第3章
私たちが一緒に過ごした時間は、あまりにも長すぎた。彼が私の生活の一部としてそこにいることが、もはや当たり前になってしまうほどに。
そんな彼を突然、生活から引き剥がそうとすれば、私には強烈な禁断症状が襲いかかるだけだろう。
だから私は、ゆっくりと、時間をかけて彼への依存を断ち切ることにした。
復縁してからの私は、異常なほど物分かりが良くなった。
彼への予定の確認を減らし、わがままも一切言わなくなった。
最初こそ胸にぽっかりと穴が空いたような虚無感に苦しんだが、時が経つにつれて、それさえも静かに受け入れられるようになった。
彼に対して、もう何の期待も抱かない。
時間通りに来てくれることも、記念日を覚えていることも、私が必要としている時にそばにいてくれることも——すべて期待しないことにした。
期待そのものが死滅してしまえば、失望など生まれようがないのだから。
私は自分の未来図も描き直した。以前から憧れていた企業に履歴書を送ったのだ。
その会社ではフランス勤務が条件だった。かつての私は真逸への未練から日本を離れることを拒んでいたけれど、今ではむしろ、フランスも美しいだろうし、一度見てみたいとさえ思える。
三日後、面接の通知が届く。
一週間後、採用通知を手にした。
私は迷わず、半月後にパリへ発つ航空券を予約した。
これらのことは一切、真逸に告げるつもりはない。
どうせ彼は気にも留めないだろうから。
だが、私が物分かり良くなればなるほど、彼は逆に不機嫌さを募らせていった。
「希乃、最近俺に話すことはないのか?」
風呂上がりで、これから眠ろうとしていた私を、彼が呼び止める。
私はきょとんとして彼を見つめ返した。
「別にないけど、どうして?」
「そうか?」
彼は立ち上がると、私の背後に回り込み、その腕の中に私を閉じ込めた。
「どうも最近、お前の様子がおかしい気がするんだが」
彼の吐息が首筋にかかる。
私はわずかに顔を背け、彼のアタマを押し退けた。
「考えすぎじゃない?」
その夜、彼は妙に強引だった。
「なぜ雪羽にお前が嫌がらせを受けていることを言わない?」
彼は私の耳元で低い声を響かせた。
「頻繁に残業させられているなら、真っ先に俺に相談するべきだろう」
唇を噛みしめると、脳裏に無数の記憶がフラッシュバックする——
会議室で、真逸は衆人環視の中で私を叱責した。
『こんな初歩的なミスをするのか?』
社員たちの前で言い訳もできず、私はただ謝ることしかできなかった。
帰宅後、なぜ話を聞いてくれないのかと問う私を、彼は冷淡に遮った。
『仕事は仕事、プライベートはプライベートだ。希乃、会社で俺を困らせるな』
だが片山雪羽がもっと深刻なミスを犯した時、彼はただ穏やかにこう言ったのだ。
『雪羽はまだ若い、チャンスを与えてやってくれ』と。
「仕事は仕事、プライベートはプライベート。……そう私に教えたのは、あなたじゃなかった?」
彼は言葉を詰まらせ、不意に手を伸ばして私の顔を自分の方へと向けさせた。
強引に視線を合わせられる。
私の瞳を覗き込む彼の目は、明らかに狼狽していた。
「希乃、お前、そんな目で……」
私はただ、静かに彼を見つめ返すだけだった。
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次の社内会議で、真逸はあえて片山雪羽を指名して報告を求めた。
「片山部長、新規プロジェクトの進捗状況を報告してくれ」
真逸の声には、一切の温かみがない。
私はうつむいて資料を整理しながら、視界の隅で雪羽が立ち上がるのを見た。彼女はファイルの端を白くなるほど強く握りしめている。
口を開くものの、声が出ていない。
「あの……市場調査の件については……」
彼女の声は尻すぼみになっていく。
「具体的なデータは?」
真逸が遮る。
