紹介
その頃、娘の父親であり、私の夫である浜友(はまとも)は、愛人と共に山頂で夜通し体を重ねていた。
「たかが子供一人だ。いずれもっといい子が生まれるさ」
「佐和美(さわみ)、愛しているのは君だけだ」
彼は知らなかったのだ。この世で唯一彼を愛した魂を、その手で殺してしまったことを。
離婚後、私はもう、あの卑屈に全てを耐え忍んでいた「富島夫人」ではない。
葬儀、スキャンダル、そして価値のない野良の子……
私が失ったもの全て、富島家そのものを代償に、彼に償わせてみせる。
チャプター 1
娘のクルミの遺骨を納めた骨壺を抱きしめ、私は山頂に立っていた。
夜風は冷たく、星空は目が眩むほどに明るい。
ここは、あの子が生前一番気に入っていた場所だ。「見上げれば、噓をつかない星が見えるから」と、あの子は言った。
七歳の誕生日にも、そう言っていたのに。
けれどあの日、あの子は病室のベッドで息を引き取った。
死因は、リシン中毒。
そして父親である富島浜友は、最後まで現れなかった。
キャンプサイトに足を踏み入れた瞬間、その「音」が耳に飛び込んできた。
押し殺したような息遣い、テントの生地が擦れる音、そして女の、粘つくような甘い笑い声。
足が止まる。
聞き間違いであってほしいと、その一瞬だけは願った。
「浜友、もっと奥……」
「焦るな」
男の声は低くしわがれていて、嫌というほど聞き覚えがあった。
「今夜、俺はお前のものだ」
骨壺の縁に、指先が白くなるほど食い込む。
テントの中の行為は続く。
「娘さん、病気なんじゃないの?」女が笑い混じりに尋ねる。
「こんなところに来ちゃって、奥さんに怒られない?」
浜友が鼻で笑う。
「あの女の話はするな。綾香のやつ、また悲劇のヒロイン気取りだろ。どうせ子供をダシにして、俺を繋ぎ止めたいだけだ」
心臓が、ひび割れる音がした。
「じゃあ、娘さんは?」女は畳みかける。
「私とあの子、どっちが大事?」
短い沈黙の後、浜友は迷いなく答えた。
「お前に決まってるだろ、佐和美」
「あんなガキ、どうせまたすぐに代わりができる」
私は立ち去らなかった。
闇の中に立ち尽くし、彼らの声をすべて聞いた。
クルミを蔑む言葉も。
テントの中で絡み合い、喘ぎ、私と娘を嘲笑う声も、すべて。
情事が終わるまで。
私は歩き出した。
テントのファスナーを一気に引き下ろす。
浜友は呆気にとられ、佐和美は素早く彼の胸にすがりつき、怯えたふりをした。
「綾香?」浜友の顔色が瞬時に曇る。
「俺をつけてきたのか?」
私は彼を睨みつけ、一言一句噛み締めるように言った。
「ここは、あの子が一番好きだった場所よ」
佐和美が白々しい声を出す。
「綾香さん、誤解しないで、私はただ……」
「黙れ」
その言葉を遮った、次の瞬間——。
パァン。
私の顔が、力任せに殴り飛ばされた。
耳鳴りがする。口の中に鉄錆のような味が広がる。
「貴様に佐和美を責める資格があるか!」浜友の怒号が響く。
「この嫉妬に狂った女が!」
佐和美がそっと彼の手を引く。
「やめて、浜友。これでも奥さんなんだから」
けれど私に向けられたその視線は、勝利者の優越感に満ちていた。
私は震える声で笑った。
「夫の寝所に潜り込んでおいて、今さら善人ぶるつもり?」
パァン。
二度目の平手打ち。
私は地面に叩きつけられた。
胸に抱いた骨壺を守ろうと、とっさに体を丸める。
地面は冷たい。なのに、過去の記憶が蘇る。
浜友のために家を守り、敵を退け、彼の実家が没落しかけた時には亡き両親の遺産さえ差し出した。
それらすべてが、彼にとっては平手打ちにしか値しないものだったのだ。
突然、プロペラの轟音が空気を震わせた。
驚いて顔を上げる。
夜空にヘリコプターがホバリングし、そこから無数のバラの花弁が降り注いできた。
目に痛いほどの深紅。
佐和美が歓声を上げ、浜友の胸に飛び込む。
「これ、私のために?」
浜友は彼女に口づけを落とす。
「バラが好きだと言っていただろ」
彼女は得意げに笑い、彼の唇を甘くついばむ。
「あとで……もう一回したいな」
私は、ふと笑ってしまった。
かつて浜友は、バラの香りを嫌悪していた。私が一度買った時、すぐに捨てろと命じたほどに。
なのに今、彼女のためならそれを我慢できるのだ。
私は立ち上がった。自分のものとは思えないほど空虚な声が出た。
「クルミの七歳の誕生日、どうして来なかったの?」
浜友が眉をひそめる。
佐和美が急に殊勝らしく頭を下げ、甘い声を出した。
「ごめんなさい、私が悪いの。その日、妊婦健診があって、浜友についてきてもらったの」
世界が、一秒だけ静止した。
「健診?」
彼女の腹部に視線を落とす。
佐和美は頷き、瞳を輝かせた。
浜友が淡々と付け加える。
「妊娠したんだ」
立っているのがやっとだった。
彼は続けた。
「産まれたら、お前が育てろ。跡取りにする」
これ以上は聞けなかった。
私は手を振り上げ、佐和美の頰を思い切り叩いた。
彼女の悲鳴が上がる。
次の瞬間、私は浜友に突き飛ばされていた。
「貴様、気でも狂ったか! よくも佐和美を!」
私は懐の骨壺をかばいながら、ゆっくりと這い上がる。
もう行こう。踵を返した背中に、浜友の声が突き刺さる。
「待て」
彼は、私が抱きしめている箱を凝視し、怪訝そうに眉を寄せた。
「お前が持っているそれ、なんだ?」
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