第6章 離婚したい
浅見朝日は浅見家のお嬢様だ。執事に逆らえるはずもない。
彼はどうしようもないといったふうに息をつき、玉井彩歌へ視線を向けた。
「申し訳ありません、若奥様」
そう言うなり、藤の鞭が振り上げられる。ぴしり、ぴしりと、容赦なく彩歌の掌へ打ち据えられた。
掌はたちまち赤く腫れ上がり、柔らかな肉が裂け、じわりと鮮紅が滲む。骨の芯まで響くような痛み。
玉井彩歌は下唇をきつく噛みしめ、背筋を伸ばしたまま、一度も痛いとは言わなかった。そうして二十回、ただ黙って耐え切った。
執事がようやく鞭を下ろした、その直後だった。ポケットのスマホが震える。
彩歌は震える手でスマホを取り出し、通話に出た。
「彩歌、今、少し時間はあるか?」
林田永清の穏やかな声が聞こえてくる。向こうはやや騒がしく、人の話し声が混じっていた。
「今、JYホテルにいてな。航空関係の古い知人たちと軽く集まっているんだが、その中に民間航空の管理職を退いた方がいてね。君が以前書いた、極限気象下における飛行安全確保の論文に興味を持っておられる。悪くない機会だ。都合がつくなら、少し顔を出さないか」
彩歌の喉はからからに乾いていた。今の自分の姿で人前に出るなんて、とっさに断りかける。
けれど――もうすぐ浅見家を離れるつもりなら、新しい道が要る。
これは、逃してはいけない機会だった。
彩歌はスマホを握り締め、急いで答えた。
「分かりました。すぐ伺います」
通話を切ると、玉井彩歌は最低限だけ身支度を整え、そのまま家を出た。
三十分後。JYホテルに着いた彩歌は、まだ林田永清を探し当てる前に、隣の宴会場で人の輪の中心にいる浅見朝治を見つけた。
仕立てのいい黒のスーツに身を包み、グラスを片手に談笑している。その隣で彼の腕に絡んでいたのは、牧野晴だった。
淡い金色のマーメイドドレス。隙のない化粧。いっそう華やかで、目を引く。
二人は並んで立つだけで、最初からそうあるべきだったかのように見えた。
グラスを手にした誰かが、冗談めかして声をかける。
「浅見社長、牧野さんとは幼なじみなんでしょう? 今は同じ会社でもいつも一緒だし、これはもう吉報が近いんじゃないですか?」
浅見朝治は淡々とした顔のまま、肯定も否定もせず、ただグラスを軽く上げただけだった。
牧野晴は頬をほんのり染め、恥じらうように俯く。その仕草に、周囲の視線はいっそう甘く、艶を帯びたものになる。
玉井彩歌は影の中に立ち尽くし、その光景を見つめた。
胸の奥に、濡れた綿でも詰め込まれたような息苦しさ。重くて、痛い。
そのとき牧野晴が顔を上げ、すぐに彩歌を見つけた。ぱっと目を輝かせ、にこやかに手を振る。
「彩歌さん?」
その一声で、周囲の視線が一斉に玉井彩歌へ集まった。
浅見朝治もそちらを見た。眉間に皺を寄せ、そのまま険しい顔で歩み寄ってくる。
「お前、何をしに来た。ここはお前の来る場所じゃない。誰かに送らせる。帰れ」
「朝治さん、そんなに怖い顔しないでください」
牧野晴が裾をつまんで追いかけ、浅見朝治の腕に手を添え、柔らかく取りなす。
「彩歌さんも、きっとこういう場を見てみたかっただけですよ」
玉井彩歌は黙ったままだった。
牧野晴は彼女の青白すぎる顔色をひと目見て、ふと声色を変える。
「彩歌さん、お顔の色……どうしたんですか? もしかして、まだ午後のことを気にしてるんですか? 朝治さんはお仕事に真剣なだけで、言い方が少しきつくなることもありますし。彩歌さんが傷ついたのは分かります。でも、今はこういう場ですし……」
そこで言葉を切り、何かを飲み込むように彩歌を見てから、声を落とした。
