第2章 離婚しよう

狩野姫空は身を起こし、ベッドサイドテーブルに置いてあった離婚協議書を手に取ると、そのまま正木稲巳の前へ差し出した。

そこに置いていたのは、彼が帰ってきたらすぐ渡せるように――ただ、それだけのためだ。

シャワーへ向かおうとしていた正木稲巳は、差し出された紙を見て足を止める。冷えた双眸に、露骨な不機嫌が差した。

「狩野姫空……今度は何の手だ。何を企んでる」

「私が何を企んでようと関係ない。あなたがサインさえしてくれれば、もう二度とあなたの目の前に現れないから」

淡々とした声。その底に、薄い嘲りが混じっていた。

分かっている。

正木稲巳が自分を娶ったのは、ただの恩返しだ。

一目惚れだった。嫁ぎたいと思ったのも事実。

けれど、彼が言うような「手段」なんて使ったことはない。

この七年、注げるものは全部注いできた。

正木稲巳は姫空を見つめた。あまりに真剣な眼差しに、ほんのわずか――迷いが揺れる。

彼は協議書を受け取り、目を落とした。

子どもは要らない。財産は折半。

誰が見ても、姫空が司朗を命より大事にしているのは明らかだ。

その姫空が、親権を放棄して離婚?

正木稲巳の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。

「付き合ってられない。こんな茶番に時間は割けない」

そう吐き捨てると、協議書を姫空の顔へ投げつけ、背を向けた。

紙が頬を叩く。

姫空は反射的に受け止め、そのまま何事もなかったようにベッドサイドテーブルへ戻した。

――もう決めた。

正木稲巳が同意しようがしまいが、離婚はする。

翌朝。

狩野姫空はいつも通り起きて朝食を用意し、正木司朗を起こしに行った。

司朗は小声でビデオ通話をしている。隠すような声音でも、相手が林田守萌だと分かった。

「司朗、起きて」

声をかけた瞬間、司朗は慌てて言う。

「守萌おばさん、起きるね。夜、会おうね」

姫空が部屋に入る直前、通話はぷつりと切れた。

「ママ、今日の放課後、迎えに来なくていいよ。友だちと約束しててさ。そいつのパパ、パパの友だちなんだって。だからパパに迎えに来てもらう」

言いながら司朗は、ちらりと姫空の顔色をうかがう。

余計なことを聞かれたくないのだ。

――わざと騙してるわけじゃない。

ママはすぐ口うるさくなるし、守萌おばさんに会うのも嫌がるから。

「うん」

姫空はそれだけ返し、何も聞かなかった。

司朗はほっと息をつく。

……でも、どこか変だ。今日はママがしつこく質問してこない。

姫空は知っていた。司朗が今夜、誰に会うつもりか。

さっき、扉の外で聞いていたから。

以前なら、気になって仕方がなかった。

母親である自分を超えるほどの親密さが、許せなかった。

けれど今は、もうどうでもいい。

「支度できた? 下で朝ごはん」

「うん」

二人で階段を降りる。

食卓の寿司を見た司朗が眉をひそめた。

「ママ、昨日言ったよね? 三文魚がいいって。キュウリとニンジン抜きって。これ三文魚じゃないし、入ってるし。どうやって食べろっていうの?」

姫空は牛乳を注ぎながら、淡々と言う。

「家に三文魚がなかった。キュウリとニンジンが嫌なら、自分で抜けばいい」

司朗は頬を膨らませ、拗ねた声を出す。

「もういい。食べない」

姫空は取り合わなかった。

――昨日、少し考えた。

自分はこの家のために、全部を捧げてきた。

家に家政婦がいても、食事は三食すべて自分が作った。

誰のことも大事にして、心のいちばん柔らかい場所に置いてきたのに、返ってくるのは尊重どころか、当たり前という顔。

司朗にだって、全てを注いだ。

欲しいと言われれば、家になくても早朝から買いに走った。

それでも最後に返ってきた言葉は――

『うちの家政婦』。

「どうしたの、どうしたの」

騒ぎを聞きつけて、梅崎静がダイニングへ入ってくる。

「司朗、どうしたの?」

司朗はすかさず告げ口した。

「おばあちゃん、僕、三文魚がいいのに、ママ作ってくれない」

梅崎静の眉が吊り上がる。

「狩野姫空、どういうつもり? 司朗が三文魚食べたいって言ってるのに作らないの?」

姫空は変わらず淡々と答える。

「家に三文魚がないの」

「ないなら買いに行けばいいでしょ!」

そのとき、正木稲巳もダイニングに入ってきた。

梅崎静は待ってましたとばかりに告げ口する。

「稲巳、聞いてよ。この子、最近ほんと怠けてるのよ。司朗が三文魚食べたいって言ってるのに作らないの」

姫空は箸を握る手に力を込めた。

家政婦以上に働いているのに、返ってくるのが「怠けてる」――。

正木稲巳が姫空を一瞥する。

姫空は何も反応せず、自分の朝食を食べ続けた。まるで、話題の中心が自分ではないかのように。

正木稲巳の視線が司朗へ移る。

「司朗。好き嫌いはだめだ。出されたものを食べなさい。いいな」

「……うん」

司朗は不満げに頷いた。父親は少し怖い。

姫空はわずかに目を伏せる。

意外だった。稲巳がそう言うなんて。

けれど、それ以上の感情は湧かなかった。

……

姫空は司朗を学校へ送り、その足でカフェへ向かった。

林田守萌と会う約束をしていた。

店に入ると、守萌はすでに席にいた。姫空を見つけると、軽く手を上げて合図する。

姫空は向かいに座った。

林田守萌は人気上昇中の若手女優だ。外ではサングラスに帽子、マスクで厳重に隠している。

この時間帯は店内も空いていて、彼女はサングラスとマスクを外し、口元に薄い笑みを浮かべた。

――やっぱり、綺麗だ。

派手すぎないのに目を奪う、明るい艶のある美しさ。

一つ一つの造形は尖っていないのに、組み合わさると不思議なくらい完成されている。

「姫空。私を呼び出したのって、昨日のこと? 前は稲巳のこと、けっこう信じてたじゃない。どうして今はそんなに疑うの?」

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