第3章 離婚協議書は林田守萌に渡された
林田守萌の言葉が挑発だろうと冗談だろうと、狩野姫空は取り合わなかった。
彼女は離婚協議書を取り出し、林田守萌の前へすっと差し出す。
林田守萌がわずかに目を見開く。
「……なに、これ?」
「離婚協議書。私と正木稲巳の」
狩野姫空は淡々と言った。
林田守萌はさらに意外そうに姫空を値踏みするように眺める。
あれほど正木稲巳を愛していた狩野姫空が、離婚?
半信半疑のまま紙を手に取り、ざっと目を通す。
――本気だ。ほんとうに離婚するつもりらしい。
「これ、私に渡してどうするの?」
「昨日の夜、稲巳に渡した。でもサインしなかった」
姫空は包み隠さず言った。
林田守萌は協議書をテーブルに放り投げ、くすりと笑う。
「サインしないなら、なんで私に? 自慢? 稲巳がまだあなたを気にしてるって」
「そんな暇ない。あなたが持っていって、サインさせて」
姫空の声は終始冷えたままだった。
――もう、昔みたいに心を許し合う親友じゃない。
林田守萌は姫空を上から下まで眺め、瞳の奥に薄い嘲りを滲ませる。
「昨日、稲巳と私が一緒に写真撮ったくらいで離婚騒ぎ? 私、前からあなたが稲巳と結婚するの反対だったよね。あの人はやめとけって。信用できないって」
「本当に、信用できないと思ってた?」
姫空は小さく笑った。
林田守萌とは高校から大学まで同級生で、いちばん仲のいい友だちだった。
姫空が正木稲巳と出会ったのは、大学を卒業する頃。あの頃の天芸メディアは、ようやく形になり始めたばかりだった。
姫空が結婚すると言ったとき、林田守萌は反対し、必死に止めようとした。
それでも姫空は押し切った。そして結婚式当日、林田守萌はF国へ留学した。
二年前、彼女は帰国し、天芸メディアと契約して所属タレントになった。
――あのとき、どうしてあんなに必死で反対したのか。
今なら分かる。
林田守萌は言葉に詰まったように一瞬黙り、視線をテーブルの協議書へ落とす。
「どうして私ならサインさせられるって思うの?」
「あなたがどんな手を使うか、昔は知らなくても……今は知ってる」
姫空は口元に、軽蔑の薄い笑みを刻んだ。
たった二年で、夫も息子も、義母も義妹も――みんなを自分の味方にした。
それを「手腕」と呼ばずに何と呼ぶ。
「サインが取れたら、電話して」
姫空は立ち上がり、そのまま店を出た。
離婚すると決めた以上、ぐずぐずする気はない。そしてこの件をいちばん上手く運べるのは、林田守萌だ。
林田守萌は姫空の背中を見送り、カフェの扉が閉まるまで視線を外さなかった。
やがて協議書へ目を落とすと、口元がゆっくりと吊り上がる。得意げな笑み。
サングラスとマスクをつけ直し、協議書を手に取って席を立つ。
そのままカフェを出ていった。
カフェを出た姫空のスマホが鳴る。義母の梅崎静からだ。
「子ども送るのにどれだけかかってるの? まだ帰ってこないの? 昼ごはん、いつ作るつもり?」
「用事がある。昼は帰らない。家に料理する人がいないわけじゃないでしょ。私じゃなきゃだめ?」
姫空は冷たく言い切り、相手が何か言う前に通話を切った。
受話口の向こうで、今ごろ怒鳴り散らしている姿が目に浮かぶ。
きっと正木稲巳に告げ口するだろう。
――でも、もうどうでもいい。
スマホをしまい、姫空はタクシーを拾って海市最大のノキ薬物研究所へ向かった。
コン、コン、コン。
教授室の扉を叩く。
「どうぞ」
姫空は深く息を吸い、扉を開けて入った。
「乃亜兄さん……」
狩野乃亜がふっと目を上げ、驚いたように瞬きをする。だがすぐに表情が曇った。
「まだ義母さんの薬を取りに来る日じゃないだろ。どうした?」
声には呆れと苛立ち――そして、情けなくて叱りたい色が混じっていた。
狩野家のお嬢様として生きられたはずなのに、正木稲巳に嫁ぎ、卑屈なほどにへりくだって、家とも縁を切った。
しかも、意地の悪い義母の頭痛のために特効薬まで自分で作り、毎月薬を取りに来る以外は連絡もしない。
正木稲巳に身元が知られたら、相手が引け目を感じるとでも思っているのか。
そのくせ正木稲巳は結婚当初から姫空を公にせず、この二年はスキャンダル続き。
それでも妹は、まだ諦めない。
思い出すだけで胸が詰まる。
「乃亜兄さん。今日は薬を取りに来たんじゃない。この特効薬、もう作らなくていい。必要ないから」
姫空は落ち着いた声で言った。
乃亜が目を見開く。
「……どうした?」
立ち上がり、大股で姫空の前まで来る。
「正木稲巳のあのクズに何かされたのか?」
「私、正木稲巳と離婚するつもり。あとは、彼がサインするだけ」
姫空の声は平静で、軽いほどだった。悲しみの影すら見えない。
だからこそ、乃亜は余計に不安になる。
「何をされた……俺が行く」
拳を握りしめる乃亜の腕を、姫空が掴んで止めた。
「乃亜兄さん。何もされてない。ただ、分かったの。あの人の心に私がいないなら、無理に続ける意味がない。離婚は、私たち二人にとっていいことだと思う」
乃亜は姫空の顔を見つめ、胸が痛むように目を伏せた。
妹がどれだけ苦しんできたか、全部見てきた。
「乃亜兄さん。今日来たのは……研究所に戻りたいから」
姫空は言った。
自分を取り戻したい。
結婚してからは正木稲巳のため、そして彼の周りの人間のために生きてきた。
七年。七年も専業主婦を続けて、最後に与えられた役割は「家政婦」。
自分を擦り減らし、みじめにして、輪郭さえ失った。
乃亜の表情が少しだけ和らぐ。
「キキ。研究所はもともとお前の場所だ。いつ戻ってきてもいい。扉はずっと開いてる」
「うん。じゃあ明日から出勤する」
そう言い終えた瞬間、姫空のスマホが鳴った。
画面には、梅崎静の名前。