「それに彩歌さん、妊娠中でしょう? ですから……まずはご自分のお身体を大切になさってください。気持ちのことは、無理にどうこうできるものでもありませんし」
やんわりとした言い回しだった。けれど一瞬で、玉井彩歌を場違いな妊婦――浅見朝治にすがりつきに来た女へと塗り替えてしまう。
侮蔑の視線が、あちこちから刺さった。
「妊婦のくせに浅見機長にまとわりつくとか、身の程知らずね」
「何考えてるんだか。牧野晴さんと比べるまでもないでしょ」
「牧野さん、ほんと綺麗だし優しいよな。あんな人にまで気を遣うなんて」
ひそひそと飛び交う声に、彩歌の顔色はいっそう悪くなる。
それでも指先をぎゅっと握り、背筋を伸ばし、牧野晴をまっすぐ見据えた。
「牧野さん、考えすぎです」
声は冷えていた。
「私は別の用で来ただけです。あなたと浅見機長には何の関係もありません。むしろ牧野さんのほうこそ、一日中いったい何を考えていらっしゃるんですか」
言い切ると、もう誰の顔も見なかった。くるりと踵を返し、林田永清と約束した個室へ向かって歩き出す。
個室ではちょうど、林田永清が彩歌のことを話題にしていたところだった。彼女が入ってくるなり、すぐ友人たちへ紹介する。
「彼女がさっき話していた玉井彩歌です。私の教え子の中でも、とびきり優秀な一人でしてね。ずっと成績は首位でしたし、先日の飛行トラブルでも中心になって対処した。少々回り道はしましたが、知識も勘もまだ鈍っていません」
玉井彩歌は丁寧に頭を下げ、挨拶をした。
年配の男性は本当に彼女へ興味を持っているようで、専門的な質問をいくつも投げてくる。
彩歌は一つひとつ、落ち着いて答えた。
論理は明快で、視点も鋭い。話は弾み、相手も何度も頷く。彼女が近いうちに操縦の現場へ戻るつもりだと知ると、いっそう嬉しそうに目を細めた。
二時間ほどして、彩歌は礼を述べて辞去した。
そして個室を出た直後――エレベーターホールで、牧野晴と鉢合わせる。
彩歌の姿を見つけるなり、牧野晴はすぐに歩み寄ってきた。
「彩歌さん、やっと見つけました。さっき宴会場での言い方、少しきつかったですよね。それは謝ります。でも、あれも彩歌さんのためなんです。朝治さんの心に、彩歌さんはいません。そんなふうにつきまとったって、余計に嫌われるだけです。これ以上、自分から恥をかきに行く必要はないでしょう?」
玉井彩歌は相手にする気もなく、そのまま横を抜けようとした。
だが牧野晴が手首を掴む。思った以上に強い力だった。しかも、よりによって藤の鞭で裂けた傷の上。
ガーゼにじわりと血が滲む。
彩歌は顔をさっと青ざめさせ、反射的に手を引こうとした。
その瞬間、牧野晴がぐっと身を寄せ、耳元で囁く。
「教えてあげます。朝治さんにとって、あなたが本当に何でもない存在だってことを」
玉井彩歌が息を呑んだ、その次の瞬間だった。
牧野晴はふらりと一歩後ろへ下がり、捻ったヒールのまま体勢を崩す。そのまま横の階段口へ倒れ込んだ。
彩歌は咄嗟に手を伸ばした。だが掴めたのは衣の端だけ。
牧野晴の悲鳴。
そのまま階段を転がり落ち、踊り場で倒れ込む。
「晴!」
ちょうど駆けつけた浅見朝治が、その一部始終を目にした。
彼はすぐさま駆け寄り、床に倒れた牧野晴を抱き起こす。額がわずかに切れ、血が滲んでいる。牧野晴は弱々しく彼の胸に寄りかかり、潤んだ目で見上げた。
「朝治さん……痛い……私が悪いんです。私の言い方が悪くて、彩歌さんを怒らせちゃって……だから、責めないであげてください……」
浅見朝治が顔を上げる。
階段の上に立つ玉井彩歌へ向けられたその顔は、ぞっとするほど冷え切っていた。
「玉井彩歌! お前は本当にどうしようもないな! ここまでつけ回してきた上に、わざと傷つけたのか!」
全身の血が引く。彩歌はただ首を振った。
