第6章 相互不信
グレイ・グループ社長――リオン・フィッシュ。
エラは勢いよく顔を上げ、彼を見た。
「フィッシュは母の旧姓だ」リオンは言う。「宝石をカットするのは俺の趣味みたいなものだが、何をするにも静かに、集中してやりたい。だから会社を離れているときは、自分が誰か、あまり知られたくない」
エラは名刺を受け取り、しばらく沈黙したあと、もう一度だけ問い返した。
「どうして、私なの?」
「君の才能。それから、魂の共鳴だ」
リオンは一歩引き、手をポケットへ戻す。
「考えてみてくれ。決めたら名刺の番号に電話を」
「必要ない」エラは彼を呼び止めた。「引き受けるわ」
嵐のまっただ中で、グレイ・グループの実権者に手を差し伸べてもらえる。あまりにも割のいい取引だった。
「よし。具体的な内容は、ゆっくり詰めよう」リオンは小さくうなずく。
「それと、ネットの件だ。必要なら手を貸そうか?」
「いいえ。この件は……もう考えがあるの」エラは薄く笑った。
リオンが去ると、エラは再びネット上の動きを追った。
予想どおり、炎上は止まらない。
ほんの数時間で話題はプラットフォームのトレンド上位3位へ。彼女の個人アカウントは完全に荒らされ、目に入るのは罵倒ばかりだった。
エラは表情ひとつ変えず、ページを閉じる。
そして『バルコニー』と名づけたフォルダを開いた。パスワードを入力し、認証。
その名にしたのは他でもない。クレモン家で過ごした一年、バルコニーだけが――唯一、彼女のものだったから。
彼女に宛がわれたのは三階のいちばん端、廊下の突き当たりにある客間。狭い部屋で、床から天井までの窓が一枚、幅のないバルコニーに繋がっているだけだ。ヘレンは「日当たりがいい」と言ったが、本当は単に、他の誰の寝室からも遠い場所。目に入らなければ、煩わしくない――それだけ。
バルコニーは3平方メートルにも満たない。小さなテーブルと椅子を置けば、それでいっぱい。
彼女はそこで図面を描いた。朝から晩まで。春から冬まで。
冬は凍えるほど寒い。暖房などなく、毛布にくるまり、指先を真っ赤にしながら、それでも一本一本、線を引いた。
だから後になってこのフォルダに名前をつける必要が出たとき、真っ先に浮かんだ言葉が『バルコニー』だった。
奪われなかった、たったひとつ。記録を丸ごと残せた、たったひとつ。
エラはフォルダ内からスクリーンショットをいくつか選び、自分のアカウントへ投稿する。そこまで済ませると電源を落とし、目を閉じてソファに身を沈めた。
彼女が上げたのは、ありふれた画像ではない。ハッキングでヴィアンの端末から抜いたチャットログ。
自分がその手の技術を使えることを、誰にも口にしたことはなかった。エイ登にすら、知られていない。
孤児院で過ごした十数年。安心できる場所がなくて、身を守るために、いろいろなことを覚えた。
けれど前の人生で、彼女は一度だってその手段をクレモン家の人間に向けなかった。家族なのだから、そんなものは必要ないと信じていた。
努力して、賢く振る舞って、我慢し続ければ――いつか本当に「家族」として受け入れてもらえる。そう思っていた。
今となっては、人生でいちばん愚かな仮定だったと分かる。
それでも、ログに残ったルイとヴィアンのやり取りを思い出すと、胸が冷える。
『ヴィアン 兄貴、どうしたらいいの? この出場枠がなかったら、私の努力が全部、無駄になる』
『ルイ 大丈夫だ、ヴィアン。あいつにお前のチャンスは奪わせない。俺が手を打つ。世論をエラに向けさせるんだ。「誰が出る資格があるか」じゃなくて、「あいつが嫉妬してお前に罪をなすりつけてる」にすり替える。そうすれば勝負にならない』
『ヴィアン そんなので本当にいけるの? 大事にならない?』
