第2章
私は冷ややかな視線を浜友に向け、唇を歪めた。
「あなたに知る資格なんてないわ」
吐き捨てるようにそう言い放つと、私はよろめく足取りで山頂を後にし、斜面を駆け下りた。
何の前触れもなく、土砂降りの雨が叩きつけてくる。死んだように静まり返った豪邸に戻った頃には、全身ずぶ濡れになっていた。
かつて、ここは私が夢見た愛の巣だった。浜友とは幼馴染で、青春の全てを彼に捧げた。
けれど新婚の初夜、彼は私の首を絞め上げ、冷笑と共にこう言ったのだ。親の遺産で義父母を買収し、卑劣な手段で妻の座を射止めた腹黒い女だと。
「綾香、そんなに“愛のない妻”の座に執着するなら、望み通り一生飼い殺しにしてやるよ」
それが、夫としての彼の第一声だった。
クルミの遺体に寄り添い続けた疲労と、この雨。視界が歪み始める。
骨の髄から湧き上がるような高熱に、私は壁に手をつき、駆け寄ってきたメイドを突き飛ばした。
「触らないで。あっちへ行って」
朦朧とする意識を叱咤し、寝室へと辿り着く。冷たい骨壺をきつく抱きしめ、ベッドの隅の闇に身を潜めた。
高熱のせいで体温は上がり続け、眼前の景色が二重三重に回転している。
『バンッ!』
乱暴にドアが蹴破られた。吐き気を催すような薔薇の香りを纏い、浜友が踏み込んでくる。
その背後には、佐和美がいた。
「綾香、誰に見せつけるつもりだ、その辛気臭い面は」
ベッドの前に立ち、浜友が見下ろしてくる。その声には嫌悪感が滲んでいた。
「クルミの誕生日を台無しにしておいて、家の空気まで悪くする気か?」
熱で意識が霞み、唇はひび割れ、声が出ない。
「ほらよ、クルミへのプレゼントだ」
彼は乞食に施すかのように、美しい包装の箱をベッドの足元へ放り投げた。
「佐和美がわざわざ選んでくれたんだ。俺が娘を気にかけてないとでも言うつもりか?」
「浜友さん、そんな言い方しないで。綾香さんはきっと疲れているだけよ」
佐和美が歩み寄り、心配そうな仮面を被る。
彼女は身を屈め、私を介抱するふりをして――浜友の死角で、二の腕の内側を爪で思い切りつねり上げた。
鋭く手入れされた爪が肉に食い込む。激痛に体が跳ね、涙が溢れ出した。
「あら、見て。綾香さん、感動して泣いてるわ」
佐和美は私の耳元に唇を寄せ、二人きりにしか聞こえない声で囁く。
『死人の箱なんか抱えちゃって。哀れな女』
痛みと屈辱で震えが止まらない。突き飛ばしたいのに、高熱で力が入らなかった。
「で、クルミはどこだ? 連れてこい」
浜友が苛立ち紛れに部屋を見回す。
「一日中働き詰めで疲れてるんだ。娘の癇癪に付き合ってる暇はない」
「あの子は……ここにはいない」
歯を食いしばり、血の味がする言葉を絞り出す。
「いない? どこに隠した?」
浜友が眉を吊り上げた。
「綾香、お前まさか俺の気を引くために、子供を道具に使ってるのか?」
「いい加減にしろよ。いつまでも悲劇のヒロインぶってないで、少しは佐和美を見習え。身重の体でお前のために頭を下げてるんだぞ」
そう言い捨てると、彼は二階の書斎や子供部屋の方へと歩き出した。自分で探すつもりなのだろう。
部屋には私と佐和美だけが残された。
彼女はベッドの足元の箱を見つめ、残酷な笑みを浮かべる。
「せっかくのプレゼント、クルミちゃんがいないなら私が開けてあげる」
包装紙が破られ、箱が開いた瞬間――濃厚で、異様な香りが立ち込めた。
甘ったるく、胸が悪くなるような合成香料の匂い。
私の頭の中で、何かが弾け飛んだ。
この匂い……クルミが倒れたあの日、病室に残っていたものと全く同じだ!
リシン中毒特有の、あの隠蔽用の誘引剤の香り。
「あんた……」
私は佐和美を凝視した。瞳孔が劇的に収縮する。
「あんたがクルミに毒を盛ったのね! そうなんでしょ?!」
佐和美は否定しなかった。香りの染み付いたスカーフを弄びながら、悪魔のように微笑む。
「綾香さん、何を言ってるの? 私にはさっぱり」
「死ねっ!!」
どこからそんな力が湧いたのか、私は猛然と彼女に飛びかかり、その細い首を両手で締め上げた。
殺してやる! この虚飾に塗れた皮を剥ぎ取り、八つ裂きにしてやる!
「きゃあああ! 離して! この狂人!」
佐和美は悲鳴を上げたが、妙に抵抗が弱い。それどころか、わざとらしく後ろへ倒れ込んでいく。
「やめろッ!!」
階段の方から、浜友の怒号が轟いた。