「違う……! 彼女が勝手に落ちたの! 浅見朝治、お願い、信じて……」
「信じる?」
浅見朝治は牧野晴を抱き上げたまま、彩歌の横で足を止める。
「俺がこの目で見たんだ。見間違うわけがないだろ」
「本当に違うの。私は林田先生に会いに来ただけ。先生が証明してくれる」
そう言って、彩歌は震える手でスマホを取り出した。林田永清に電話をかけようとする。だが掌は汗でびっしょりで、うまく指が動かない。ようやく発信できても、返ってきたのは無機質な機械音声だけだった。
『おかけになった電話は、現在おつなぎできません……』
林田永清はまだ個室にいて、マナーモードのまま気づいていないのだろう。
浅見朝治は立ち止まり、氷のような目で彼女を見下ろした。
「玉井彩歌。ここまで下手な嘘も珍しいな。今度は指導教官まで巻き込むつもりか? 世界中がお前の芝居に付き合ってくれるとでも思っているのか」
そう言い捨てると、彼は牧野晴を抱えたまま大股で去り、病院へ向かった。
――病院。救急外来の前。
玉井彩歌は、それでもやって来た。
廊下へ足を踏み入れた瞬間、浅見朝治の冷たい視線が突き刺さる。彩歌は唇を引き結び、何か言おうとした。だが、口を開くより早く、知らせを受けて駆けつけた浅見朝日が割って入る。
「玉井彩歌、まだ何か企んでるの? 晴お姉様に嫉妬して、お兄様と一緒に宴会へ行くのが気に入らなくて、わざわざつけ回して嫌がらせしたんでしょ。昔だってそう。お父さんの会社が潰れた時、お金目当てで恥知らずにもお兄様に薬を盛って、結婚を迫ったくせに! あんたがあんなに卑怯じゃなかったら、お兄様だって晴お姉様を堂々と連れて行けたのよ!」
「結婚してからだって、子どもがいるからってお兄様はずっと我慢してきたのに……あんたはますます図に乗るばかり!」
積もり積もった昔の傷が、鋭い刃みたいに胸へ突き立つ。
玉井彩歌は何度も説明した。何度でも否定した。
それでも、誰も信じなかった。
浅見朝日と同じだ。誰もが、彩歌が浅見家との縁を手に入れるため浅見朝治を嵌めたのだと思い込んでいる。
その話題に触れられ、浅見朝治の顔もいっそう険しくなった。玉井彩歌がまだ認めないと見るや、怒りはさらに燃え上がる。
「今すぐ中へ入って、牧野晴に土下座して謝れ。彼女が許すまでだ」
「嫌よ!」
玉井彩歌は唇を噛み締め、はっきりと言い返した。
「私は悪くない。跪いたりしない」
「お前に拒む権利はない」
浅見朝治は彼女の手首を掴み、そのまま病室へ引きずっていく。
「浅見朝治、放して!」
彩歌は必死に抗った。腹の奥が鈍く痛む。手の傷も引き攣れて、冷や汗が噴き出す。
けれど浅見朝治の手は鉄みたいに固く、そこに情けのかけらもなかった。
何をしても間違いにされる。どれだけ耐えても、返ってくるのは屈辱だけ。
なら、この結婚にもう何が残っているのか。
「離婚したい!」
全身の力を振り絞り、玉井彩歌は叫んだ。
浅見朝治の足が、ぴたりと止まる。
振り返った彼の目に映ったのは、涙に濡れながらも決して折れない彩歌の眼差しだった。胸の奥が何かに強く打たれたように、わずかに揺れる。
だがその違和感もすぐに押し殺し、浅見朝治は嘲るように口元を歪めた。
「離婚? 玉井彩歌、お前はあれこれ手を回してこの子を身ごもり、浅見家に嫁いだんだろう。そのお前が、そう簡単に手放せるのか」
その視線が鋭く刺さる。
彩歌の手は無意識に大きくせり出した腹へ落ちた。胸の奥が裂けるみたいに痛い。呼吸さえ苦しい。
何度も息を吸い込み、ようやく言葉を押し出す。
「引き下がらないわ。中絶だってできる。あなたが父親欄に署名してくれれば、それで終わりにできる。私たち、今すぐきれいさっぱり他人になれる」
