第4章
突き刺さるような陽射しに、私は重たい瞼を持ち上げた。そこは無機質な病室だった。
私の手は、意識するよりも早く下腹部へと這う。ぺたんこだった。何もない。ただ、虚無だけがそこにあった。
窓辺には寛貴が立っていた。私に背を向けて――それは喧嘩の後も、そして今も変わらない、彼のいつもの姿勢だ。
やがて彼が振り返る。
ほんの僅かでも、申し訳なさそうな顔をしているのではないかと期待した私が馬鹿だった。
彼の表情は凪いでいる。苦痛も、後悔もない。あるのは、厄介な事務処理を前にした時のような、隠しきれない苛立ちだけ。
「自分のみすぼらしい姿を見てみろ」彼は吐き捨てるように言った。
「ずっと言ってただろう。君は情緒不安定すぎるって」
喉が張り付いたように渇き、ひび割れそうだ。
「どういう……こと?」
「いつもそうだよ、若菜。疑心暗鬼で、ヒステリックだ」彼はベッドの脇まで歩み寄ると、私を見下ろした。
「医者は言ってたよ。過度のストレスによる流産だってな」
私は彼を凝視した。まるで理解不能な言語を聞いている気分だ。
「里奈が、私を突き飛ばしたのよ……」掠れた声で訴える。
「妄想なんかじゃない。あなたは美弥を連れて――」
「いい加減にしろ」寛貴の声が冷ややかに響く。
「まだ他人のせいにするのか。里奈はただサマーキャンプに行きたかっただけだ。それを追い詰めたのは君だろ。君が狂ったように何もかもコントロールしようとしなければ、あんなことにはならなかった」
涙がようやく頬を伝った。あまりにも理不尽だ。
私を突き飛ばしたのは彼の娘だ。妻子を捨てようと画策していたのは彼だ。
それなのに、責められるのは私なのか。
寛貴は小さく溜息をつくと、ベッドの端に腰を下ろした。その瞬間、彼の顔つきが『夫』から『医師』のものへと切り替わる。
「いいかい、若菜。今の君の状態は極めて危険だ。助けが必要なんだ」諭すような口調。
「僕のクリニックで、重度の心的外傷に対する新しい療法を研究している。脳を一時的に『休眠』させるんだ」
「休眠?」
「辛い記憶を遮断するんだよ」寛貴の声が少しだけ柔らかくなる。聞き分けのない子供をあやすような響きだ。
「流産のことも、喧嘩のことも、不愉快なことは全部忘れられる。セレニティ・ヒルズという最高の療養所へ送ってあげる。そこで三ヶ月、ゆっくり眠るといい」
私は彼を見つめ返した。
「私の記憶を、消すつもり?」
「君のためを思って言ってるんだ」彼は淀みなく続ける。
「僕と里奈がサマーキャンプに行っている三ヶ月間、一人で家にいたら君は余計なことばかり考えるだろう。鬱になり、精神が崩壊する。それならいっそ、長い夢を見るように何もかも忘れて過ごした方がいい。僕たちが戻ったら、記憶を戻す処置をする。その頃には全てが過去になっているはずだ。そうしたら、また一からやり直そう」
やり直す。
なんて甘美な響きだろう。
けれど、彼が何を考えているかは痛いほど分かっていた。邪魔な私を一時的に無力化し、気兼ねなくヨーロッパ旅行を楽しむつもりなのだ。
「もし、私が断ったら?」
寛貴の表情から温度が消えた。
「なら、この空っぽの家で野垂れ死ぬといい。死んだ子供の思い出に縋り付いて発狂し、自分自身を壊せばいいさ」彼は立ち上がった。
「それが君の望みか?」
私は瞳を閉じた。
子供はもういない。夫は私をゴミのように捨てようとしている。娘は私を敵視している。
この世界に、正気で向き合う価値など何が残っているというのだろう。
「分かったわ」私は言った。
「連れて行って」
セレニティ・ヒルズは山の中にあった。静寂、白い壁、白衣の人々。
