第5章 罰則

夕闇がすっかり落ちるころ、玉井彩歌はようやく重い身体を引きずって浅見家の別荘へ戻った。

下腹の鈍い痛みは引くどころか、疲労に合わせて波みたいに強くなっていく。今はただ、一刻も早く部屋へ戻って横になりたかった。

けれど玄関をくぐった途端、浅見朝日に呼び止められた。

「ちょうどいい。これ、アイロンかけといて」

浅見朝日は全身鏡の前で、細かなストーンをびっしり散らした深いVネックのイブニングドレスを身体に当てていた。

ドアの開く音に振り返り、顎を上げる。

「ちゃんと低温のハンディスチーマー使ってよね。ひと粒でも傷めたら、ただじゃ済まさないから」

言い終わるやいなや、手にしていた重たいドレスをそのまま彩歌の胸元へ放った。裾はこんもりとせり出した腹にぶつかる。

「っ……」

彩歌は低く息を詰め、半歩よろけて、どうにか踏みとどまる。

朝日は見えていないみたいに腕を組み、そのまま命令を重ねた。

「それと、あたしのジュエリーケースからルビーのセットも出して磨いといて。弦羽兄さん、やっと帰国したんだから。今夜は完璧に着飾って迎えに行くの」

日野弦羽の名を口にした瞬間、浅見朝日の頬にはうっすら赤みが差し、目まできらきらし始めた。

「業界でも最年少クラスの天才機長なんだよ? 今夜は財界も航空業界も大物が勢ぞろいするし、お兄ちゃんも行くし」

そこで彩歌へ、あからさまに嫌そうな視線を向ける。

「本当ならこういうパーティーって女伴が要るんだけど、あんた連れてくのは恥ずかしいし。だから今夜は晴姉さんが兄さんのエスコート役。あんたは家でおとなしくしてなよ。ついでにあたしの部屋も掃除しといて」

その言葉は、細い針みたいに胸へ刺さった。腹の奥の重い痛みまで、いっそうはっきりする。

もう朝日とやり合う気力すらない。彩歌はドレスを押し返し、そのまま部屋へ向かおうとした。

「……無理。疲れてるの。自分でやって」

浅見朝日はきょとんとした。彩歌に拒まれるなんて、考えたこともなかったのだろう。次の瞬間にはかっとなって、数歩で前へ回り込み、行く手を塞ぐ。

「はあ? 疲れてる? 家で養ってもらってるくせに、外に出たって雑用ばっかのくせに、何が疲れるわけ? さっさとアイロンかけて。すぐ着るんだから、時間ないの」

彩歌が動かないのを見ると、朝日は苛立ったように彼女の肩をどんと押した。

彩歌はたたらを踏み、後ろ腰を手すりにぶつける。ずきん、と鋭い痛みが走って、思わず息を呑んだ。

手すりに手をついて体勢を立て直し、冷え切った目で朝日を見る。

「手でも折れてるの? 自分でやればいいでしょ。私はあなたの世話係じゃない」

浅見朝日は目を見開いた。

この家での玉井彩歌は、ずっと黙って耐えるだけの女だった。何を言われても、どう扱われても、のみ込んできた。――それが今日に限って、言い返した。

「へえ。腹に子供がいるからって、ずいぶん気が大きくなったじゃない」

せせら笑いながら、朝日は彩歌の腕をつかんだ。長い爪が肉へ深く食い込む。

「何様のつもり? 兄さんはあんたのことなんかこれっぽっちも愛してないの。あんたが汚い手使って子供作らなきゃ、浅見家の門なんかまたげなかったくせに」

「鏡見たことある? 豚みたいに太ってて、見てるだけで気分悪い」

「晴姉さんと比べるとか笑わせないで。兄さんの足元にも及ばないくせに」

彩歌は腕を強く振り払った。

「離して」

思ったより力が入ったのだろう。高いヒールを履いていた朝日はぐらりとよろめき、危うく尻もちをつきかけた。

なんとか踏みとどまった朝日は、顔を真っ赤にして怒鳴る。

「今、あたしを突き飛ばした!? この最低女……よくもやったわね! 言っとくけど、あんたに選ぶ権利なんてないから! たとえ今ここで産気づいても、あたしの用事済ませてから病院行きなさいよ!」

