第3章

「機体姿勢を安定させて、最良滑空速度を維持してください」

 玉井彩歌はためらいなく、すぐに続けた。

「……ただちに有視界での旋回降下ルートを設定するよう、提案します」

 落ち着いた口調だった。一つひとつの指示が、寸分違わず要点を射抜いていく。

 林田教授の目がぱっと輝く。彼は即座にその要点を拾い上げ、乗員へ伝達した。

 時間が、一秒ずつ削れていく。

 やがて――スピーカーの向こうから、機長の安堵に満ちた声が響いた。

「タワー、B-3471、東川空港に安全着陸。乗員乗客ともに異常なし。現在、指定スポットへタキシング中」

 指揮室に歓声が弾けた。

 林田教授は長く息を吐き、振り向いて玉井彩歌の肩をぽんと叩く。目には惜しみない称賛が宿っていた。

「よし! 見事だ! 勉強、まったく鈍ってないな!」

「先生、当然のことをしたまでです」

 玉井彩歌は唇をきゅっと結び、かすかに笑った。

 林田教授はうなずき、改めて彼女を見つめる。声音がすっと引き締まる。

「玉井彩歌。理論も緊急対応も、しっかり身についているのはよく分かった」

 一拍置いてから、彼は続けた。

「今の……君の体の事情も踏まえて、まずは飛行部の運航管理センターに入ってもらおうと思う。運航管制官としてだ。出産後、落ち着いたら操縦へ戻す。どうだ、来る気はあるか?」

