紹介
みっともなく彼に泣きついてヨリを戻してから、私は『聞き分けのいい女』になった。
彼の行き先も、会う相手も、もう私の知るところではない。
車の中に知らない甘い香りが残っていても、私は静かに微笑むだけ。
なのに、彼はある日、氷のような声で言った。
「お前は、どうして嫉妬しないんだ?」
チャプター 1
着信音が鳴った瞬間、降りる時が来たのだと悟った。
シートベルトを外し、ドアを開けようと身構える。
しかし、石川真逸が私の手首を掴み、引き留めた。
「待ってくれ、希乃」
そう言った直後、彼は素早く電話に出ると、先ほどとは打って変わった穏やかな声色で話し始めた。
「ああ……すぐ行く。少し待っててくれ」
私は静かに座ったまま、車内をなんとなく見渡し——視線を、置かれていた香水で止めた。
エメラルドグリーンのボトル。限定品。デイジーの香り。
私の香水ではない。私は花の香りが好きではないからだ。
すぐに視線を戻す。これが誰の香水なのか、なぜ他の女の香水が車にあるのか、問いただすつもりはなかった。
真逸は電話に応答しながら、こちらの顔色を窺っている。
ようやく通話が終わると、彼は電話を切った。これでやっと降りられると思ったが、真逸は眉間を揉みほぐし、香水の由来について弁解を始めた。
「昨夜の接待で、雪羽が俺の代わりに酒を飲んでくれたんだ。彼女を送った時に忘れていったらしい」
「知ってるだろう、彼女は片山伯父さんの娘だ。多少は面倒を見てやらないと」
「だが誓って言うよ。過去も現在も未来も、彼女とは何の関係もない」
私は何気なく答えた。
「わかってる。信じてるわ」
真逸は呆気にとられていた。
私の反応があまりに平然としていて、予想外だったのかもしれない。
一瞬の空白の後、彼は我に返って尋ねた。
「君は普段ここで降りたりしないのに、どうして今日は——」
「約束があるんでしょ?」
私は問い返した。
「どうしてまだ行かないの?」
彼は気まずそうに私の手を離し、腕時計に目をやった。
私も無意識に、自分の手首にある時計へと視線を落とす。
これはペアウォッチだ。付き合っていた頃、彼が贈ってくれたもの。
文字盤の針は、八時二十分を指している。
彼がすぐに出発しなければ、私は遅刻してしまう時間だ。
「サンセット・レストランを夜六時に予約してある」
彼は突然ハンドルを強く握り締め、私に約束した。
「希乃、俺は八周年記念日を忘れてない」
「七周年の時は、俺が悪かった」
「これからは、どんな記念日も絶対に欠席しない」
私は伏し目がちに彼を見た。
七周年の時、彼は片山雪羽のために、デートを待ちわびていた私を置き去りにした。
当時は胸が張り裂けそうで、帰宅してから彼と激しい喧嘩になった。
今思えば、あそこまで喧嘩する必要なんてなかったのかもしれない。
「希乃?」
「うん」
頷いて、ドアを閉める。
黒塗りのセダンは、すぐに車の流れに消えていった。
私はその場に立ち尽くし、彼に握られて微かに赤くなった手首を見つめる。
これから。
私たちに、これからなんてあるのだろうか。
機内の座席に着いた途端、目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちそうになった。
隣に座っていた親切な人が、飴を差し出してくれた。
「低血糖でしょう? 甘いものをどうぞ」
私は飴を受け取った。
甘ったるい味が舌の上で広がり、目眩はいくらか治まったが、今度は胃がもたれてくるのを感じた。
眉をひそめ、口の中の甘さを上書きしたくて、無意識にバッグの中の飴を探る。
真逸は私が低血糖持ちで偏食なのを知っていて、いつも私のバッグに好みの飴を常備してくれていた。
今回も例外ではなく、バッグにはまだ彼が入れた飴が残っている。
