第4章
八周年の記念日。真逸は早朝に目を覚ました。
近頃、妙に静かだと感じる。
例年なら、希乃は一週間も前からそわそわし始め、予定をこっそり尋ねてきたり、カレンダーに小さなハートマークを描き込んだりしていたものだ。あれこれと思いを巡らせるくせに、彼女は些細なことでもすぐに満たされる。
だが今年、希乃は記念日について一言も触れなかった。今朝、車の中でそれとなく水を向けてみても、何の反応も返ってこなかったのだ。
こんなはずはない。
真逸の胸に不安が込み上げ、かつてないほどの恐慌が彼を鷲掴みにした。
午後三時。突如としてオフィスの方から激しい怒声が響いてきた。
「石川真逸! 出てこい!」
片山議員の声がフロア中に轟く。
真逸は眉をひそめて執務室を出た。その表情は陰鬱だ。
「片山議員、場所をわきまえてください」
「場所だと?」
片山議員は鼻で笑った。
「婚約を破棄した時、貴様は場所をわきまえたのか? あれがどれほど雪羽に打撃を与えたか分かっているのか!」
「何様のつもりだ」
片山議員が吠える。
「私の後押しなしで、あの開発区プロジェクトの認可が下りたと思っているのか?」
「ですから、片山家の助力には感謝しています」
真逸の声には、感謝の色など微塵も感じられない。
「ですが、婚姻は別の話です」
「真逸!」
不意に雪羽の声が響いた。
オフィスの入り口に立つ彼女の目は赤く腫れ上がり、完璧なメイクもその憔悴を隠しきれていない。
「どうしてこんな仕打ちをするの?」
声が震えている。
「私の何がいけなかったの?」
真逸は冷ややかな視線を向けるだけで、何も答えない。
「私はあなたのために尽くしたわ!」
雪羽の声が金切り声に変わる。
「付き合いにも顔を出して、根回しもして、あなたが『あの女』と別れるのを待ってあげていたのよ! 私のどこが悪かったというの!」
「真実が知りたいか?」
真逸が口を開く。その響きには残酷なまでの冷徹さが宿っていた。
「開発区の認可を得るために、君を利用させてもらっただけだ。目的は達した。ならば婚約も不要になる」
雪羽の顔から血の気が引いた。
「それと、君の言う『尽くした』という件だが」
真逸の眼差しは氷のように鋭い。
「社内で希乃をどのように虐げていたか、私が知らないとでも?」
「虐げた?」
雪羽は唐突に笑い出した。絶望と狂気を孕んだ笑みだ。
「そう、あの女はあの子だったのね! 石川真逸、あなた知らないでしょう。小林希乃はずっと前に退職願を出していたのよ。昨日、正式に退職手続きは完了したわ。彼女の地位が低すぎて、あなたの目には届かなかっただけ!」
真逸の心臓が大きく跳ねた。
「それからね」
雪羽は涙を拭うと、その瞳に悪意を宿らせた。
「昨日の夜、私たちがキスしているところ、あの子に見られたわよ。それでもまだ、彼女が待っていてくれると思う?」
真逸の顔色が蒼白になった。
昨夜? キス?
昨日の夕暮れ時を思い出す。雪羽が婚約の話があると言ってきた時のことだ。
不意に距離を詰められ、反応する間もなく唇を塞がれた。
あれを、まさか希乃に見られていたのか?
石川真逸は会社を飛び出し、家へと急いだ。マンションに駆け込み、玄関を見る。靴箱にはまだ、あのベージュのハイヒールがあった。
「希乃!」
虚ろなリビングに声が反響する。
寝室のドアは半開きだった。ベッドは皺一つなく整えられている。
心臓が重く沈んだ——希乃は潔癖なところがあり、極度の怒りを感じた時だけ、すべての痕跡を消し去るように掃除をする癖があるのだ。
サイドテーブルの上には、ペアの腕時計が静かに置かれていた。
その横に、一枚のメモ用紙が押さえてある。
『別れましょう。お返しします』
短すぎる一文。文字の線は頼りなく、今にも紙から浮き上がって消えてしまいそうだ。
希乃の番号を鳴らす。呼び出し音が耳元で響き続け、やがて無機質なアナウンスに変わった。『おかけになった電話は、電源が入っていないか……』
不意にスマホが震えた。
「石川社長、今夜のサンセットレストランでのプロポーズの件ですが……」
担当者の声は恐縮している。
「延期になさいますか? 予約金は三ヶ月間保持できますが」
石川真逸はメモ用紙を見つめたまま、絞り出すように言った。
「キャンセルだ」
「しかし、特注の指輪がすでに……」
「キャンセルだと言っている!」
通話を切り、腕時計を握りしめる。金具が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走った。
ただ拗ねているだけだ。そうだろう?
あのキスを見て怒っているだけだ。機嫌が直れば戻ってくる。
石川真逸はそう自分に言い聞かせた。
今すぐにでも希乃の元へ飛んで行きたかったが、ようやく事業の基盤が固まったばかりだ。今、ここを離れるわけにはいかない。
不眠不休で働き続け、片山議員の勢力を根こそぎ排除するのに、それから二ヶ月を要した。
石川財閥は完全に彼の手中に収まった。
だが、希乃の携帯に繋がることは、二度となかった。