 運航管制官。

 その響きに、玉井彩歌の心臓がどくんと跳ねた。迷いは一瞬たりともない。

「ぜひ、お願いします。林田先生、ありがとうございます。こんな機会をいただけて、本当に嬉しいです」

 林田教授の会社を出ると、玉井彩歌は足を止めなかった。

 昨夜のうちに用意しておいた辞表を鞄から取り出し、そのままバス停へ向かう。

 以前の航空会社へ向かう路線バスは、いつだって混んでいる。

 彼女は腹をかばいながら吊り革を握り、揺れる車内でじっと踏ん張った。

 流れていく車窓の景色を眺めるうち、ふと脳裏をよぎる。車庫で薄く埃をかぶっていた、何台もの高級車。

 浅見朝治は一度も、乗るなとは言わなかった。

 けれど彼女は勝手に思い込んでいたのだ。ただの地上係があんな車で通勤すれば目立ちすぎるし、彼の好む控えめさにもそぐわない――と。

 彼は否定もしなかった。

 だから、それを暗黙の禁令だと受け取り、来る日も来る日も、満員バスに揺られて通勤してきた。

 会社へ着くと、玉井彩歌はまっすぐ部長室へ向かい、机の上に辞表を置いた。

 部長は目を丸くしたが、彼女の意思が固いと知ると、最後には受理して署名した。

「分かった。手元の仕事は、坂東にきちんと引き継いでくれ」

「承知しました」

 それからは引き継ぎ作業だった。

 書類の整理、伝票の照合、業務手順の説明――地上職といえど、細かい仕事は山ほどある。

 気づけば午後。頭が少しぼうっとしてきた。

 玉井彩歌は給湯室でお湯を注ぎ、カップを持って窓際へ歩く。何気なく一階の正面玄関へ目を落とした、その時だった。

 見慣れた黒い高級車が、すっと停まる。

 浅見朝治が私服姿で運転席から降り、助手席へ回ってドアを開けた。

 降りてきたのは牧野晴。

 仕立てのいいセットアップに、首元にはあの淡いピンクの蝶のブローチ。陽射しを受けて、きらりと光る。

 浅見朝治は笑みを浮かべ、何かを囁く。牧野晴は甘えるように彼の腕を軽く叩いてから、くるりと身を翻し、建物へ駆け込んでいった。

 浅見朝治はすぐには車へ戻らない。

 その姿が扉の向こうに消えるまで見送り、それからようやく乗り込んだ。

 給湯室で休憩していた同僚たちが、ひそひそと声を弾ませる。

「浅見機長、また牧野晴を送ってきたんだ」

「この車、新車じゃない? 牧野晴への誕生日プレゼントだって噂だよ」

「それだけじゃないって。あんなに忙しいのに、毎日送り迎えまでしてるんでしょ? 溺愛にもほどがある」

「羨ましい……牧野晴、ほんと運がいいよね。浅見機長にそこまで大事にされるなんて」

「そのうち本当に、未来の機長夫人になるんじゃない?」

 その言葉を聞きながら、玉井彩歌はカップの縁をぎゅっと握り締めた。

 自分が遠慮して乗らなかった高価な車は、あっさり誰かへ贈られる。

 彼は冷たい人じゃない。ただ、その優しさを彼女に向ける気がなかっただけだ。

 胸がぎゅっと握り潰されるように痛んだ。

 それでも、彼女は深く息を吸って感情を押し込める。水を飲み干し、自席へ戻って作業を再開した。

 最後の引き継ぎ資料をまとめ終えた頃、同僚の坂東が伝票の束を抱えてやって来た。困ったような顔をしている。

「彩歌さん、これ……前にあなたが扱った貨物伝票なんですけど、貨物ステーションのほうが急いでて。少し問題があるみたいで、もう一度だけ確認してもらえませんか?」

「分かりました」

 玉井彩歌は受け取ると、一枚ずつ目を通していく。

 すぐに異変に気づいた。数枚の伝票に、数値を書き換えた痕跡がある。このままでは搭載計算に誤差が出かねない。

 彼女は赤ペンで分かりやすく印をつけ、引き継ぎメモには疑義の内容と原データの出所を細かく書き込んだ。

 作業を終えると、赤字入りの伝票ごと坂東へ返す。

「問題のある箇所は印をつけておきました。必ず再照合してください」

 ようやく一息つき、席を片づけようとした、その直後だった。

 空気が、すっと重くなる。

 浅見朝治が険しい顔で歩いてきた。手には数枚の紙。さっきの伝票のコピーだ。

 彼は机の前で立ち止まり、冷えた目を向ける。

「これはお前が作ったのか? 基本の搭載データがこんなに狂ってる。お前、最低限の専門性すらないのか。これがどれだけ危険か分かってるのか」

 紙がぱしんと目の前へ叩きつけられた。

 周囲の空気が、一瞬で凍りつく。

「その数値を最終確定したのは私ではありません」

 玉井彩歌は伝票を見下ろし、静かに言った。

「異常を見つけた時点で、原本には赤で注記を入れています。元記録の再照合も依頼済みです。原本を確認すれば、私の署名も備考も残っているはずです」

「注記だと?」

 浅見朝治は鼻で笑った。

「ここには間違った数値がはっきり印字されてる。それで『注記しました』か。玉井彩歌、お前の昔からの雑さには今さら何も言わないつもりだったが――どうやら今は、責任感まで失くしたらしいな」

 容赦のない叱責。

 いつもの彼なら、ここで萎縮していただろう。だが今の玉井彩歌は違う。

 もう退職する身だ。――いや、離婚する身だ。

 怯える理由など、どこにもない。

 彼女は机に手をついて立ち上がり、真正面から見返した。

「それなら、今すぐ監視映像を確認してください。私が引き渡した原本が、どういう状態だったのか」

 その言葉に、浅見朝治の眉が深く寄る。

「お前ごときが監視確認を求めるのか。被害者みたいな顔をするな」

 つまり彼にとっては、真相などどうでもいい。

 彼女が悪い――それで済ませたいだけ。

 玉井彩歌の指先が、無意識にきゅっと握られた。

 けれど、思えばいつだってそうだった。

 その時、不意にやわらかな声が割って入る。

「朝治さん、そんなに怒らないで」

 牧野晴が彼の隣に立ち、穏やかにたしなめた。

 それから玉井彩歌へ顔を向ける。視線がふくらんだ腹をかすめ、すぐにふんわりと優しい笑みへ変わった。

「ええと……妊婦さん、あまり気にしないでくださいね」

 甘く柔らかな声音。気遣うようでいて、どこか上から目線の響きがある。

「朝治さんは機長ですから、安全にはとても敏感なんです。だから少し言い方がきつくなっただけで」

 そう言ってから、今度は浅見朝治を見上げる。無垢な瞳を装って。

「でも、この数字の間違いって、たしかに初歩的ですよね。特にこの基準値なんて、見ればすぐおかしいって分かるレベルですし……きっとこのお姉さん、少し専門知識が足りなくて、うっかりしてしまったんじゃないですか? お体も大変そうですし……今回だけは、どうか許してあげてください」

 善良そうな顔で、言葉の刃だけをそっと重ねてくる。

 玉井彩歌は思わず、乾いた笑いをこぼした。

「かばっていただく必要はありません」

 牧野晴を見て、はっきりと言う。

「そもそも、私のミスではありませんから」

 浅見朝治の眉間のしわが、さらに深くなる。

 だが玉井彩歌はもう彼を見なかった。スマホを取り出し、引き継ぎ書類の写真を表示して坂東へ向ける。

 監視映像を出す気がないなら、自分で証拠を出せばいい。ちょうど動画まで撮ってあった。

「これが原本の写真です。赤字の注記も、私の署名も残っています」

 そのまま画面を浅見朝治へ向け、指先で要点を示す。

「それと――」

 玉井彩歌は視線を牧野晴へ移した。

「今あなたが『明らかな誤り』だとおっしゃった基数。それこそが原データの正しい値です。今この伝票に印字されている数値のほうが誤りで、搭載安全の冗長基準にも合っていません」

 牧野晴の頬がかっと赤く染まる。目が揺れ、何か言い返そうとして唇を噛んだ。

「もういい!」

 その瞬間、浅見朝治が鋭く怒鳴った。

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