちゃんとした服に着替えようとすることだと、知っていたのだ。
さっきまでの喜びは跡形もなく消え、息が詰まるような恐怖に置き換わった。
美津子おばさんは、階段に近づくことを厳しく禁じていた。「安全のための決まり」だと言い張って。私は警告の紙束を握りしめたまま、半開きの寝室のドアを見つめる。
下に何があるのか、確かめなければならない。
一歩ごとに、目覚めたばかりの筋肉が裂けるみたいに痛む。
手すりに必死にしがみつき、息を殺して一階へ降りた。キッチンへ続くアーチの近く、影の中に身を滑り込ませる。
ねっとりと湿った、吐き気を催すような啜る音がキッチンから響いてくる。
私はそっと角から覗いた。
顔じゅうにひどい火傷の痕がねじれるように残る世話係の大悟が、コンロの前に立っていた。
大きくて深い鍋がぼこぼこと煮え立ち、この家につきまとう金属臭い異様な匂いの発生源になっている。
「完璧な脚の骨だ……」大悟が落ち着きなく呟く。声は掠れた喘鳴のようだった。
「これから筋を削いでいくのが、きっと綺麗なんだ……」
大悟は大きな柄杓で、鍋の底から重そうなものを掬い上げた。
それはギザギザに欠けた骨の塊で、半端に火の通った血まみれの生肉がまだべったりと絡みついていた。
大悟は顔をぐっと近づけた。舌を突き出し、その血のついた肉を貪るように、強くねっとりと舐め取っていく。白濁した目は恍惚のまま裏返り、眼窩の奥へ沈み込む。
胃酸が喉を焼いた。私は両手で口を押さえ、込み上げる嘔吐衝動を必死に押し殺す。
そのとき、外の砂利敷きの私道でタイヤが激しくスリップする音がした。帰ってきたのだ。
心臓を鷲掴みにされるような恐怖が走る。太ももの激痛の痙攣など構っていられず、私は四つん這いで階段をほとんど這うように駆け上がった。
寝室へ転がり込み、身体を車椅子へ叩き込むように戻し、毛布を脚の上へ乱暴に引き上げる。
ほとんど同時に、一階の玄関がカチリと開く音がした。
息を吸い込みながら、私は椅子の背にもたれて頭を反らせ、荒く上下する胸を無理やり静めようとした。視線が天井を探り、あるものに釘づけになる。
換気口の格子の奥で、暗がりに小さな赤い光が規則正しく点滅していた。
監視カメラの映像だ。
レンズは私のベッドと車椅子に真っ直ぐ向けられている。この部屋で唯一の死角は、クローゼットの真正面にあたる角だけだった。
私はその赤い点を凝視した。背中に冷たい汗が滲む。ポケットの警告が私の命を救ったのだ。五分前、ベッドの上で嬉しさのあまり叫んでいたら、私はもう死体になっていた。
廊下に足音が響き、ドアが開いた。
「結衣、いい子。今日は脚、少しでも感覚あった?」
美津子おばさんが盆を抱えて入ってくる。いつも通り、母親のように優しく、宥める声色で。
私は下半身が完全に力を失ったままに見えるよう、死んだ重りみたいにだらんとさせた。
苛立ちを装って太ももを叩き、すすり泣く。
「まだ何もない。美津子……私、もう良くならないの?」
「まあ、かわいそうに」美津子おばさんは身を屈め、私をきつく抱きしめた。
私は反射的に息を止める。いつも纏っている目に染みるほど強い漂白剤の匂いの下に、別の匂いが混じっていた。
美津子おばさんは離れると、湯気の立つスープ椀を私の前に置き、スプーンでかき混ぜた。
「大悟が何時間も煮込んだ骨のスープよ。上の脂も、結衣の好きなようにちゃんとすくっておいた。さあ、飲み干して。脚に効くんだから」
彼女はスプーンを私の唇のすぐ近くまで押しつけてくる。
大悟の舌が、半生の肉の塊をぬらぬらと舐めていた光景が脳裏に突き刺さる。私は本能的に身を引いた。「今日は胃の調子が悪くて……本当にいらない」
「食べなきゃ、脚に力なんてつかないわよ」美津子おばさんは笑っていたが、スプーンを握る手は微塵も揺らがない。
冷たい金属が、唇に強く押し当てられた。
選択肢なんてなかった。
私は目をきつく閉じ、口を開け、どろりとした液体を飲み下した。
脂と金属のぬめりが喉を滑り落ちる。
三秒もしないうちに、胃が激しく痙攣した。私は前のめりになり、濁って塊の混じる液体を、絨毯の上に盛大に吐き散らした。
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***
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息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
追放された私が真の継承者だった件。今さら戻れと言われても、もう手遅れです
けれど、私の本質を隠し通すことは誰にもできない。
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かつての家族が私を見失っている間に、私は全ての支配者となり、この街の頂点に君臨する男の視線を独占する。
彼が私に捧げる愛は、ただの寵愛ではない――世界を敵に回してでも守り抜く、狂おしいまでの執着だ。