寛貴は私を個室へ押し込んだ。まるで修理待ちの家具を倉庫にしまうような手つきだった。
「誰に何を聞かれても、ただの療養だと言え」ドアの前に立つ彼は、最後に私を一瞥する慈悲さえ持ち合わせていなかった。
「面倒を起こすなよ、若菜」
「分かってる」
「三ヶ月後にまた会おう」
治療は穏やかに始まった。
最初は投薬、次に揺らめく光の明滅、そして医師の低い誘導の声。鋭く尖っていた記憶の断片が、次第に色褪せていく。
だが、聞くべきではない言葉が耳に入ってきたのは、そんな時だった。
ある日の午後、庭のベンチで日向ぼっこをしていると、角の向こうから紫煙と共に話し声が聞こえてきた。二人の看護師だ。
「あの新入りの302号室、可哀想よね」
「土田さんの奥さん? 彼女がどうしたの?」
「流産したばかりなんでしょ? 旦那の土田先生、彼女に実験的な治療を受けさせてここに放り込んでおいて、自分は遊び呆けてるらしいわよ」
「嘘でしょ」
「インスタで見たのよ。位置情報はトスカーナ。小さな女の子と、若い女連れだったわ。まるで幸せな家族みたいに笑ってて、子供が死んだ直後とはとても思えない」
指先に力が入り、ベンチの縁を強く掴む。
トスカーナ。
どこかで聞いた響きだ。思い出せない。
吉井という男性が現れたのは、二週間目のことだった。
ここのボランティアだという彼は、いつも本を片手に私の向かいのベンチに座っていた。口数は少ない。時折チョコレートをくれたり、木登りをするリスを指差して教えてくれたりするだけだ。
少しずつ、私は吉井と親しくなっていった。
寛貴、里奈、美弥――それらの名前は、遠い悪夢の反響のように弱々しくなり、やがて消え入るようだった。
私の記憶は、砂のように零れ落ちていく。
地球の裏側では、トスカーナの陽光が葡萄畑に降り注いでいるというのに。
◇
二ヶ月は瞬く間に過ぎた。
トスカーナの空気は私に休息を与えてくれた。里奈も楽しんでいるし、美弥も片時も離れずそばにいる。
療養所に置き去りにした若菜のことが頭をよぎることもあったが、それも稀だ。
あの日、電話が鳴るまでは。
午後、私は美弥とベッドの中にいた。サイドテーブルでスマホが執拗に震えている。
私は舌打ちをして電話を取った。
「誰だ?」
『土田先生、セレニティ・ヒルズの村田です』受話器の向こうの声は硬い。
『奥様の件で』
私は上体を起こし、美弥に黙っているようジェスチャーで示した。
「何があった? 治療に失敗でも?」
『いえ、逆です』村田は言った。
『ご指示通り、記憶の喚起プログラムを行いました。中核となる記憶のほとんどは回復しています』
『ですが、先生。不可解な点がありまして』
「不可解?」私は眉を寄せた。
「また発作でも起こしたか?」
『いいえ。彼女は非常に落ち着いています。不気味なほどに』村田の声には困惑が滲んでいた。
『それに、吉井というボランティアの男性と、かなり親密にされているようで』
「ボランティアだと?」
『はい。若菜様は現在の状況に満足されているご様子です。苦痛の色は全く見受けられません』
スマホを握る手に力がこもる。
満足している? 私がいなければ生きていけないはずのあの女が、満ち足りているだと?
強烈な焦燥感と、支配を失う感覚が胃の腑を焼く。
「予定を切り上げて戻る」私は冷徹に告げた。
「彼女から目を離すな」
通話を切る。窓外の陽光が、急に鬱陶しく感じられた。
美弥が背後から抱きついてくる。
「どうしたの? ダーリン」
「何でもない」私は彼女を押し退け、振り返った。
「帰るぞ。予定変更だ」
