第4章 守萌おばさんが私のママだったらいいのに
電話の着信音が、狩野乃亜の言葉を遮った。
乃亜は狩野姫空のスマホ画面へ視線を落とし、誰からかを悟る。
姫空は一瞥しただけで、迷いなく通話を切った。
「出ないのか?」
乃亜が意外そうに眉を上げる。
この七年、狩野姫空は正木家の連中に気に入られようと、頭を下げてばかりだった。理不尽な要求だろうが、できる限り叶えてきた。
とくに梅崎静からの電話なら、以前は一秒で取っていた。あの女がひと言命じれば、姫空はすぐ家へ戻った。
姫空は小さく笑う。
「もう、その必要はないから」
「だよな。離婚するなら、あいつらの顔色なんて見なくていい」
姫空が今のように肩の力を抜いているのを見て、乃亜は胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。
「今夜、研究所の先生方と食事をする。戻ると決めたなら、一緒に来い。先に顔をつないでおけ」
「うん」
七年。
梅崎静の頭痛の特効薬を作るために実験室へ入ったことはあっても、それ以外で研究所の敷居をまたいだ記憶がない。
戻るとなれば、緊張しないわけがなかった。
乃亜はそれを見抜いたように、姫空の肩をぽん、と叩く。
「お前は十八で心臓病の特効薬を作っただろ。あとは時間をかけて環境に慣れるだけだ」
姫空は頷き、ようやく笑みを浮かべた。
その直後、梅崎静からまた着信が入る。
姫空は無言でマナーモードに切り替えた。
昼は乃亜に連れられて食事をし、午後は乃亜のオフィスで休んだ。
昼食を作らなくていい。梅崎静の肩を揉まなくていい。誰かの機嫌を取るために言葉を選ばなくていい。
体が、驚くほど軽い。
――自分のものじゃない感情を手放すだけで、こんなにも心身が楽になるなんて。
この七年、ずっと張り詰めすぎていたのだ。
「行くぞ」
仕事を終えた乃亜が入ってくる。
姫空は立ち上がり、二人で外へ出た。向かったのは予約していたテーマレストラン。
ここは予約必須の店だ。
天芸メディアの社長夫人でありながら、姫空はこんな高級店に一度も来たことがない。正木稲巳は、彼女と同じ場に並んで姿を見せたことすらなかった。
世間は、正木稲巳に六歳の子どもがいることは知っている。
だが、その母親が誰かを知る者はいない。
「守萌おばさん、最高! また僕の大好きなフライドチキン買ってくれた!」
正木司朗の声に、姫空の足が止まった。
反射的に前を見る。乃亜も同じように足を止め、視線を追った。
そこには、正木稲巳と林田守萌、そして司朗。
三人は手を繋ぎ、笑い合っている。あまりにも温かく、穏やかで――胸が痛くなるほど「家族」だった。
姫空は視線を逸らす。目の奥がつんと熱く、酸っぱくなる。
こんな光景を、どれほど夢見たことか。
一家三人で手を繋いで歩く。ただそれだけ。公園を散歩するだけでもいい。
なのに、そんな小さな願いすら、一度も叶ったことがない。
朝から分かっていた。今夜、司朗は林田守萌に会う。
司朗がいるなら、正木稲巳もいる。
それでも――目の前で見ると、やはり痛い。
「守萌おばさんが僕のママだったらいいのに」
司朗が唇を尖らせて言った。
乃亜の顔が怒りで歪む。
「このガキ……何を抜かしてやがる。躾けが必要だな」
拳を握り、前へ出ようとした乃亜の腕を、姫空が掴んで止めた。
「乃亜兄さん」
「ここまでされて、まだ我慢するのか?」
乃亜には理解できない。
姫空は声を落とす。
「離婚の手続きが終わるまでは、身元を知られたくない」
今ここで出ていって、恥をかくのは結局自分だ。
正木稲巳も司朗も、心は姫空に向いていない。
「行こう。先生たちを待たせたくない」
姫空は乃亜の腕を引き、個室へ入った。
親権すら放棄するつもりなのに、今さら何を気にする。
司朗が誰を母に望もうと、それもあの子の自由だ。
背後で、正木稲巳の鋭い声が飛ぶ。
「司朗。そんなこと言うな」
司朗はしゅんとして、守萌の胸にすり寄った。
守萌は抱き寄せ、庇うように言う。
「稲巳、まだ子どもよ。悪気はないんだから、責めないで」
正木稲巳は答えなかった。
そのとき、背後で扉が開閉する音がして、彼の注意がそちらへ向く。振り返り、剣眉をわずかにひそめ――一瞬、目が止まった。
「……狩野乃亜?」
守萌も彼の視線を追い、驚いたように息を呑む。
「狩野乃亜……?」
正木稲巳が守萌を見る。
「知ってるのか」
「ノキ研究所の責任者よ。薬物開発の天才で、医学界の泰斗。十年前の心臓病特効薬を作った人。前に一度だけ会ったことがあるの。まさかここで会うなんて」
守萌は意外そうに言い、すぐに思いついたように続けた。
「ねえ稲巳、梅崎おばさんの頭痛、彼に診てもらえないかな。姫空がどこかで手に入れた薬でだいぶ良くなってるけど、副作用があるか分からないし。根治できるなら、そのほうがいいでしょ」
「頼んだことはある」
正木稲巳は冷たく言った。
「断られた」
守萌は目を細め、口元だけで笑う。
「じゃあ私が試してみる。前に会ったことあるし、私なら会ってくれるかも」
正木稲巳は黙って頷いた。
「守萌おばさん、すごい! そんなすごい人知ってるんだ!」
司朗が目を輝かせる。
守萌は司朗の頭をくしゃりと撫でた。
正木稲巳の視線は、先ほど閉まった扉へ戻る。
その奥に、何があったのかを探るように。
一方、姫空と乃亜が個室に入ると、研究所の先生たちはすでに揃っていた。
二人が入った瞬間、全員が立ち上がる。
「狩野教授」
乃亜より年上の者ばかりなのに、皆が深々と頭を下げる。
乃亜が言った。
「紹介する。こちらは姫空。以前、俺の助手をしていた。明日から研究所に入る」
それは、姫空と乃亜が事前に決めた説明だった。
まだ離婚が成立していない。姫空は身元が広まるのを避けたかった。
心臓病特効薬の開発者であることも、姫空の希望で伏せている。
七年の空白がある。
持ち上げられれば持ち上げられるほど、プレッシャーになる。
「元助手」という立場が、今の自分にはちょうどいい。
先生たちの視線が姫空へ集まる。
狩野乃亜の助手だったのなら能力はあるはず――そう思いながらも、あまりに若いせいか、誰もが探るような目をしていた。
姫空は丁寧に頭を下げる。
「皆さま、よろしくお願いいたします」
自分を取り戻し始めた彼女の瞳には、確かな自信が宿っていた。
