第5章 送信先を間違えていた
席では世間話を少しした程度で、狩野乃亜も来るなり「顔を出して馴染んでおけばいいだけ」と言っていた。
食事を終え、しばらく座ってから、狩野姫空は家へ戻った。
帰宅したのは、夜9時を回っていた。
玄関に足を踏み入れた瞬間、梅崎静が勢いよく詰め寄ってくる。
「よくも私の電話、切れるわね?」
「何か用?」姫空は冷えた声で返した。
梅崎静は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「何か用、ですって? 午後のマッサージ、忘れたの?!」
姫空が持ち帰った特効薬のおかげで頭痛はだいぶ落ち着いてはいた。けれど毎日1時間揉まれていれば、午後はぐっすり眠れる。今日はそれがない。結局、昼間はろくに眠れなかったのだ。
「あなたの頭痛は、気血の不足が原因。そんなに怒鳴らないで。脳梗塞になりやすくなる」
淡々とした姫空の口調は、梅崎静の爆発寸前の怒りと、あまりにも対照的だった。
梅崎静は腹の底からムカつきながらも、「脳梗塞」という言葉に、さすがに顔色が変わる。
そのとき、玄関先に人影が差した。
さっきまでしっかり立っていた梅崎静が、急に力が抜けたように床へ崩れ落ちる。
「なんて不幸なの……息子の嫁に呪われるなんて」
正木稲巳が正木司朗の手を引いて入ってきたところで、ちょうどその光景が目に入った。
「おばあちゃん、どうしたの?」司朗が駆け寄り、梅崎静を起こそうとする。
梅崎静は司朗の手を握りしめ、涙声で訴えた。
「司朗……おばあちゃん、つらいのよ。こんな歳になってまで、呪いみたいなこと言われて……」
「ママ、ひどすぎるよ」司朗が姫空を睨む。
「おばあちゃん、こんなに年なのに。どうしていじめるの?」
十月十日、身を削って産んだ子どもにそんな目で見られて、姫空の胸はすうっと冷えていった。
この二年、司朗は姫空に懐かなくなった。それどころか、ことあるごとに皮肉を投げてくる。
今ここに立っている三人こそが家族で、姫空だけが、最初から最後まで『よそ者』だった。
梅崎静はさらに火をくべるように稲巳へ告げ口する。
「稲巳、聞いてちょうだい。朝、司朗を学校へ送ったきり、ずっと帰ってこなかったのよ。今までよ。電話しても出ないし!」
「……今日は外出してたのか?」稲巳が姫空を見る。きりっとした眉がわずかに寄った。
さっきテーマレストランで見た背中――あれは、やはり姫空だったのか。
姫空は笑っているのに、目が笑っていない。
「どういうこと? 私、外に出る自由すらないの?」
「どこへ行った」稲巳が一歩、距離を詰めた。
近い。
姫空は一瞬、息が詰まった。
結婚して七年。夫婦としての営み以外で、稲巳が自分から近づいてくることはほとんどなかった。ここ二年は関係が完全に冷え切り、夫婦生活すら途絶えている。同じベッドにいても、間に一本の川が流れているみたいだった。
突然、鼻先をかすめる馴染んだ気配。
心臓が、勝手に速く打つ。
――けれど。
そこに混じった、彼のものではない香水の匂いを嗅いだ瞬間、姫空は高鳴りを無理やり押し沈めた。
「私の行き先を聞く前に、あなたたちが今夜どこにいたのか、先に教えてくれない?」
稲巳はふっと距離を引き、露骨な嫌悪を浮かべる。
「離婚するんじゃなかったのか?」
「……離婚?」
梅崎静と司朗が同時に固まる。特に司朗は、昨夜ママが口にした言葉を思い出したのか、顔色が一気に悪くなった。
「フッ」
稲巳は短く笑い、何事もなかったように書斎へ向かった。
その笑いには、あまりにも多くが含まれていた。嘲り。軽蔑。見下し。
――さっきの詰問は、レストランで私を見たから?
だから、私が尾行したと思った?
梅崎静が鼻で笑う。
「だから今日は一日中、家にいなかったのね。追い出される準備ってわけ」
「おばあちゃん、もうやめてよ!」司朗が大声で叫んだ。
梅崎静はその剣幕に目を丸くする。
姫空も意外だった。司朗が、こんなふうに反応するなんて。
梅崎静は状況が飲み込めないまま、戸惑う。
「司朗、どうしたの?」
「ママ、行こう。上、行こう」
司朗は姫空の手を引いて階段を上がった。
その行動が、姫空にはなおさら不思議だった。
部屋の前まで来ると、司朗は姫空を見上げる。
「ママ……僕、もうママのこと悪く言わない。守萌おばさんに会ってほしくないなら……僕、もう会わない」
最後の言葉は、歯を食いしばるように言った。相当な覚悟が要ったのだろう。
本音を言えば、守萌おばさんが自分のママだったらいい。けれど、本当のママがいなくなるのも嫌だ。
――とりあえず今は会わない。ママの機嫌が直ったら、こっそり会えばいい。
姫空は司朗の急な態度の変化に驚きはした。けれど、それだけだった。
以前なら、司朗は自分を愛してくれているのだと思えたかもしれない。
だが何かあるたび、司朗は真っ先に姫空の『敵側』に立った。その積み重ねが、期待を削り落としてしまった。
「ママ、僕、部屋に戻るね。おやすみ」
司朗は自室へ引き返した。
部屋に入るなりスマホを掴み、林田守萌へメッセージを打つ。
『守萌おばさん、しばらく中間テストで忙しくて、あまり会えないと思う。怒らないでね?』
送信してから、胸がざわつく。
いつもなら守萌おばさんはすぐ返してくれるのに、今日は遅い。
――なんで?
画面を見て、司朗の血の気が引いた。
送信先を間違えていた。守萌おばさんではなく、ママに送ってしまっている。
「うそ……」
慌てて取り消す。
見てないよね。見てないはずだ。
心臓が落ち着かない。
姫空は、取り消された通知を見つめた。
表情は、何ひとつ動かない。
けれど胸の奥が、きゅっと引き攣れた。
司朗が家にいないとき、姫空は心配で何度もメッセージを送ってしまう。けれど返ってくるのは、いつも面倒くさそうな短文ばかり。まともに取り合ってもらえない。
数日前の研学旅行だって、三日間。姫空が送ったメッセージへの返事は、たった一文字――『うん』。
司朗から自分に、先に連絡が来たことなんて一度もない。
「ママ」
ドアが、そっと細く開いた。
姫空が視線を向ける。
「どうしたの?」
「ママ、今日……一緒に寝てもいい?」司朗は枕を抱えたまま入ってくる。
もう部屋に入ってしまっている。姫空は拒まなかった。
「いいよ。上がって」
司朗はベッドによじ登り、姫空の顔色をうかがうようにじっと見る。
姫空が何も言わないのを確認して、司朗は内心ほっと息をついた。
――やっぱり、ママはメッセージ見てない。
正直、ママは扱いづらい。すぐ怒る。
守萌おばさんのことは好きだし、守萌おばさんがママだったらいいと思う。でも、本当のママを失うのは嫌だった。
