第6章 ママは本当に離婚するつもりじゃないよね?
「ママ、明日の朝はエビチリが食べたい」
正木司朗は、当然のように要求してきた。
おばあちゃんが言っていたのだ。ママには、自分の食事も身の回りの世話も、きちんとする義務があるのだと。
「明日は無理。明日は用事があるから、週末にして」
狩野姫空はきっぱり断った。
何より面倒だ。エビは鮮度が命で、新鮮なものを手に入れるには早朝から市場へ行かなければならない。戻ってから殻をむき、背わたを取り、ソースもその場で合わせる。
これまで司朗が食べたいと言えば、姫空は朝5時に起きて下ごしらえを済ませ、そこから市場で生きのいいエビを買って帰ってきた。
たった一皿のために、平気で2、3時間が消える。
明日は初出勤。時間的にどう考えても間に合わない。
一度も拒まれたことのない司朗は、途端に顔を赤くした。
「ママは毎日家にいるじゃん。ご飯作る以外に、何の用事があるの?」
――ほら、やっぱり。
さっきまでどんな態度を取ろうと、彼の中で自分は所詮、家政婦みたいなものなのだ。
「仕事を見つけたの。明日から出勤する」
姫空の表情は淡々としていた。何度も傷ついた心は、もう波立たない。
正木稲巳にも、正木司朗にも、期待はない。
「出勤?」
司朗は目を丸くし、次の瞬間、口をついて出た。
「ママに何ができるの? 働くって……」
その見下した言い方に、姫空の胸がすうっと冷えた。
「ママ、変なことしないでよ。ママ、料理以外なにもできないじゃん。外で家政婦やってご飯作るつもり? パパの顔に泥塗るだけだよ?」
布団の上に置いていた姫空の手が、ゆっくり拳になる。
「外でも、私はあなたたちの家政婦でしょ。何が恥ずかしいの」
「ママ、ほんと話にならない!」
司朗は起き上がると、ぷいっと部屋を出ていった。
姫空は、拳を握りしめたまま動けなかった。
自分の子どもにこんなふうに言われて、痛くないはずがない。
翌朝。
姫空は身支度を整え、久しぶりにドレッサーの前へ座った。
――嫌われるのも、無理はない。
正木稲巳と結婚する前の自分は、きちんと手をかけたお嬢様だった。結婚してからもしばらくは、身なりを整えていた。
けれど梅崎静は言った。
「妻にも母にもなったのに、誰に見せるつもり?」
その言葉に従うように、姫空は少しずつ自分を後回しにしていった。司朗が生まれてからは、なおさら。子どもの世話で手一杯で、自分のことなど考える余裕はなかった。
いつから鏡をまともに見ていないのか、もう思い出せない。
鏡の中のやつれた顔は、他人みたいで――一瞬、目をそらしたくなった。
……私、どうしてこんなふうになったんだろう。
自嘲気味に息を吐き、眉ペンを取る。一本ずつ線を引き直すように、失っていた輪郭を取り戻していく。
メイクを終えると、ワンピースを選び、ヒールを履き、バッグを手に階段を下りた。
すると、踊り場に差しかかる前から梅崎静の愚痴が聞こえてきた。
「稲巳、聞いてよ。この狩野姫空、最近ほんと調子に乗ってるわ。昨日は一日家にいなかっただけじゃなく、今朝は朝食まで作ってないのよ」
昨日のうちに姫空は家の使用人に伝えてある。朝食は用意してもらう、自分は時間がない、と。
それでも――階段を下りきるまで、正木稲巳が姫空を庇う言葉は一つもなかった。
かといって、梅崎静に同調して責め立てるわけでもない。
まるで、姫空がそこにいないかのように。
コツ、コツ、とヒールの音が響く。
食卓にいた三人が同時に顔を上げ、姫空を見た瞬間、揃って息を呑んだ。
一番分かりやすかったのは司朗だ。
――これ、ママ?
ママがこんなに綺麗だったなんて。ちゃんと整えたら、守萌おばさんよりずっと可愛いじゃん。
梅崎静は驚いたのも束の間、顔がすっと険しくなる。
そんなに着飾って、いったい誰を誘惑する気だか。
正木稲巳だけは淡々としていた。深い瞳が、いつもより2秒ほど長く姫空の上に留まっただけ。
その目は暗く、埃でもかぶったみたいに、感情の底が読めない。
姫空は司朗に視線を向け、薄い唇を開く。
「司朗。運転手さんには話してある。今日は送ってもらって」
「ママ、今日は送ってくれないの?」
司朗の胸が、理由もなくすかすかする。
「うん。昨日も言ったでしょ。ママ、仕事を見つけたの。時間が合わないから、今日だけじゃなくて、これからも送れない」
仕事――。
稲巳の眉が、わずかに寄った。
姫空はそれ以上何も言わず、踵を返して玄関へ向かう。
背後で何を言われても、もう聞かない。
嫌な言葉なら、この7年でとっくに遮断する術を覚えた。
稲巳は、姫空が扉を出るまで視線で追い、ようやく目を戻した。
表情は相変わらず平坦で、何を思っているのか分からない。
司朗は眉間にしわを寄せた。
ママ、仕事を探して、急に綺麗にして……もしかして、本当にパパと離婚するつもりなんじゃ。
不安が喉元までせり上がる。
「パパ。ママ、本当に離婚するの?」
稲巳は眉をひそめ、少し間を置いてから言い切った。
「しない」
姫空が本気で離婚するなら、自分の後をつけたりしない。
――パパが言うなら、そうなんだ。
司朗はほっと息をついた。
ママは怒ってるだけだ。怒らせておけばいい。放っておけば、どうせ2日もすれば、またすり寄ってきて「何食べたい?」って機嫌を取る。
その間に、自分は守萌おばさんの誕生日プレゼントを安心して準備できる。
前はママに見られたら面倒だと思っていたけど、今なら堂々とできる。
姫空には車がない。稲巳は手配してくれなかった。
これまで買い物に出るときはタクシーか、自分の電動バイク。司朗の登校に付き添うのも、言ってみれば“ついでに乗せてもらっていただけ”だ。
ノキ研究所は正木家から距離がある。タクシーで駅へ出て、地下鉄に乗り換えるしかない。
遅刻しないために、姫空は7時に家を出た。
研究所に着いたのは、ちょうど8時。
「すごい汗。車じゃなかったの?」
狩野乃亜が、息を切らした姫空を見て眉を上げる。
姫空は微笑んだ。
「うん、地下鉄で来た」
「正木稲巳、車も用意してないの?」
乃亜の声が一気に熱を帯びる。
姫空は黙った。
乃亜は深く息を吸い、無理やり落ち着いた。
「分かった。今日の仕事が終わったら、新しいの買いに行こう。私が連れてく」
「うん」
姫空は頷いた。
確かに車は必要だ。来る途中で、買うと決めたばかりだった。
乃亜は姫空を見つめ、目に浮かぶのは痛ましさばかり。
「行こう。開発部に案内する」
「お願い」
姫空は乃亜の後について開発部へ向かった。
乃亜がわざわざ連れてきた新人――それだけで周囲はざわつき、姫空へ好奇の視線が集まる。
綺麗すぎる。まさか、狩野教授の……?
乃亜が手を叩くように言った。
「紹介する。この人は狩野姫空。今日から開発部のメンバーよ」
狩野姫空。
同じ狩野姓。しかも「きそら」――。
ノキ研究所を立ち上げたとき、狩野教授は言っていた。ノキという名前は、自分にとって一番大切な人の名から取ったのだと。
彼女は、狩野教授とどういう関係なんだ?
