第1章

林田唯月が末期がんだと確定診断を受けたその日。病院で、会議中のはずの矢吹薫を見かけた。

黒いカシミヤのコート。腕の中には椎名伴凪。

二人はロビーをゆっくり歩き、薫は優しい目で身をかがめ、彼女に何か囁いている。

「薫、赤ちゃんは大丈夫?」

椎名伴凪が笑みを浮かべて尋ねる。

「問題ない。全部順調だ」

薫は笑って答えた。

聞き慣れた声が耳に落ちた瞬間、胸の奥を重い槌で叩き潰されたみたいに、息が止まった。

林田唯月はロビーの隅で立ち尽くし、その光景を呆然と見つめる。指先で握りしめた検査結果は、じわりと皺が寄っていた。

本当なら、駆け寄って叫ぶべきだ。罵って、二人のことを白日の下に晒してやればいい。

けれど、唯月は動けなかった。

矢吹薫の前で、椎名伴凪と張り合って勝てたことなど、一度もないからだ。

椎名伴凪は薫の高嶺の花。彼女が求めるなら、薫は何もかも捨てられる。

たとえ林田唯月が高熱で救急搬送されるほど苦しんでいようと、事故で生死の境をさまよっていようと。

伴凪は、薫が掌の上で大事にする女。

唯月と伴凪の間に摩擦が起きれば、薫はいつだって真っ先に伴凪を庇う。

「林田唯月、いい加減にしろ。無理を言うな」

「伴凪はいい子だ。そんな言い方するな!」

「林田唯月……お前って、こんなに意地悪だったのか。伴凪が何をした? どうしてそこまで追い詰める」

胃がきりきりと締めつけられ、唯月は洗面所へ駆け込んだ。

吐き出したのは、消化しかけの食べ物と――赤いもの。

鏡の中の自分は、唇は蒼白で、顔色は死人みたいだった。

この瞬間、心の底から疲れたと思った。

記憶が走馬灯のように脳裏をよぎる。

――自分の人生は、矢吹薫に捧げてしまった。

付き合い始めた頃、彼の起業に付き合った。

会社が上場してからは、三人のもつれの中で溺れた。

彼と伴凪の関係を疑い、誰をより愛しているのかを疑い、ただそれだけに時間を使った。

命が尽きようとして、ようやく気づく。

私は、私のために生きたことがなかった。

指先が震え、涙がこぼれて、洗面台にぽとりと落ちる。

こんな関係に縛られて一生を終えるくらいなら、彼も、自分も、解放したい。

家に戻ると、執事が近づいてきた。

「奥様、新しい額装ができました。お写真、掛け直しますか?」

林田唯月の視線は、結婚写真へ向いた。

矢吹薫は優しく微笑み、彼女を見つめている。

「唯月、俺は一生、君を愛する」

そう言って、手を握った。

壁に掛かったままの甘い瞬間。

けれど数日前、それは伴凪にぶつかられて落ちた。

その時の薫は、伴凪を抱きしめて傷を確かめ、唯月の怒りには苛立ちを隠さなかった。

「写真一枚だろ。壊れたなら壊れたでいい」

「大したことじゃない」

滑稽だ。

結婚のときに誓ったこと。

信じたのは、私だけだった。

この愛の中で、最後まで踏ん張っていたのも私だけ。

唯月は自嘲気味に笑った。

「いいです。掛けなくて」

ただの恋愛だ。大したことなんてない――そう言い聞かせるみたいに視線を外し、部屋へ入った。

自分の物を少しずつ集める。

広い家なのに、彼女の荷物は小さなスーツケース一つ分しかなかった。

ベッドサイドには薫の結婚指輪。

あれは二人で三日三晩かけてデザインしたものだ。

けれど結婚してから、彼は「高価で失くしたら怖い」と言って、ほとんど着けなかった。

今思えば、最初から兆しはあった。

気づかなかった私が馬鹿だっただけ。

どうせ出ていく。

唯月は自分の指輪を外した。

薬指の付け根にくっきり残った痕が、胸の中にぽっかり穴を開ける。

ガチャン――

階下でドアの閉まる音。続いて伴凪の声。

「薫、今日はありがとう」

「気にするな」

薫が笑い混じりに答える。

唯月はそっとドアを押し開け、二階の手すりから階下の二人を冷たく見下ろした。

薫はしゃがみ込み、伴凪の靴を履かせている。

視線を感じたのか、彼が振り返る。

真正面から、唯月と目が合った。

驚きも動揺もない。あまりにも平然としている。

別れると決めたはずなのに、顔を見ただけで胸が苦しくて息ができない。

唯月は何も言わず、俯いて部屋へ戻ろうとした。

「林田唯月。伴凪が最近調子悪い。しばらくここに住む」

薫が淡々と言った。

足が止まる。爪が掌に食い込む。

彼は誰の感情にも気を配る。

ただ一人――彼女以外には。

胸の中で波が暴れ、爆発しそうだった。

問い詰めたい。

どうして騙したのか。

伴凪の腹の子は、あなたの子なのか。

伴凪は薫の胸に寄り添い、笑って言う。

「唯月さん、気にしないよね?」

その甘ったるい声を聞いて、唯月は初めて、全部飲み込んだ。

そして、階段越しに薫を見て、淡々と言った。

「矢吹薫」

「離婚しましょう」

薫は一瞬固まって、顔を上げる。

「林田唯月、いい加減にしろ。無理を言うな」

高みから見下ろすような目。

まるで彼女のほうが「場をわきまえない悪者」だと言わんばかり。

青春のすべてを捧げた男が、今は見知らぬ人みたいだった。

一秒一緒にいるだけで、自分がいかに滑稽だったかが増していく。

彼への気持ちも、滑稽で、哀れで。

唯月は何も言わず部屋に戻り、荷造りを続けた。

ドア越しに伴凪の声が聞こえる。

「薫、唯月さん怒っちゃったんだよ」

「早く宥めてあげて。女ってこういうこと言って、構ってほしいだけなんだから」

伴凪はいつもそうだ。

薫の前では優しく大らかに振る舞い、林田唯月だけが小さく見えるように仕向ける。

唯月は乾いた笑いを漏らし、スーツケースを閉じた。

出ようとしたところで、廊下で薫と鉢合わせる。

コートは脱いで、シャツとスラックスだけ。

ネクタイは緩められ、ボタンが二つ外れて鎖骨が覗いている。

廊下灯の下、彫りの深い顔立ちがやけに冷たく見えた。

林田唯月が荷物を持っているのを見ると、薫は眉をひそめ、苛立ちを滲ませた。

「離婚って、本気か?」

「忘れるな。お前の母親、まだ入院中だろ。離婚して、医療費払えるのか?」

スーツケースを握る手が震えた。

ああ、この男はずっとこうだったのだ。

母の医療費を払えない。彼に頼らなければ生きられない。

だから好き放題に踏みにじれる。

私の気持ちなんて、最初から数に入っていない。

胸の中で何かが――粉々に砕ける音がした。

「ご心配なく」

唯月は震える声を必死に押し殺す。

「離婚協議書は、ベッドサイドに置きました」

「私は何もいりません」

「ただ、あなたと離婚したい」

「今すぐ」

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