第4章 少なくとも彼女は今の私よりもましだ
朝比奈鈴視点
ドラッグの取引は、簡単なはずだった。廃倉庫で末端の売人と落ち合い、現金とクスリを交換する。それだけ。でも、熱があるうえに二十分も遅刻すれば、簡単なはずのことも、あっという間にこじれるものだ。
「一体、何でこんなに遅れたんだ?」
売人の目は充血し、神経質にぴくついている。まずい兆候だ。
「ごめん、ちょっと手間取って」
私は呟きながら現金を取り出す。
そこから、すべてが最悪の方向へ転がった。あの野郎、急にこっちが信用できないと言い出し、チンピラ気取りで銃を振り回し始めたのだ。混乱の中、私は木箱の陰に飛び込む。奴が私の背後にあった窓を撃ち抜いたのは、それとほぼ同時だった。
ガラスが派手に砕け散る。
鋭利な破片がジャケットを裂き、皮膚に食い込む。腕に鋭い痛みが走った。見下ろすと、布地に血が滲み、急速に広がっていくのが見えた。
「鈴!やられたのか!」
銃を構えた隆が、隣に姿を現した。
「ただの切り傷よ」
そう言ったものの、傷口を押さえていた手を離すと、掌が真っ赤に染まっていた。
「……クソッ」
私の腕を一瞥した隆の表情が険しくなる。彼は自分のジャケットを脱ぐと、傷口にきつく巻き付けて圧迫した。
「結構ひどい出血だ。行くぞ、病院に連れてく」
胃がずしりと重くなる。
「病院?だめよ、隆、私は行けない――」
「縫合が必要だ。交渉の余地はない」
反論したかったけれど、部屋が少しぐらつき始めていた。隆はすでに私を立たせ、その腕でしっかりと腰を支えている。
「隆、どこか他じゃだめなの?」
「何を怖がってる?ただの病院だろ」
でも、ただの病院じゃない。母さんがこの三年間、ずっと302号室で眠っている、あの『病院』なのだ。そして、毎週のように、今夜も須加が母さんを見舞いに来ているかもしれない場所。
隆の車の中で、私はドアハンドルを固く握りしめた。窓の外を街の灯りが流れていくが、私の頭の中はあの病院のことでいっぱいだった。消毒液の匂いがする殺風景な廊下。一度も足を踏み入れる勇気が持てなかった、あの病室。
「ひでえ顔色だな。そんなに痛むのか?」
運転しながら、隆がちらりとこちらを見た。
「痛みじゃないの。隆、母さんが……あの病院にいるの」
「……ああ、クソ。悪かったな」
彼は少し間を置いてから言った。
「だが、今から他を探すには遅すぎる。ここが一番近いんだ」
私は目を閉じた。三年間、一度だって母さんに会いに行っていない。あのベッドで眠り続ける母さんのことや、もし目を覚まして今の私の姿を見たらどう思うだろうかと考えるたびに、自分がどうしようもないクズみたいに思えてくるのだ。
「もし須加に会ったらどうするの?」
「その時はその時だ。鈴、君、いつまでもそんな風に自分を苦しめてちゃ駄目だ」
隆が病院の駐車場に車を停め、私は深く息を吸い込んだ。傷口が心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛む。だが、胸を蝕む不安に比べれば、そんな痛みは何でもなかった。
病院は消毒液と、どこか悲しみの匂いがした。疲れた顔の看護師が私の腕を一瞥し、頷く。
「深くないけど、洗浄と縫合が必要ね。どうしてこうなったの?」
「ガラスで切りました」
看護師が傷を洗浄する間、私は診察台に腰掛け、絶えずERの中を見回していた。ドアの向こうから、あの見慣れた長身の影がふらりと入ってくるんじゃないかと、恐ろしくてたまらなかったからだ。
「破傷風の注射も打った方がいいですか?」
隆が医師に尋ねる。
「念のため、打っておきましょう」
医師が注射の準備をする。そして、まさに私に針を刺そうとしたその時――ガラスのドアの向こうに、心臓が止まるような光景を見てしまった。
「隆」
私の声は震えていた。
「どうした?」
廊下の窓の向こう。須加が、若くて可愛らしい看護師と話しているのが見えた。彼女は須加の言った何かに笑い、顔を輝かせている。そして須加も、彼女に微笑み返していた。二人はとても打ち解けていて、自然な雰囲気だった。
誰かに心臓を鷲掴みにされたように、胸が強く締め付けられた。
「隆……」