『ルイ 心配するな。全部俺が整える。あいつが潰れたら、デザイン画も全部お前に渡す。うちのヴィアンは、生まれつき輝く宝石なんだ』
『ヴィアン ありがとう、兄貴……でも、エラは傷つくよね』
『ルイ 傷つくかどうかなんてどうでもいい。血のつながった妹だとしても、戻ってきたのはたった一年だ。お前のほうがよほど大事だろ』
最初から彼にとって、彼女は「妹」じゃない。
好きに動かしていい資源だった。
言うことを聞けば使う。聞かなければ壊す。
エラが再び目を開くまで、ずいぶん時間がかかった。
もういい。どうでもいい。
あとは、燃え上がるのを待てばいい。
案の定、コメント欄は爆発した。
『兄として「実の妹の評判を潰す」って、正気かよ』
『評判潰して、残ったデザインをヴィアンに選ばせて発表? 手慣れすぎてて笑う。初めてじゃないだろ』
『昨日私も叩いた。今、自分を殴りたい。家族にここまで算段されて、縁を切るしかなくて、それでもネットリンチされるとか……この一年、どう生きてきたんだよ』
午前2時。
ク莱モン荘園のリビングは灯りが煌々と点いていたが、誰一人として口を開かなかった。空気だけが重い。
長い沈黙のあと、ヴィアンが嗚咽混じりに言った。
「……ねえ。あのチャット、どうして外に出たの?」
ルイの顔色は、もう「不機嫌」なんて言葉では足りない。
「知るかよ! だから最初に消せって言っただろ。どうせお前、ちゃんと消してないんだろ? じゃなきゃ漏れるわけない!」
「何それ……! 私が自分でこんなの流すわけないでしょ! 私だって被害者だよ!」ヴィアンの声が跳ね上がる。
「それに、評判潰すって言い出したのも兄貴じゃん! 私が頼んだわけじゃない!」
「ヴィアン!」ヘレンが鋭い声で遮った。
ルイがゆっくりとヴィアンを振り向く。目つきが、底なしに暗い。
「つまり最初から最後まで、俺が全部やったって言いたいのか? お前は何も取ってない、何も送ってない、何もしてない――そういうことか?」
「そんな言い方してない……」ヴィアンの声は急に小さくなり、涙がさらにこぼれる。「ただ……あのログの言葉は、兄貴が……」
「いい加減にしろ!」ロバートがテーブルを叩いた。「今さら責任の押しつけ合いをして何になる! もう公開されたんだ。全員が見てる!」
再び沈黙が落ちる。
しばらくして、マシューが口を開いた。
「必要なのは火消しだ。火種を増やすことじゃない」眼鏡を押し上げる。「兄貴、案はある?」
「あるわけねえだろ!」ルイは苛立ちのまま髪をかき乱した。
どうやって漏れたのかすら分からない。
手口はハッカーっぽい。だがエラは無一文同然で、ルイもそれは把握している。ハッカーを雇えるはずがない。
ハッカーじゃないなら、人為――。
ルイはヴィアンへ視線を投げた。自慢したくて友人に送ったとか、そんな程度のことで漏らしたんじゃないか。疑いが、どうしても消えない。
ヴィアンもルイを見ていた。――明らかに、同じことを考えている目だ。
ルイは乱暴に視線を逸らし、スマホを掴むとバルコニーへ出て電話をかけた。
午前6時。
一晩の協議の末、ク莱モン・グループの公式アカウントは、穴だらけの声明を渋々投稿した。
広報は、ほぼ詰んだ証拠を前にどうしようもなかった。結局「画像は加工だ」と言い張るしかない。
ルイが怒鳴り散らしても、それ以上の手は出ない。
朝の光の中で目を覚ましたエラはスマホを手にし、コメント欄をざっと眺めた。
失笑か、断定か。
「広報が低レベルすぎて馬鹿にしてる」
「合成の痕跡がない、完全に本物」
――誰も、信じていない。
そしてそれは、次の火種にもなる。今後もしヴィアンがエラに似た作品を出せば、その瞬間「盗作」扱いされる土壌ができたということ。
エラは満足げに唇をゆるめた。狙いどおり。
そのとき、スマホがけたたましく鳴り出した。
