第2章
怒りに任せて、彼が持ち帰った紙袋を払いのけた。
凝った造りのギフトボックスが転がり出て、床に叩きつけられる。
衝撃で蓋が開き、中から一つのブローチが露わになった。
私は息を呑む。
それは、私がずっと欲しかった特注のブローチだった。ある隠遁デザイナーの作品で、世界限定品。値段は法外に高く、金があっても手に入らない代物だ。
まさか、彼が覚えていてくれたなんて。
そのブローチ一つで、私の心はまたしても絆されてしまった。
私は真逸に長文のLINEを送った。
「ごめんなさい、私が神経質すぎたわ」
「会って話せないかな?」
「真逸、お願いだから返事をして」
既読はついた。けれど、返信は来ない。
彼はそれから数日間、家に帰ってこなかった。メッセージの返事もなければ、電話に出てくれることもない。
夜、部長が顔を覗き込んできた。
「希乃くん、今夜の飲み会、どうする?」
私は顔を上げ、引きつった笑みを浮かべる。
「部長、すみません。少し体調が優れないので、早めに帰って休ませていただきます」
「そうか、体調管理も仕事のうちだからな」
部長は気遣わしげに私を見た。
「キリのいいところで切り上げて、無理せず帰りなさい」
「はい、ありがとうございます」
同僚たちが次々と退社し、オフィスは徐々に静寂に包まれていく。
パソコンの画面に並ぶ無機質なデータの羅列を眺めながら、私はこめかみを揉んだ。めまいが酷くなっているし、胃のあたりも気持ち悪い。
少しだけ休んでから帰ろう。私はデスクに突っ伏した。
どれくらい時間が経っただろうか。カサコソという微かな物音で、私は目を覚ました。
弾かれたように顔を上げると、給湯室の方で懐中電灯の光が揺れているのが見えた。
泥棒だ。
私は息を殺した。心臓が早鐘を打っている。
男は私に背を向け、何かを物色していた。私はゆっくりと手を伸ばし、スマートフォンを取ろうとする。指先が触れた、その瞬間——
ガタン。
スマートフォンが床に落ち、乾いた音を立てた。
男が勢いよく振り返り、懐中電灯の光が私を直撃する。視線が絡み合い、互いに硬直した。
「な、なんでまだ人がいるんだよ!?」
男の声は狼狽し、恐怖すら帯びていた。
私が叫ぼうと口を開いた瞬間、男が突進してくる。逃げようとして私を突き飛ばしたのだ。
私は反射的に男の服を掴んだが、力任せに振り払われる。平衡感覚を失った私の体は、床に激しく叩きつけられた。
ゴン、と鈍い音が響く。後頭部がデスクの金属製の角に当たり、激痛が走った。
「何事だ!?」
廊下から夜間警備員の怒号が聞こえる。
男は慌てふためき、逃げ去っていった。
警備員が飛び込んできた時、私は床にうずくまり、顔面蒼白になっていたはずだ。
「小林さん!? 怪我をしてるじゃないか! すぐに救急車を呼ぶからな!」
溢れ出す心細さに、私は真逸の声が聞きたくてたまらなくなった。震える手でスマートフォンを操作し、彼に発信する。
今度は、繋がった。
「もしもし?」
真逸の声ではなかった。
私は凍りつく。
「もしもーし? 聞こえてる?」
その女の声は、甘ったるく響いた。
「真逸なら飲みすぎちゃって、もう寝ちゃったわよ。何か用なら伝えておこうか?」
片山雪羽だった。
通話を切る。たったそれだけの動作が、ひどく困難に思えた。
こちらの反応がないせいだろう、片山雪羽の方から一方的に電話が切られる。
私は冷たいデスクの側面に背を預けた。体の中に真っ赤に焼けた炭を押し込まれたかのように、全身が内側から焼き尽くされていく感覚。
頭の傷からはまだ血が流れている。けれど、引き裂かれるような胸の痛みに比べれば、こんなものは痛みですらなかった。
病院での処置を終えて外に出ると、すでに深夜だった。鉛のように重い体を引きずって帰宅する。
そこでようやく、真逸から折り返しの電話がかかってきた。
画面に点滅する名前を、私はじっと見つめる。五秒、十秒、十五秒……。結局、私は通話ボタンを押してしまった。
「自分が何をしたか分かったか?」
彼の声は氷のように冷たく、温度というものが感じられなかった。
「やっと自分から連絡する気になったみたいだな」
私は目を閉じる。涙が音もなく頬を伝った。
「真逸」
私は深く息を吸い込む。
「私たち、もう別れましょう」
電話の向こうで、三秒間の沈黙が落ちた。
「ああ、そうか」
彼は鼻で笑った。
「いいぜ。後悔するなよ」
別れてからの日々は、まるで早送りボタンを押されたかのようだった。
不眠症になり、夜は悪夢にうなされる。夢の中で、真逸は雪羽の指に指輪を嵌めていた。私は雪の中に立ち尽くし、いくら叫んでも彼には届かない。
次第に食欲も失せた。食事は喉を通らず、コーヒーを一口飲んだだけで吐いてしまう。
私は二人の過去のLINE履歴を何度も読み返し、真逸のSNSを、そして片山雪羽のSNSをストーカーのようにチェックし続けた。二人の関係がどこまで進んでいるのか、確認せずにはいられなかったのだ。
こんなことをしてはいけないと、自分に言い聞かせたこともある。
だから私は、彼の連絡先をすべて削除し、彼から貰ったプレゼントを引っ張り出してはゴミ箱に放り込んだ。
ある朝、書類を受け取ろうと立ち上がった瞬間、視界が突然暗転した。
遠くで同僚の悲鳴が聞こえる。体がどこまでも沈んでいくような感覚。そして、私の意識はそこで途切れた。
目を覚ますと、また病院だった。
白い天井。耳元で繰り返される医療機器の電子音。
医者にはこっぴどく叱られた。頭の怪我が完治していないのに、絶対安静の時期にこんな無茶をして、と。
私はただ静かにそれを聞き、時折「はい」「分かりました」と短く答えることしかできなかった。
看護師が点滴を交換していく。透明な液体が一滴、また一滴と血管に流れ込んでいくのをぼんやりと眺めていた。
その時だ。病室のドアが不意に開いた。
真逸が、ついに私の目の前に現れたのだ。
「随分と痩せたな」
彼はそう言った。
「ごめんなさい」
私は、そう口にしていた。
そうして、彼は私を許した。
私たちは、よりを戻したのだ。