その飴をしばらく見つめてから、私は再びバッグの奥へと押し込んだ。
やめた。他の飴にも慣れていかないと。
シートの背もたれに身を預け、少し眠ろうと目を閉じる。
けれど眠れそうになく、頭の中は感傷で埋め尽くされていた。
私たちはどうして、こんなところまで来てしまったのだろう。
実際、いつから心が離れてしまったのか、今でもはっきりとは分からない。
一年前、片山雪羽が昇進した時からだろうか。
あの日、石川財閥内部で噂が流れた。新人の片山雪羽が異例の抜擢で部長になり、彼女を軽んじていた元の上司が翌日には解雇されたと。
同僚たちは陰で囁き合っていた。
「時期社長夫人ってことか?」
「やっぱり片山姓は強いな!」
「片山議員が直々に石川社長へ電話を入れたらしいぞ」
「政略結婚だろ、時間の問題さ」
給湯室に立ち尽くし、手にしたコーヒーが冷め切るまで、私はその会話を聞いていた。
その日の夜、また真逸の携帯が鳴った。
彼は箸を置き、ベランダへ出て電話に出た。
ガラス戸越しに、彼の目元が緩んでいるのが見えた。
電話を終えて戻ってきた彼は、私に言った。
「会社に行かないと」
「今から? もう九時よ」
壁の時計を見て私が言う。
「ああ」
彼はコートを羽織った。
「先に寝ててくれ」
ドアが閉まる音は、とても静かだった。
彼が帰ってきたのは深夜二時過ぎ。私はまどろみの中で、彼が忍び足で寝室に入り、私の額にキスをするのを感じた。
その後、同僚たちのグループチャットで、彼らの情報を頻繁に目にするようになった。
ある日、チャットに一枚の写真が投稿された。添えられた文字は『社長と片山部長が東京都現代美術館でデート? これって付き合ってる?』。
写真の中で、真逸と雪羽は並んで印象派の絵画の前に立っていた。
雪羽が何かを話し、真逸がわずかに首を傾けて耳を傾けている。
私はその写真を凝視し、指先を画面の上で長く止めたまま動けなくなった。
この展覧会は私も行きたくて、彼に何度も一緒に行こうとねだったものだった。
「こういう芸術鑑賞は時間の無駄だ」
彼は顔も上げず、ノートパソコンのレポートを見たまま言った。
「興味がない」
「でも、真逸——」
「希乃」
彼は顔を上げた。
「俺は忙しいんだ」
それ以上は聞かなかった。なのに、まさか片山雪羽と行っていたなんて。
その夜、私は彼を問い詰めた。
「今日、展覧会に行ったの?」
「俺を監視してるのか?」
彼は冷ややかな目で私を見た。
「ただ知りたいだけよ。どうして私が誘った時は時間の無駄だと言ったのに、雪羽となら——」
「仕事の付き合いだ。重要顧客の相手をしてたんだ」
彼は私の言葉を遮った。
「いちいち君に報告が必要か?」
「重要顧客? 石川真逸、別れたいならはっきり言ってよ、こんなふうに私を苦しめないで!」
「君は俺への最低限の信頼すらないんだな」
彼は背を向け、部屋を出て行こうとする。
「話すことはない」
「待って——」
バン。
重々しい音を立てて、扉が閉ざされた。
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その一言で、彼は私の寂しさも、涙も、すべて無かったことにしてきた。
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けれど、彼の天秤は、とうの昔に壊れていたのだ。
そして、心臓が凍りつくような、あの出来事。
私の愛は、ついに底をついた。
だから、私は彼の元を去る。
でも、ただ静かには去らない。
彼が築き上げてきた偽りの日常に、私という存在が確かにあったことを刻みつけるために。
これは、愛が憎しみに変わるまでの、長い長い物語の終着点。
私が最後に贈るプレゼントは、彼が決して忘れられない、真実という名の苦い毒。













