紹介
だが、正木稲巳が高嶺の花を優しく抱き寄せ、労わるように接する姿を目にしてしまった。そして息子は、あの高嶺の花が自分の母親であってほしいと願った。
その瞬間、姫空は悟った。自分が至らないのではない。彼らが、自分を十分に愛していなかっただけなのだと。愛されないのなら、もう手放そう。
一枚の離婚届。この専業主婦、もうやめる。
「姫空、シャツにアイロンをかけてくれ。明日、会議で着ていく」
「自分でかけられないの?」
「ママ、ハンバーグが食べたい」
「自分で作りなさい」
狩野姫空が父子の世話を焼くのをやめた途端、父子はたちまち動揺しはじめる。
「姫空、戻ってきてくれ」
「ママ、愛しているから」
遅すぎた愛情は、何の価値もない。
チャプター 1
「もっと近寄って。もっと『匂わせ』て。そう、その感じ。いいよ」
狩野姫空は扉の外に立ち尽くし、撮影現場を見つめていた。
そこには、自分の夫と――自分の親友がいた。
腰に腕を回し、肩を寄せ、体と体がぴたりと密着している。
正木稲巳の冷ややかな顔立ちに、林田守萌の艶めいた色気。絵になる二人。あまりにもお似合いだった。
手に提げた保温容器が、力の入りすぎた指先で小さく揺れる。
姫空は深く息を吸い込み、胸の奥を刺す痛みを必死に押し込めた。
「ちょっと、あんた誰? なんで撮影現場に入ってきてんの?」
スタッフの刺々しい声が飛び、室内の空気がざわつく。
「……ママ?」
ちょうどミネラルウォーターを二本抱えて歩いてきた正木司朗が、姫空を見て目を見開いた。驚きと、ほんの少しの後ろめたさ。
――司朗も、ここにいたんだ。
今朝は「同級生と遊ぶ」って言ってたのに。
けれど、すぐに腑に落ちた。
司朗は守萌に会いに行くたび、いつも嘘をつく。
物音に気づいた正木稲巳と林田守萌が、こちらへ出てきた。
守萌は微笑みを浮かべたまま言う。
「姫空、どうしてここに?」
「さっき、何してたの?」
妻として、あんなに密着していた二人に問いただすのは当然だ。
だが稲巳の端正な顔には、不快と嫌悪が浮かぶだけだった。
「守萌さん、この人は?」
スタッフが好奇心に目を光らせ、姫空を上から下まで値踏みする。
司朗が反射的に言った。
「うちの家政婦」
――ママ、外に出るなら少しは身なり整えればいいのに。
関係がバレたら、パパの顔に泥を塗るだけだ。
スタッフの視線が姫空の保温容器に落ち、次に彼女の服装へ。
ジーンズにTシャツ、ノーメイク。興味は一瞬でしぼんだ。
「家政婦? ……へえ」
姫空は小さく笑い、視線を稲巳へ向けた。
結婚して七年。彼は一度も、彼女を『妻』として公にしたことがない。
そして今、息子の口から出た言葉は――家政婦。
それでも稲巳は、何も訂正しなかった。
姫空は喉の奥を絞り出すように尋ねる。
「稲巳……私は、あなたたちの家政婦なの?」
分かっている。彼は庇わない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
目の縁に、意地の涙が溜まっていく。
稲巳は冷えた目で、面倒くさそうに言い捨てる。
守萌が不満げに眉を寄せた。
「私たち、仕事してただけよ。いい加減、無理に騒がないでくれる?」
「相手にするな」
稲巳の薄い唇から零れたのは、情け容赦のない言葉だった。
視線すら寄越さず、背を向けて撮影現場へ戻っていく。
守萌も姫空に軽く笑みを向けると、同じように中へ入った。
「ママ、今日のママはさすがにひどいよ」
司朗が言い募る。
「守萌おばさん、雑誌の撮影だったんだ。相手のモデルのおじさんが来なくて、パパが代わりに入っただけ。なんでパパを信じないの? 僕たち、がっかりだよ」