私はその光景から目を離すことができず、かろうじて声を絞り出した。
隆が私の視線を追い、すぐに状況を察した。
「鈴、それはただの――」
「ただの、何?」
私は囁く。
「見てよ、あんなに楽しそう」
看護師は話しながら須加の腕に触れ、彼はそれを振り払わない。明らかに、前にも同じようなことがあったのだろう。これはただの、仕事上のやり取りなんかじゃない。
私は唇を強く噛みしめ、血の味を感じた。この三年間、須加はきっと前に進んで、もっと良い誰かを見つけるだろうと自分に言い聞かせてきた。でも、それを現実に目の当たりにすると、死んでしまいそうな気分だった。
その時、須加が顔をこちらに向け、ガラス越しにまっすぐ私を見た。
廊下を挟んで視線が交差し、時が止まる。彼の顔に、数秒のうちにいくつもの感情が駆け巡るのが見えた。驚愕。痛み。そして、もしかしたら希望かもしれない何か。だが、私の隣にいる隆に気づくと、彼の表情は硬くなった。
須加は深呼吸を一つして、ERのドアを押し開けて入ってくる。
「鈴。怪我をしたのか?」
彼の声は慎重に抑えられていたが、その奥にある心配が聞き取れた。それが、この状況をさらに辛くさせる。
「ただの、小さな切り傷よ」
須加の視線が隆に移る。
「あんたは?」
その声には、隠しようもない敵意が滲んでいた。
「瀬戸隆だ」
「彼氏か?」
その問いが、宙に浮いたまま重くのしかかる。須加の瞳の奥にある痛み、彼が答えに備えて身構えているのが見えた。本当のことを話したい、すべてを説明したいという気持ちが、私の一部で叫んでいた。でも、できない。任務のため。彼の安全のため。そして、死んだ両親や葬られた秘密の重荷を背負っていない、あの可愛らしい看護師との彼の未来のため。
私は、自分の心を真っ二つに引き裂くような決断を下した。
「ええ」
私はわざと隆の腕に自分の腕を絡める。
「あなたも前に進んだみたいだけどね。あの子、可愛いじゃない。少なくとも、今の私よりはずっとマシよ」
須加の顔が、さっと真っ白になった。
「鈴……」
私の名前を呼ぶ彼の声が途切れ、私はもう少しで崩れ落ちそうになった。もう少しで、彼に駆け寄ってすべてを告白してしまいそうだった。でも、私は無理やり言葉を続ける。
「お互い、もう新しい人生を歩んでるんでしょ?」
一言一言が、ガラスを飲み込むような苦痛だった。でも、続けなければならない。彼のために。
須加は長い間、私をじっと見つめていた。その瞳には、直視するのが耐えられないほど深い痛みが宿っていた。
「幸せになれよ」
彼はついにそう言った。
そして、硬直した肩のまま、背を向けて歩き去っていった。
彼が去った瞬間、私は崩れ落ちた。全身から力が抜け、震えが止まらなくなり、堪える間もなく涙が頬を伝った。
隆は私の腕からそっと自分の腕を引き抜き、私の背中を軽く叩いた。
「鈴、あんなことする必要はなかった。この潜入任務もいつかは終わる。俺の妻は戻ってこないが、君は違う。君と彼はまだ――」
「いいえ、隆」
私は手の甲で目を拭う。
「この任務を成功させるためなら、妥協するくらいなら死んだ方がましよ。もし私がまた須加と関わって、私の身に何かあったら、彼がどれだけ傷つくか考えてみて」
彼に憎まれればいい。忘れられればいい。そうすれば、たとえ私がこの任務で死んだとしても、彼の傷は深くないはず。それが、私が彼にしてあげられる、最後の精一杯だった。
「鈴……」
「大丈夫よ、隆」
でも、大丈夫なんかじゃなかった。病院から離れる車の中で、私は何度もライトの灯る窓を振り返ってしまう。須加がまだあのどこかにいるかもしれないと思うと。私たちの間の距離が、これほど遠く感じられたことはなかった。
あの看護師の笑顔を、彼が気安く腕に触れさせていたことを思い出す。彼女は、私が彼に決して与えることのできないすべてを象徴していた。普通の生活、安全な愛、嘘と暴力のない未来。
須加。
病院が背後に消えていくのを見つめながら、心の中で呟く。
私を忘れて。あなたを愛していた、朝比奈鈴のことは忘れて。
街の灯りが涙で滲む。けれど、胸の痛みだけは、これまでになくはっきりと燃え上がっていた。






