第4章
「黙れ!」
矢吹薫の、いつもは波ひとつ立たない顔に、爆発みたいな怒気が浮かんだ。
彼は林田唯月の手首を素早く押さえ込み、そのまま乱暴に突き飛ばす。
ドンッ――。
唯月の背中が壁に叩きつけられ、痛みが一気に全身へ走った。
充血した目で、震える身体のまま、彼女は嘲るように笑う。
「なに? やることやっておいて、認める勇気もないわけ?」
「林田唯月、少し落ち着け。自分が今どんな顔してるか見てみろ。……狂ってる」
矢吹薫は真っ黒な顔で、低く吐き捨てる。
狂ってる?
――そうだ。
矢吹薫と椎名伴凪に追い詰められて、狂わされた。
「薫、私のことはいいの……私が悪いの。殴られても平気……」
椎名伴凪は髪を乱し、矢吹薫のズボンの裾にしがみついて、しゃくり上げた。
「お姉さんを責めないで。お姉さんの気が済むなら、私、どうされても……」
矢吹薫は長い脚で一歩踏み出し、しゃがんで伴凪を抱き起こす。声だけが妙に優しかった。
「行くぞ。医者に診せる。……この狂った女のことは放っておけ」
男は椎名伴凪を腕の中へ抱え込み、林田唯月には嫌悪の視線だけを残した。
二人の姿が視界から消えた瞬間――唯月を支えていた、最後の一本がぷつりと切れた。
彼女は腹を押さえ、壁伝いに、ずるずると床へ崩れ落ちる。
痛みで身体が小刻みに震え、額には細かな汗がびっしり浮いていた。それでも目だけは、手術室のほうから逸らせない。
江口未黒が、胸の奥を抉られるみたいな目をする。
そして小さく息をついた。
――あのとき、もっとしつこく追いかけていれば。
――国外へ行かなければ。彼女のそばにいられたのに。
江口未黒は唯月の前にしゃがみ、そっと抱き寄せて自分の胸に押し当てる。
「泣け。誰も見てない」
「唯月……俺がいる」
溜め込み続けた感情が、とうとう決壊した。
声にならない嗚咽だけが喉を揺らし、涙が黙ってこぼれていく。
江口未黒の胸元が、じわじわと濡れていく。
彼はただ、長い髪を何度も撫でた。低く、やさしく。
「大丈夫だ……全部、きっと良くなる……」
病院の廊下は人が行き交い、二人の影だけが長く伸びていく。
――三十分後。
手術室のランプが、ようやく消えた。
林田唯月はよろめくように駆け寄る。声が震えて、形にならない。
「先生……母は……母は、どうなりましたか?」
医師は残念そうに首を振り、同情の眼差しを向けた。
「残念ですが……蘇生は成功しませんでした。いつ意識が戻るかは、分かりません」
ガンッ、と。
頭の中で何かが破裂した。
音が消える。世界が遠のく。
視界の端が白く滲み、思考は空っぽになった。
「患者さん! どうしました! 誰か、救急!」
「唯月! 俺を見ろ! 大丈夫だ、俺がいる!」
……見える。
医師と江口未黒が慌ただしく動いているのは見えるのに、何も聞こえない。理解できない。
唯月はただ、ベッドの上で血の気のない母を凝視した。
喉が焼けるみたいに痛い。口を開いても、声が出ない。
やがて彼女は、母のベッドの前に崩れ落ちる。
枯れ枝みたいな手を握りしめた瞬間、堪えていたものが爆発した。
「……お母さん!!!」
喉を裂くような叫び。
視界が暗転し、意識が落ちた。
……どれほど眠っていたのか。
林田唯月はがばっと起き上がった。
虚ろな目。糸の切れた人形みたいに、どこも見ていない。
白い頬を、涙だけが静かに伝っていく。ぽとり、ぽとり――雪みたいなシーツに染みが広がった。