そう言い捨て、司朗も二人の後を追った。
守萌は司朗が追いつくと、自然な仕草で手を取った。
――まるで、本当の家族みたいに。
『相手にするな』
その言葉が、姫空の頭の中で何度も反響する。
自分の愛は、結局、無価値だったのだ。
姫空は息を吸い、口元に冷たい笑みを浮かべる。
そしてゴミ箱の前に立ち、保温容器を一度見下ろし――迷いなく捨てた。
正木稲巳に七年分の愛を注いで、返ってきたのは「家政婦」という肩書き。
撮影現場を出ると、姫空はタクシーで家へ戻った。
「へえ、もう帰ってきたの?」
梅崎静の嘲る声。
姫空は目を上げ、彼女をまっすぐ見据える。
「わざとでしょ?」
――稲巳の胃が痛い、まだ何も食べてない、スープを煮て持っていけ。
あれは、見せるためだった。
梅崎静は鼻で笑った。
「そもそもあんたが稲巳を騙して、『助けたのは私』なんて言ったから結婚できたんでしょ。現実を見せてあげただけ。あんたみたいなのが、うちの息子に釣り合う? 図々しく正木家に居座って」
姫空は冷たく一瞥し、拳を握りしめたまま階段へ向かう。
――今なら分かる。
罪を着せたいなら、理由なんてどうとでも作れる。
追い出したいだけ。だから口実を用意した。
梅崎静が背中に向かって怒鳴る。
「分別があるなら自分から出ていきなさい! 追い出されて恥かく前に!」
出ていく?
姫空は、書きかけの離婚協議書へ視線を落とす。
冷えた瞳に、揺れはない。
――もちろん。もう決めた。
夕食前、司朗が帰宅した。運転手が送ってきたらしい。稲巳は帰っていない。
司朗は玄関からまっすぐダイニングへ行き、食卓を見て眉をひそめた。
「ママ、晩ごはん作ってないの?」
声を張り上げる。
姫空は二階からゆっくり降りてきた。
「ママ、なんで作ってないの?」
司朗の口調には露骨な苛立ちが混じっている。
「帰ってくるって知らなかった。お腹すいたなら長島さんに作らせる」
「いい。食べない」
どうせ自分の好きじゃないものばかりだ。
さっき守萌おばさんがフライドチキンとハンバーガーを食べさせてくれたし。
姫空は司朗を見つめ、胸の奥が複雑にざわめいた。
――二、三歳の頃は、あんなに懐いていたのに。
いつから変わった?
……守萌が帰国してからだ。
守萌おばさん、守萌おばさん。
嘘までついて会いに行くようになった。
司朗だけじゃない。稲巳もそうだ。
もともと冷淡だった態度が、守萌の帰国を境に氷点下まで落ちた。
姫空は静かに尋ねた。
「司朗。ママとパパが離婚したら、どっちについてくる?」
司朗は自分の息子だ。十八歳までは育てる義務がある。
もちろん、選択は尊重する。
「ママ、だから言ったじゃん。パパと守萌おばさんは仕事だって。もうやめてよ」
その一言で、答えは十分だった。
「分かった」
姫空が淡々と返すと、司朗はほっとしたように駆け寄り、抱きついた。
「ママ、さっき嘘ついたの怒ってるんでしょ。でも本当に友だちと遊んでて、ついでにパパの会社に寄っただけなんだ」
姫空は抱き返さない。何も言わない。
ついでかどうかなんて、もうどうでもよかった。
「ママ、眠い。寝るね。明日の朝、サーモンがいい。キュウリとニンジンは抜いてね」
言い捨てて、司朗は二階へ上がっていった。
姫空も部屋へ戻り、書きかけだった離婚協議書を最後まで書き上げた。
それをベッドサイドに置き、パジャマを持ってシャワーへ。
戻ってきて、癖でスマホを手に取る。時刻は0時。
稲巳はまだ帰っていない。
トーク画面を開き、いつものように文字を打つ。
――いつ帰るの?
