紹介
「あの孕妇……なんだか、かわいそう」
彼の腕の中にいる彼女が、そんなふうに口を開いた。声はやわらかく震えていて——どこまでも無垢で、善良で、陽だまりのようにあたたかかった。
私が、どうしても演じることのできないその表情。
もしも彼女を抱きしめているのが私の夫でさえなければ、もしかしたら、私でさえ彼女に好意を持ったかもしれない。
かつて彼が、昔の私にそうしたように——。
チャプター 1
焦げついたような匂いが、空気の底にべったりと沈んでいた。
玉井彩歌は地上支援車両の残骸にもたれ、手首に巻かれたガーゼへじわじわと血が滲んでいくのを、ぼんやり眺めていた。
半時間前、滑走中の機体が事故を起こした。たまたま近くで持ち場についていた彼女は、凄まじい衝撃に弾かれ、そのまま地面へ叩きつけられた。
現場は阿鼻叫喚。腕も、飛んできたアルミ片で切り裂かれている。
そのときだった。
人混みの向こうに、見慣れた背中が現れた。
浅見朝治。
折り目ひとつ乱れていない機長制服に身を包み、その腕の中には新任の事務長、牧野晴が抱きかかえられていた。
細い腕が彼の首に絡みつき、顔は肩口へ埋められている。かすかな嗚咽だけが、途切れ途切れに漏れていた。
浅見朝治の歩みはぶれない。彼はときおり俯き、何かを優しく囁いている。眉間には、あからさまな心配の色が濃かった。
玉井彩歌は、その場で凍りついた。
手首から落ちた血が、指先を伝ってぽたりと地面に落ちる。
名前を呼びたいのに、喉が塞がれたみたいで、ひとつも音にならない。
二人が近づいてくる。
牧野晴はたしかに怯えているようだったが、目立った怪我は見当たらない。整った化粧は崩れておらず、首筋には淡いピンクの蝶のブローチがきらりと光っていた。
ふいに彼女が目を上げる。
その視線が玉井彩歌をかすめ、小さな声で浅見朝治に言った。
「朝治さん、あの妊婦さん……見てて痛々しいです。付き添いの人、いないんでしょうか」
浅見朝治はその言葉につられるように、ようやくこちらを見た。
視線が玉井彩歌の上に落ち、わずかに眉を寄せる。けれど次の瞬間には目を逸らし、牧野晴へ低く告げた。
「救助はもう入ってる。俺たちがいたら邪魔になる」
そう言い残すと、彼は腕の中の少女を抱いたまま別の通路へ向かい、二度と振り返らなかった。
玉井彩歌は、角を曲がって消えていくその背中を、ただ見送った。
掌が、無意識に腹へ当てられている。
そこに鈍い痛みが走った。
視線を落とすと、濃紺の制服のズボンに、いつの間にかさらに濃い染みがじわりと広がっていた。
「彩歌さん! 出血してる!」
同僚の悲鳴が飛ぶ。
担架へ乗せられ、視界がぐらりと揺れた。
客室乗務員たちや地上係が群れになって通り過ぎるたび、零れ落ちる断片的な声が針のように耳へ刺さる。
「見た? 浅見機長、さっき牧野晴さんをずっと抱えて出てきたの! 事故の瞬間、真っ先に飛び込んで庇ったらしいよ」
「だって牧野さんって、もともと浅見機長の高嶺の花だったでしょ。航校時代じゃ有名な二人だったし。牧野さんが海外研修に出たとき、浅見機長を気の毒がる声、すごかったもん」
「それそれ。しかも牧野さんを国際線から引っ張ってきたのも、浅見機長がかなり動いたって噂だし。技量もサービスも一流、おまけに美人。ああいう華のある人じゃなきゃ、浅見機長には釣り合わないよね」
玉井彩歌は、指先を掌へ深く食い込ませた。
華がある。眩しい。
そうなのだろう。
自分の膨らみ、歪んだ身体を見下ろし、ぎゅっと目を閉じる……。
脳裏にふっと蘇る。
機長資格を手にした、あの日のこと。
夕焼けが綺麗で、ただ嬉しくて、真っ先に彼に見せに行った。
けれど彼は、証書を見た瞬間に眉をひそめた。
「玉井彩歌。俺が必要としてるのは家庭を優先する妻だ。毎日外へ出て、空を飛び回る女じゃない」
あの機長制服を、彼女が着たのはその日一度きり。
資格を取った記念に、こっそり袖を通しただけだった。
冷たい風が空港の門から吹き込み、血と埃に汚れた制服を容赦なく貫いていく。
処置を終え、胎児に異常なしと確認されてから、玉井彩歌は疲れ切った身体を引きずって家へ戻った。
義妹の浅見朝日がソファにだらしなく寝そべり、テレビを見ている。物音に気づいても、まぶたひとつ上げなかった。
「帰り遅すぎ。早くご飯作って。お腹空いたんだけど。あ、それと私のあのスカート、手洗いしといて。洗濯機はなしね」
玉井彩歌は壁に手をつき、ゆっくり靴を脱ぐ。腹は重く沈み、手のガーゼの下もずきずき痛む。相手をしている余裕などなかった。
動かない彼女を見て、浅見朝日はスリッパをずるずる引きずりながら近づき、見下すように言った。
「聞こえてる? お腹空いたって言ってんの。あんた、雑用係みたいなもんでしょ。だったらやるのが当たり前じゃん。早くして」
玉井彩歌は顔を上げ、無表情のまま一瞥しただけで、そのまま彼女の脇をすり抜けて寝室へ向かった。
「は?」
浅見朝日は一瞬呆け、それから金切り声を飛ばした。
「何その態度! 偉そうにしてんじゃないわよ! 自分の面、鏡で見たことある? 兄さんがあんたなんかと結婚したせいで、こっちは大迷惑! ただの地上係が、兄さんに釣り合うわけないでしょ! 子ども産んだらさっさと追い出してやるから、覚悟しときなさいよ!」