「三ヶ月もの時間があって、基礎データすら出せないのか?」
雪羽の顔色がさっと青ざめた。
説明できるはずがない。その企画書は、私が彼女の代わりに作成したものなのだから。
「石川社長、私は……」
「基本的な職責すら全うできないのであれば」
真逸の指がデスクを叩く。その乾いた音は、心臓を直接叩かれているかのような圧迫感があった。
「部長というポストについても、再考せざるを得ないな」
雪羽の目から、瞬く間に涙が溢れ出した。彼女は口元を押さえて会議室を飛び出し、ヒールの音だけが廊下に慌ただしく遠ざかっていった。
会議室は死のような静寂に包まれた。
周囲からの視線を感じる。ざまあみろという嘲笑、同情、そして大半は他人の不幸を楽しむ野次馬的な好奇心。
「解散だ」
真逸はファイルを閉じ、誰よりも先に部屋を出て行った。
給湯室では、噂話の花が咲いていた。
「見た? 未来の社長夫人、ついに寵愛を失ったわね」
「だから言ったでしょ、政略結婚だって能力がなきゃダメだって」
「でも、彼女には片山議員っていう後ろ盾があるじゃない」
「それが何よ? 小林さんはあんなに怒られても一度だって泣かなかったのに、あのお嬢様ときたら……」
私はコーヒーカップを手に、そんな会話に混ざる気は起きなかった。
「希乃はどう思う?」
同僚の小野が突然聞いてきた。
その場の全員の視線が私に集まる。
私は曖昧に微笑んだ。
「私はただの平社員だから。未来の社長夫人と比べるなんておこがましいわ」
その言葉が落ちた瞬間、給湯室が凍りついたように静まり返った。
顔を上げると、入り口に真逸が立っていた。
その表情は窓の外の雨雲のように暗く、眼差しは窒息しそうなほど冷ややかだ。
「小林希乃」
低く重い声が響く。
「私の執務室に来なさい」
背後で執務室のドアが閉まる。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動していた。
「希乃……」
反応する間もなく、真逸が背後から私を抱きしめていた。
私は身をよじって彼を突き放そうとする。
「会社ですよ!」
彼はしばらく私を見つめていたが、渋々といった様子で手を離した。
「希乃、聞いてくれ」
「俺と雪羽の間には何もない。俺はただ……」
「……もういい。時間をくれ。俺がどれだけお前を愛しているか、行動で証明してみせる」
以前、私が必死に求めていた約束を、彼はくれようとしなかった。
なのに、私が去る決意をした今になって、彼はそれを差し出してくるのだ。
それからの数日間、真逸の態度は劇的に変化した。
彼は何事も私に逐一報告してくるようになり、私たちの関係はまるで雪羽が現れる前の頃に戻ったかのようだった。
やがて、私たちの交際八周年記念日が近づいてきた。
そこで私は初めて、手配した航空券の日付がまさにその日であることに気がついた。
発つ前に、彼と正面から向き合って全てを話し、きれいさっぱり終わりにするべきだと考えていた。
記念日の前日。
彼を訪ねていくと、裏口の物陰に真逸と雪羽が立っているのが見えた。
彼の腕は彼女の腰に回され、彼女の腕は彼の首に絡みついている。
二人は、キスをしていた。
その角度も、その体勢も、八年前に私たちが恋人同士になった時と全く同じだった。
夕陽の残照さえも、あの時と寸分違わず重なって見える。
真逸の肩越しに、雪羽の視線が真っ直ぐに私を射抜いた。
その瞳は勝ち誇ったような得意気な色と挑発に満ちていて、まるで私に対する勝利宣言のようだった。
私は小首をかしげて彼女を見つめ返したが、何も言わなかった。
その場を立ち去る私の足取りは軽く、感情も凪いだ水面のように穏やかだった。
ただ、ほんの少しだけ、拍子抜けしたような虚しさを感じただけだ。
そうか。どうでもよくなってしまえば、もう傷つくことさえなくなるのだと。