送信しようとして、指が止まった。
一文字ずつ削除する。
離婚するって決めたのに、何を気にしてるの。
結婚前、稲巳が深夜に帰宅途中で事故に遭い、大量出血して死にかけた。
夜で誰にも気づかれず、失血で意識が遠のいていたところを、たまたま通りかかった姫空が見つけ、救急車を呼んだ。
その恩で、彼は彼女と結婚した。
結婚してから七年。
0時を過ぎても帰らない日は、必ずメッセージを送った。
昔は冷たく一言返ってきた。
だがここ二年、返信は一度もない。
姫空はスマホの電源を落とし、放り投げてベッドに横になった。
うとうとする中、足音が聞こえる。
薄く目を開けると、稲巳が戻っていた。
彼もこちらを見た。
姫空が寝ているのを見て、顔がさらに冷える。
以前なら、どれだけ遅くても姫空は待っていた。
風呂の湯を張り、寝間着を用意して。
姫空は一度だけ彼を見て、背を向け、目を閉じた。
何か言うかと思ったが、稲巳は何も言わない。
そうだ。
守萌との噂なんて、今に始まったことじゃない。
彼が姫空に説明したことなんて、一度でもあった?
――私は、何を期待してたんだろう。
姫空は静かに言った。
「正木稲巳……離婚しましょう」
最新チャプター
#220 第220章 結婚式会場
最終更新: 10/13/2026#219 第219章 彼女には自分の計画がある
最終更新: 10/13/2026#218 第218章 正木司朗が見つかった
最終更新: 10/13/2026#217 第217章 正木司朗がいなくなった
最終更新: 10/13/2026#216 第216章 離婚は正しい
最終更新: 10/13/2026#215 第215章 林田守萌が妊娠した
最終更新: 10/12/2026#214 第214章 人はやはり自分に頼らねばならない
最終更新: 10/12/2026#213 第213章 正木稲巳も孤児院に来た
最終更新: 10/12/2026#212 第212章 正木稲巳とまた出会う
最終更新: 10/12/2026#211 第211章 花火ショーでの偶然の出会い
最終更新: 10/12/2026
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だが、傷つけられた私の心はもう戻らない。私は彼の懇願を、冷徹に突き放した。
――もう遅いわ。あなたを一生、許すつもりはない。
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私たちが産んだ愛らしい三つ子たちが、今さら戻りたいと泣く父親の、まさかの最強の味方として動き出したのだから。
全能令嬢の帰還、家族が倒産?
父は冤罪で獄中にあり、母は病に伏せっている。
六人の兄たちも、ある者は身体に障がいを負い、ある者は無気力に沈んでいた。
そんな折、家に潜り込んでいた偽令嬢は状況を見るや否や一家を見捨てて姿を消し、さらに屋敷までも奪い取ろうとしていた。
世間は夏川家を「落ち目の負け犬」と嘲笑い、皆がこぞって踏みにじる。
紅蓮が静かに一声を発すれば、暗部より無数の異能の士たちが姿を現し、形勢は一瞬にして逆転する。
父は無実のまま出所し、母は健康を取り戻し、廃人同然だった長兄は再び己の足で歩き出し、残る五人の兄たちもまた紅蓮の導きによって各々の才覚を花開かせ、やがて各界を牽引する大物へと成り上がっていく。
しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
「夏川紅蓮は地味で野暮ったい田舎者だ」と。
何を隠そう、彼女は無数の隠された顔を持つ存在。
神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
そして、暗部を統べる首領さえも——彼女なのだ。
そんな折、頂点に君臨する名門の若様が、彼女をそっと腕のなかに抱き寄せた。
「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」
紅蓮が流し目をひとつ送る。
「婚約、破棄しなくていいの?」
「しない」
彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。
捨てられたルナの復讐
「ベラ」イーサンの声音が変わった。わたしが嫌というほど知っている、あの警告めいた刃が混じる。「いまのフェイは不安定なんだ。おまえが彼女を恨むんじゃないか、これで群れが割れるんじゃないかって、怯えてる。彼女がいちばん望んでないのは、この子が俺たちの間に入り込むことだ」
「だったら、そんなことしなければよかった」わたしは真正面から彼の目を捉え、こちらの瞳に張りついた氷を見せつけた。「息子のところへ戻って」
「いい加減にしろよ」彼は苛立ちまぎれに髪をかきむしった。「何度言えば――人工授精だ。俺の精子を使ったのはそうだが、フェイと俺は――」
ベラは冷えきった鼻笑いを漏らした。なんて厚かましい嘘。彼女の伴侶は、兄の番と関係を持ち、家族ぐるみで彼女を何も持たせず追い出した。愛人が「正しい」座に収まるために、道を空けるように。哀れな愚か者――彼は、彼女がただの厄介な養女で、簡単に切り捨てて支配できると思い込んでいた。自分が探し求めていた天才的な技術者が、まさか自分のルナだったとは、ついぞ知らずに。
彼が自らを汚した時点で、ベラの中ですべては終わった。彼女は彼を拒み、奪われたものを取り戻した。何年も密かに彼女を愛してきたヴィクターの助けを得て、頂点へと駆け上がっていく。
イーサンが彼女を取り戻そうとしたとき、こう言った。「俺たちの子どもを、父親なしで育てたいのか」
ベラは嘲るように微笑んだ。「その子の父親は、あなたじゃないわ」
溺愛令嬢の正体は、まさかの霊能界トップ!?