バンッ、と。
玉井彩歌は寝室の扉を閉め、毒みたいな罵声を外へ遮断した。
扉にもたれたまま、ずるずると床へ座り込む。
ガーゼの隙間からまた血が滲み、胸の内は荒野みたいに乾ききっていた。
ポケットのスマホが震える。
取り出して見ると、画面には飛行指導教官、林田永清教授の名が表示されていた。
「もしもし、林田先生……?」
声は少しかすれていた。
「彩歌!」
林田教授の声は相変わらずよく通り、まっすぐだった。
「こっちの航空会社で、経験のある機長クラスを急募してる。来る気はあるか? 会社が機種転換訓練を支援する。今後、海外での研修の機会もある」
玉井彩歌は息を呑んだ。
機長。研修。
返事がないのをどう受け取ったのか、林田教授はひと呼吸置いてから探るように言う。
「浅見朝治のことは……」
「行きます」
玉井彩歌は遮った。迷いは一切なかった。
「ありがとうございます、先生。その仕事が必要です」
通話を切ると、身体の芯に沈んでいた疲れが少しだけ軽くなった気がした。
心の奥で、何かが殻を破ろうとしている。
彼女は立ち上がり、扉を開けて水を注いだ。そういえば今日は、まともに水すら飲んでいなかった。
ちょうど飲み終えた頃、浅見朝治が帰ってきた。
彼は玉井彩歌を見るなり、抑えきれないように眉をひそめた。顔を背けかけたそのとき、彼女の手のガーゼに気づき、眉間の皺がさらに深くなる。
「どうした」
声には露骨な嫌気が混じっていた。
「今日、事故現場で少し引っかけただけ」
玉井彩歌は短く答えた。声に起伏はない。
浅見朝治は唇を結び、それ以上は追及せず、外套をハンガーへ掛ける。
その瞬間。
玉井彩歌は、はっきり見てしまった。
彼の外套の襟元に、淡いピンクの蝶のブローチが留められている。
空港で見た、あの首筋のものとまったく同じだった。
呼吸が、かすかに止まる。
浅見朝治――彼女の夫は、几帳面で、役に立たない装飾品を嫌う人だった。
かつて誕生日に、彼女が手縫いした飛行機柄のキーホルダーを贈ったときも、ろくに見もせずに言った。
「こういう子どもっぽいものは、もうやめろ」
幼稚なのが嫌だったんじゃない。
彼女が渡すものだから、いらなかっただけだ。
胸の奥を鋭く刺されるような痛みが走り、酸っぱい苦さが広がる。けれど玉井彩歌は、すぐにそれを押し込めた。
浅見朝治は外套を掛け終えると、ネクタイを緩め、ふと思い出したように彼女の腹へ目を向けた。
そして、冷えた声で問う。
「子ども……何ヶ月だ?」
最新チャプター
#239 第239章 結婚しよう
最終更新: 10/29/2026#238 第238章 過去の自分を救う
最終更新: 10/29/2026#237 第237章 教えてくれますか
最終更新: 10/29/2026#236 第236章 代用品
最終更新: 10/29/2026#235 第235章 この機会に乗じて
最終更新: 10/29/2026#234 第234章 彼女だけが欲しい
最終更新: 10/29/2026#233 第233章 すべてあんたのせいだ
最終更新: 10/29/2026#232 第232章 私の笑いものを見に来たのか?
最終更新: 10/29/2026#231 第231章 DV
最終更新: 10/29/2026#230 第230章 玉井晴の結婚式
最終更新: 10/29/2026
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一方、彼女を追い出した養父母の家業は倒産寸前に陥り、元婚約者も彼女の本当の姿を知って絶望の淵に立たされていた。
彼らが泣きついて許しを乞うても、彼女は冷たく言い放つ。
「今さら後悔しても、もう遅いわ」
私が囲っている億万長者
彼は息を呑むほど美しく、落ちぶれていた。夫の裏切りがもたらした傷が完全に癒えるまで、彼をそばに置いておくつもりだった。
お金で彼の付き添いを買い、すべてのルールを私が決め、すべてを完全に掌握しているつもりだった。
けれど、私の隣で横たわるこの男の正体は、彼が語ったものとはまるで違っていた。
魅惑的な笑顔と抗いがたい容姿の下に隠されていたのは、仇敵から身を隠す億万長者の素顔だった。
今や彼は、私の生活に、私のベッドに、そして私の心に――完全に絡みついている。
身を引くことは、彼のそばにいることよりも、もっと危険かもしれない。
捨てられたルナの復讐
「ベラ」イーサンの声音が変わった。わたしが嫌というほど知っている、あの警告めいた刃が混じる。「いまのフェイは不安定なんだ。おまえが彼女を恨むんじゃないか、これで群れが割れるんじゃないかって、怯えてる。彼女がいちばん望んでないのは、この子が俺たちの間に入り込むことだ」
「だったら、そんなことしなければよかった」わたしは真正面から彼の目を捉え、こちらの瞳に張りついた氷を見せつけた。「息子のところへ戻って」
「いい加減にしろよ」彼は苛立ちまぎれに髪をかきむしった。「何度言えば――人工授精だ。俺の精子を使ったのはそうだが、フェイと俺は――」
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