第4章

助手は自分の見間違いだと思ったのか、目をこすってから、もう一度車内を覗き込んだ。

……本当だ。

夢じゃない。

胸の高鳴りを必死に押し殺し、助手は慌てて口を開く。

「こちらが……奥様で?」

神宮寺玲央は薄い唇をわずかに結び、否定する気配は欠片も見せなかった。

婚前契約書を手に取り、要点だけを簡潔に読み上げる。低く落ち着いた声――それでいて、ほんの少しだけ柔らかい。

「さっき言った内容、ちゃんと聞こえてたか」

朝比奈澪は大きく頷き、行儀よく背筋を伸ばす。

「うん。全部聞いた。異議なし!」

神宮寺玲央は澪を見た。濃い睫毛が目元を覆い、瞳の奥の複雑さは隠れてしまう。

一年後、もし自分がこの世にいなければ――名義の資産はすべて、弁護士を通して朝比奈澪へ移す。

最上級の運営チームを付け、会社も投資も、彼女が困らないように整える。

もし澪に、いつか別の想い人ができたなら……神宮寺家は彼女を縛らず、自由にする。

行く場所がないなら、この家に残ってもいい。

それが、今の自分にできる最大限の「保証」だった。

――彼女に負っている分だ。

けれど神宮寺玲央は知らない。

その契約が、朝比奈澪にとっては最初から無効同然だということを。

彼女は神宮寺玲央を死なせない。

朝比奈澪が「いい」と決めた人間が、そう簡単に死んでたまるものか。

市役所。

神宮寺玲央が来る――そう聞いた職員たちは、驚きと緊張でそわそわしていた。

神宮寺宗一郎には孫が三人。

長男の神宮寺蓮司は若くして国内屈指の医学者となり、自ら医療チームまで立ち上げた。

三男の神宮寺悠真は芸能界で名を上げ、今もっとも勢いのあるトップスター。

神宮寺家は「運がいい」だの「家の気が強い」だの、好き勝手に言われる。

だが次男――神宮寺玲央の名が出ると、誰もが決まって言葉を濁した。

美貌と、妖じみた頭脳。

それなのに、身体だけがついてこなかった。生まれつき病弱で、二十五まで生きられない――そんな噂。

さらに、陰に湿った気性で荒っぽく、逆らった者は無事では済まない、とまで。

そんなことを考えていると、外から足音が近づいてきた。

ロビーで待っていた高橋主任は、びくりと肩を跳ねさせ、慌てて前へ出る。

「玲央様。こちらへどうぞ」

そして神宮寺玲央の姿をはっきり捉えた瞬間、高橋は息を呑んだ。

想像していた「儚い病人」とは違う。

顔色は青白いのに、研ぎ澄まされた圧がある。

感情の読めない黒い瞳に見据えられた途端、背筋がぞくりと冷えた。

高橋は喉を鳴らし、恐る恐る尋ねる。

「玲央様、本日は……?」

神宮寺玲央は淡く視線を流し、戸籍を差し出した。

低く、冷えた声で。

「婚姻届だ」

職員たちは固まった。

……結婚?

本当に?

誰と?

そこでようやく、神宮寺玲央の背後に白いスカートの裾が見えた。

次の瞬間、白くて綺麗な小さな顔が、ひょい、と覗く。

朝比奈澪は周囲をきょろきょろ見回し、視線が集まっているのに気づくと、にこっと甘く笑って手を振った。

「こんにちは! 結婚しに来ました!」

職員たちは再び息を呑む。

――可愛すぎるだろ。

どこから連れてきたんだ。

そもそも成人してるのか?

高橋主任が腹を括って聞く。

「玲央様、こちらの方は……?」

神宮寺玲央は、自分の腕にしがみついて離れない澪を見下ろした。口元が、ほんのわずかに緩む。

「婚約者だ」

その言葉に、澪は腕から顔を上げ、乖離のない柔らかな笑みを見せた。

周囲の視線など眼中にない。彼女の目に映っているのは、隣の男だけ。

「ねえ、旦那さま。早く入ろ。お腹すいた!」

「……ああ」

神宮寺玲央の鋭さはすっと溶け、冷たいはずの眼差しが、驚くほど穏やかになる。

彼は澪の手を強く握り、婚姻届の窓口へ向かった。

誰も知らない。

神宮寺玲央が朝比奈澪を探し続けた年月は、十七年。

十七年前、彼は彼女に誓った。

一生面倒を見る。いちばん良いものを与える、と。

それなのに――失くした。

今度こそ、二度と同じ過ちは繰り返さない。

高橋主任は一歩前へ出て、深く頭を下げる。

「玲央様、こちらへどうぞ」

神宮寺玲央は小さく頷き、澪の手を引いて中へ入った。

市役所を出ると、朝比奈澪はずっと笑っていた。

陽の光に、小さなえくぼがふわりと浮かぶ。甘くて、無防備で、やけに眩しい。

神宮寺玲央が問う。

「そんなに嬉しいか」

「うん! 嬉しい!」

澪は隠しもしない笑顔で頷き、神宮寺玲央へ身を寄せる。潤んだ瞳をぱちぱちさせながら、男の腰にぎゅっと抱きついた。

「これで、あなたは私の!」

神宮寺玲央の背が一瞬強張る。

澪には読み取れない、暗く深い色が瞳の底で揺れた。

「……ああ。おまえのだ」

澪は首を傾げ、えくぼを覗かせる。黒い杏眼に、弾むような喜び。

「じゃあ、これからは私に優しくして」

「……うん」

「ずっとずっと、好きでいて」

「分かった」

「それから……私のことバカって言わないで! 私、賢いもん。できること、いっぱいあるんだよ。ほんとだよ!」

神宮寺玲央は眉を寄せ、何かを察したように目を細めた。それでも、静かに返す。

「……バカじゃない」

澪はほっとしたように目を細め、笑う。

けれど次の瞬間、ふと思い出したように表情が曇った。

「わ、私……好き嫌いないし、食べるの少ないし、飼いやすいよ。だから……捨てないで」

神宮寺玲央の顔が沈む。空気が冷えた。

澪は慌てて付け足す。

「ほんと、毎日ちょっとでも平気! ちょっとでいいの!」

――だから、捨てないで。

雪のように白い頬をぷくっと膨らませ、杏眼をまん丸にして見上げる。

強がっているのに、どこか怯えている。可笑しいほど「凶」なのに、殺傷力はゼロで、むしろ愛嬌しかない。

神宮寺玲央の眉間が深く寄った。瞳の奥に、陰りが走る。

「……誰に言われた。朝比奈の連中か」

澪はこくりと頷いた。

朝比奈家のことを思い出したのか、澪は頬を膨らませたまま、溜め込んでいたものを一気に吐き出す。

受けた仕打ちも、浴びせられた言葉も、全部。

そして最後に――朝比奈家と縁を切った顛末を、誇らしげに語った。

精緻で明るい顔に浮かぶのは、狡猾なくらい生き生きした笑み。

そこに悲しみも、怨みも、欠片ほどもなかった。

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