第2章
「八か月」
玉井彩歌は淡々と答えた。
浅見朝治はまぶたをわずかに持ち上げただけで、表情ひとつ揺らがない。
「ちょうどいい。結婚前に交わした取り決めどおり、一年後に婚姻関係は解消する。子どもが生まれたあとだな」
――そこまで正確に覚えているのか。
「分かった」
玉井彩歌は顔を上げて彼を見た。手首の疼きが、頭の奥をやけに冴えさせる。
「一年もいらない。今すぐ手続きできる」
「ダメだ」
即答だった。眉が癖みたいに寄る。
「取り決めは取り決めだ。余計な変数はいらない」
変数――私が翻すのが怖い、ってこと?
胸に残っていたぬるい熱が、音もなく冷えていった。
言い返そうとした、そのとき。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
浅見朝日が弾むように玄関へ走り、扉を開ける。そこに立っていたのは浅見朝治の両親だった。
「父さん、母さん? どうしたんだ」
浅見朝治は意外そうに言う。
けれど玉井彩歌は驚かなかった。今日は火曜だ。妊娠五か月を過ぎてから、浅見父と浅見母は毎週火曜に顔を出す。ただ、朝治が家にいることが少ないだけだ。
「孫の顔を見に来たのよ!」
浅見母の視線は誰にも留まらず、まっすぐ玉井彩歌の腹へ落ちた。
近づき、形だけに腕をぽん、と叩く。
「彩歌、気をつけなさい。最後の二か月がいちばん大事なの。私の孫に何かあったら困るもの」
浅見父も頷き、端的に言った。
「子どもを最優先で守れ」
最初から最後まで、誰ひとりとして彼女の顔色も、包帯を巻いた手首も気にしない。
荷物を受け取った浅見朝日が、玉井彩歌を横目にして、いかにも何気ないふりで口を開く。
「お父さんお母さん、来てくれてちょうどよかった。私、さっき兄にも言おうと思ってたの。嫂子、最近やたらとお姫様でさ、家のこと一切触らないの。帰ったら寝てばっか。あれじゃ身体にも赤ちゃんにも良くないでしょ」
浅見母は玉井彩歌を上から下まで見て、眉をひそめた。
「それはダメ。適度に動くのは必要よ。私たちの頃なんて、産む前日でも働いてたんだから」
怒りが、玉井彩歌の頭まで一気に駆け上がった。
八か月の腹で空港を走り回り、便の調整、手荷物対応、突発対応――二万歩を超える日だってある。それが「動いてない」?
口を開きかけた。今日事故に遭ったこと。手首を縫ったこと。仕事量が限界を超えていること。
だが先に浅見朝治が言葉を挟んだ。いつもの、結論だけを突きつける口調で。
「朝日ちゃんの言うとおりだ。玉井彩歌、怠けすぎるな。何もしないのは良くない」
怠ける?
その言葉が彼の口から出た瞬間、胸がさらに冷えた。彼も空港で働いている。私の忙しさを、知らないはずがないのに。
玉井彩歌が見つめると、浅見朝治は不機嫌そうに眉を深くする。
「覚えておけ。自分のことは自分で処理しろ。適度に動けば出産にもいい」
胸の奥が詰まり、息がしづらい。
浅見朝日が、母の持ってきた袋を揺らして甘えた。
「ママ、搾りたてのオレンジジュース飲みたい。ビタミンC補給!」
浅見母は笑い、自然に玉井彩歌へ向き直る。
「彩歌、オレンジ何個か持っていってジュース作って。みんなで飲みましょ」
玉井彩歌は動かなかった。腹の奥がきゅっと締まり、手首の痛みもはっきりしてくる。
「何突っ立ってる」
浅見朝治の声が低く沈む。わずかな苛立ち。
「搾れ。待たせるな」
その瞬間、すべてが滑稽に思えた。
反論しても、争っても、意味がない。
玉井彩歌は袋を持ち、無言でキッチンへ向かった。
オレンジをジューサーへ放り込む。ブオオオ……という唸りが耳を満たし、リビングの談笑を掻き消した。
……リビングでは、浅見朝治がソファにもたれ、両親の話を無表情で聞いていた。
「玉井彩歌はぱっとしないし、あなたに釣り合わないけど、子どもが生まれた直後に離婚は駄目よ」
浅見母が強い口調で言う。
「親戚や近所に、浅見家は薄情だって言われる。孫が生まれた途端にお嫁さんを追い出したってね。お父さんの会社の取引先は、家庭円満の評判を何より重視するの」
浅見父も頷いて言葉を継いだ。
「朝治、お前の機長としてのイメージは重要だ。婚姻破綻、特に出産直後の離婚は職業的な評判に響く。会社も世論リスクを再評価するだろう。考慮せざるを得ん」
浅見朝治は短く沈黙し、いちばん効率のいい決断を下す。
「分かった。少し遅らせて離婚する」
……
玉井彩歌がオレンジジュースを運んで戻ったとき、浅見朝治はベランダで電話をしていた。
壁にもたれた姿は珍しく力が抜け、横顔の線がぼやけて――柔らかい。
風に混じって、甘やかな声が聞こえた。
「欲しいなら買え。金、送る」
托盤を持つ指に力が入る。心の麻痺に、小さな棘が刺さったみたいだった。
彼は優しくなれないわけじゃない。譲れないわけじゃない。
ただ、その優しさと譲歩は――私には一度も向けられなかった。
「ぼーっとして何してるの」
浅見母の不満が、玉井彩歌の視線を断ち切る。
玉井彩歌が振り返ると、浅見母は値踏みする目で彼女を見た。
「彩歌、ママが言うのもなんだけど、あなた今、覇気がない。男は顔を見るのよ。特に朝治みたいなのは、外にいくらでも若い子がいる。自分で整えないで、どうやって心を繋ぎとめるの?」
昔なら、穴があったら入りたいほど恥ずかしくて眠れなかっただろう。
けれど今は――。
荒れた指先を見つめ、玉井彩歌の中に冷えた明晰さが芽を出した。
「お母さん、仰るとおりです」
声は静かだった。
浅見母が一瞬、言葉を失う。
「私、変わります」
淡いのに、揺るがない。
ただし誰かの心を繋ぎとめるためじゃない。自分のために。
三十分ほどで浅見父と浅見母は帰り、家はまた静かになった。
時間も遅い。浅見朝治は当然のように主寝室へ向かう。玉井彩歌は客間へ。
二人はずっと別々に寝ていた。
客間の前で立ち止まり、主寝室の扉が閉まるのを見届けると、玉井彩歌は目を細め、客間へ入って鍵をかけた。
一夜、言葉はない。
翌朝、目覚めたときには浅見朝治はもう出ていた。
玉井彩歌は楽な服に着替え、林田教授の航空会社へ向かった。
オフィスに足を踏み入れた瞬間、警報が鳴り響く。
「タワーより! B-3471、片発失効報告、緊急手順支援要請!」
玉井彩歌の目が鋭くなる。
そこへ林田教授が駆け寄ってきた。
「彩歌、来たか。ちょうどいい!」
彼は早口で指示を飛ばしながら、玉井彩歌を連れて監視モニターと通信機器が並ぶ緊急指揮室へ入る。ここでは機組とタワーの交信が直接聞ける。
スピーカーから機長の声。背後に警報音と、乗客のざわめきが混じる。
「現在高度3000。再起動試行、失敗。右エンジンパラメータ悪化継続。乗客87、乗員5……」
林田教授は画面を一瞥し、眉をきつく寄せた。やがて玉井彩歌へ鋭い視線を向ける。
「彩歌。この状況――覚えているか。どう処置する?」