その一言で、彩歌の中に残っていた最後の我慢が、ぷつりと切れた。

唇の端だけで冷たく笑う。

「浅見朝日。無駄よ」

その声に、朝日の眉がぴくりと動く。

「どれだけ着飾っても、どれだけ高い宝石をぶら下げても、日野弦羽はあなたなんて見ない」

まるで尻尾を踏まれた猫みたいに、朝日が弾けた。

「黙って!」

彩歌は淡く一瞥しただけで、さらに言葉を継いだ。

「確か、日野弦羽って前にインタビューで言ってたわよね。頭が空っぽで、恋愛ごっこしか興味がなくて、家に寄りかかって生きてるようなお嬢様は一番苦手だって」

一歩、距離を詰める。

声は大きくない。なのに、ひとつひとつの言葉が深く刺さる。

「五年前、あなた海外で一年も追い回したじゃない。訓練校の門の前で待ち伏せまでして。結局、本人には一度も会えずに、係の人に追い返されたけど」

浅見朝日の顔が一気にどす赤く染まる。

「この……っ、何をでたらめ――!」

金切り声と同時に、手が振り上がった。狙いは彩歌の頬。

彩歌はぎょっとして、とっさに部屋の中へ逃げ込む。

「浅見朝日! 正気なの!? 私、妊娠してるのよ!」

空振りした朝日は勢いのまま前へつんのめり、振り下ろした手をドア枠へ強くぶつけた。痛みで顔色が変わる。それでも怒りは収まらない。

「妊娠してるから何よ! どうせ誰にも望まれてない汚い子でしょ! 死んだほうが兄さんのためよ!」

再び手が振り上がるのを見て、彩歌の顔色が変わった。反射的にドアを閉める。

「――っ、ああっ! 指っ!」

浅見朝日の指がドアに挟まれ、みるみる赤く腫れ上がる。痛みで全身を震わせ、涙も鼻水もぐしゃぐしゃになってその場に崩れ落ちた。

ほどなくして、廊下に浅見朝治の声が響く。

「何があった!」

帰宅したばかりの浅見朝治は、彩歌の部屋の前で手を抱えて泣きじゃくる朝日を見て、瞬時に眉を曇らせた。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん、助けてぇ!」

浅見朝日は救いの綱でも見つけたみたいに、いっそう大声で泣きわめき、赤く腫れた指を突き出して訴える。

「玉井彩歌が狂ったの! あたし、ドレスにアイロンかけてって頼んだだけなのに、いきなり怒鳴って、ドアで指挟んだの!」

その指先を見た瞬間、浅見朝治の顔つきがすっと暗くなった。

「玉井彩歌、出てこい」

彩歌はゆっくりドアを開けた。こんな大事になるなんて思っていなかった。腫れた指に目を落とし、唇を引き結んで何か言おうとした――次の瞬間、手首を朝治に強くつかまれる。

「会社では牧野晴に突っかかって、家では朝日を傷つける。俺が甘やかしすぎたか。分別までなくしたんだな」

手首をつかまれたまま、彩歌は無理やり顔を上げさせられる。七年間、ずっと想い続けてきた男を見上げて言った。

「先に手を出したのは、そっちよ」

朝治の顔は冷え切っていた。

「だからって、指をドアに挟んでいい理由にはならない。骨でも折れてたらどうする」

「じゃあ、あのまま殴られてたらどうするの?」

彩歌の目に、じわりと赤みが滲む。

「お腹に当たってたら? 子供に何かあったらどうするの!」

浅見朝治は一瞬だけ言葉を失った。視線が、彼女の大きく張り出した腹へ落ちる。

けれど次の瞬間、朝日の泣き声がそれをかき消した。

「お兄ちゃん、痛いよぉ……っ。あたし、叩いてなんかないもん。ただちょっと脅かしただけなのに……」

朝治は深く息を吸い、胸の内の苛立ちを押し込める。

朝日が日頃からわがままだということくらい、分かっている。彼女の言葉をそのまま全部信じているわけでもない。だが、それでも――怪我を負わせた事実は変わらない。

しかも最近の彩歌が刺々しいのも、確かだった。

「経緯がどうであれ、怪我をさせたのは事実だ」

朝治は彩歌の目を真っ直ぐ見据え、言い切る。

「朝日に謝れ。謝るなら、この件はもう不問にする」

彩歌の目元がうっすら赤くなる。それでも涙だけは落とさない。

「……謝らなかったら?」

その問いに返った朝治の目には、隠しきれない失望があった。

「家の決まりに従ってもらう」

その短い一言で、場の空気が変わった。

浅見家の折檻に使われるのは、油を染み込ませた藤の鞭。皮膚は裂ける。肉も破れる。なのに骨や筋は傷つけない。ただ痛みだけが、芯まで食い込む。

彩歌はその場に立ち尽くしたまま、顔から血の気を失っていく。信じられないものを見るように、朝治を見た。

「浅見朝治……私、まだ妊娠してるのよ……」

朝治はその視線をまともに受けず、硬く顎を引いた。

「手のひらだけだ。痛みで覚えればいい。義姉としての分もわきまえられないなら、俺が教える」

ほどなくして、執事が藤の鞭を恭しく捧げ持って現れた。

彩歌はとっさに腹をかばい、一歩後ずさる。だが使用人が二人、左右から肩を押さえつけ、無理やり腕を引き開いた。

「離して……!」

彩歌は必死に身をよじる。こらえていた涙が、とうとう堰を切ってこぼれ落ちた。

浅見朝治は背を向けたまま、低く命じる。

「十回だ。身に染みさせろ」

浅見朝日は怨みのこもった目で、押さえつけられた彩歌を見つめていた。

そして、朝治が救急箱を取りに二階へ上がった隙を見て、鞭を持つ執事へ向かって、口の形だけで無音の命令を送る。

――あと十回。きつく打ちなさい。

前のチャプター
次のチャプター