病室には、最も見たくない二人がいた。
矢吹薫と椎名伴凪。
矢吹薫の瞳に一瞬だけ、痛みと後悔がよぎる。胸の奥がじくじくと酸んだ。
無意識に手を伸ばし、赤くなった目尻の涙を拭おうとする。
その指先が触れる前に――
ドサッ。
椎名伴凪が床に膝をついた。
「唯月姉さん……私のせい……私のせいで、おばさんが……」
泣き声を震わせ、縋るように顔を上げる。
「私を殴って……お願い……」
膝でじりじり近づき、涙を浮かべるその姿は、あまりにも出来すぎていた。
林田唯月の充血した瞳が、機械みたいに伴凪へ向く。
その奥で燃え上がるのは、濃すぎる憎しみ。
「謝って何になるの!」
「椎名伴凪、死ねばいいのに!」
「本当に悪いと思うなら、今ここで死ね!」
「……分かった。あなたが気が済むなら、私は何でもする」
伴凪は、泣き方まで“ちょうどよく”整えながら、委屈そうに頷いた。
その仕草が許せなかった。
唯月は身体の悲鳴を無視してベッドを降り、伴凪の髪を掴む。
そして窓へ向かって引きずった。
「いいわ、私が手伝ってあげる!」
「贖罪したいんでしょう? 飛び降りなさい!」
「死にたいんでしょ!」
矢吹薫が反応するより早く、椎名伴凪の上半身が窓の外へ突き出された。
伴凪の顔から血の気が引く。片手で壁を必死に掴み、目を見開いたまま叫ぶ。
「お腹……お腹が……!」
「薫、助けて……苦しい……!」
「赤ちゃんが……!」
唯月の指に力がこもる。
あと少し押せば――終わる。
パァンッ!
その瞬間、矢吹薫が林田唯月の頬を殴った。
強烈な一撃。
唯月は床に倒れ、白い肌に赤い跡が浮き上がる。頬の奥が、じんじんと熱い。
「林田唯月! いい加減にしろ!」
矢吹薫は荒い息のまま吐き捨てる。
「離婚騒ぎを起こしたのはお前だろ」
「伴凪は謝った。それでもまだ何を望む!」
髪に隠れた唯月の顔。
怒りで肩が震え、視線は刃みたいに矢吹薫を貫いた。
その目に刺され、矢吹薫は一瞬だけ息を詰め――すぐに視線を逸らした。
「……ふ、ふふ」
唯月が笑い出す。笑い声は、だんだん大きくなっていく。
「ははは……!」
床を掻く指先。爪がめり込み、血が滲みそうだった。
「ほんっと、似合いの二人ね!」
傷だらけの顔を上げ、ベッドの縁に縋ってふらつきながら立ち上がる。
「矢吹薫、言ったでしょう」
「母に何かあったら……あんたたち、誰ひとり逃げられないって!」
「きゃっ……薫、怖い……!」
椎名伴凪が怯えた声を上げ、矢吹薫の胸に隠れた。
矢吹薫の眉間が深く寄る。胸の奥に、理由の分からない苛立ちが膨らみ――すぐ怒りに変わった。
この女は、ますます手に負えなくなっている。
矢吹薫の声には警告が混じり、言葉がまるで刃のように唯月の心臓を切り裂いた。
「林田唯月。これ以上続けるなら、夫としてお前を刑務所に送ることも考える」
「それから、お前の母親には延命中止の同意書にサインする」
唯月は、その場で凍りつく。
唇を噛み、血が滲んだ。喉は壊れた風箱みたいに、ひゅう、と鳴る。
「……矢吹薫。脅してるの……?」
「そうだ」
矢吹薫は即答した。
彼は身を屈め、指先で唯月の目尻の涙を強く拭い取る。
「林田唯月。お前とお前の母親の命は、俺の掌の中だ」
「お前は死が怖くないかもしれない」
「でも、母親は?」
「生き地獄にする方法ならいくらでもある。だから――」
「おとなしくしてろ」