──が、彼女は社交界に背を向け、「配信者」として自由気ままに活動を始める。
江城市の上流社会はこぞって彼女の失敗を待ち構えていた。
だが、待てど暮らせど笑い話は聞こえてこない。
代わりに、次々と大物たちが彼女の配信に押しかけてくるのだった。
「マスター、俺の命を救ってくれ!」──某財閥の若社長
「マスター、厄介な女運を断ち切って!」──人気俳優
「マスター、研究所の風水を見てほしい!」──天才科学者
そして、ひときわ怪しい声が囁く。
「……まゆ、俺の嫁だろ? ギュってさせろ。」
視聴者たち:「なんであの人だけ扱いが違うの!?」
原田麻友:「……私も知りたいわ。」
追放された私が真の継承者だった件。今さら戻れと言われても、もう手遅れです
けれど、私の本質を隠し通すことは誰にもできない。
隠された私の正体は、この国で最も裕福な一族の継承者。
かつての家族が私を見失っている間に、私は全ての支配者となり、この街の頂点に君臨する男の視線を独占する。
彼が私に捧げる愛は、ただの寵愛ではない――世界を敵に回してでも守り抜く、狂おしいまでの執着だ。
地獄から帰った私を、頂点の男が甘やかすなんて聞いてない
十八年間、空気のように扱われ、誘拐事件の際にも迷わず切り捨てられた私。
「強さ」という名の言い訳で死の淵に追いやられた私は、地獄の果てで生き延びた。
そして今、全国民が見守る超人気リアリティショーの舞台に、私は「かつての復讐者」として舞い戻る。
家族が偽りの善人面を振りまく中、彼らの仮面を一枚ずつ剥ぎ取っていく最高のショウタイム。
そんな私を面白がり、盤面をひっくり返す男がいた。冷徹なるF1チャンピオン。彼だけは、私の冷酷な正義を肯定し、その権力で私を囲い込む。
さあ、復讐劇の始まりよ。私を「可哀想な犠牲者」だと思っていた報い、その身に刻ませてあげる。
令嬢は離婚を機に大富豪への道を歩む
「瀬央千弥、離婚して」
周りの連中はこぞって彼女を嘲笑った。あの瀬央様がいなくなったら、御影星奈は惨めな人生を送るに決まっていると。
ところが実際は――
財閥の名家がこぞって彼女を賓客として招き入れ、トップ俳優や女優が熱狂的なファンに。さらに四人の、並々ならぬ経歴を持つ兄弟子たちまで現れて……。
実家の御影家は後悔し、養女を追い出してまで彼女を迎え入れようとする。
そして元夫も、悔恨の表情で彼女を見つめ、「許してくれ」と懇願してきた。
御影星奈は少し眉を上げ、冷笑いを浮かべて言った。
「今の私に、あなたたちが手が届くと思う?」
――もう、私とあなたたちは釣り合わないのよ!













