第4章
助手は自分の見間違いだと思ったのか、目をこすってから、もう一度車内を覗き込んだ。
……本当だ。
夢じゃない。
胸の高鳴りを必死に押し殺し、助手は慌てて口を開く。
「こちらが……奥様で?」
神宮寺玲央は薄い唇をわずかに結び、否定する気配は欠片も見せなかった。
婚前契約書を手に取り、要点だけを簡潔に読み上げる。低く落ち着いた声――それでいて、ほんの少しだけ柔らかい。
「さっき言った内容、ちゃんと聞こえてたか」
朝比奈澪は大きく頷き、行儀よく背筋を伸ばす。
「うん。全部聞いた。異議なし!」
神宮寺玲央は澪を見た。濃い睫毛が目元を覆い、瞳の奥の複雑さは隠れてしまう。
一年後、もし自分がこの世にいなければ――名義の資産はすべて、弁護士を通して朝比奈澪へ移す。
最上級の運営チームを付け、会社も投資も、彼女が困らないように整える。
もし澪に、いつか別の想い人ができたなら……神宮寺家は彼女を縛らず、自由にする。
行く場所がないなら、この家に残ってもいい。
それが、今の自分にできる最大限の「保証」だった。
――彼女に負っている分だ。
けれど神宮寺玲央は知らない。
その契約が、朝比奈澪にとっては最初から無効同然だということを。
彼女は神宮寺玲央を死なせない。
朝比奈澪が「いい」と決めた人間が、そう簡単に死んでたまるものか。
◇
市役所。
神宮寺玲央が来る――そう聞いた職員たちは、驚きと緊張でそわそわしていた。
神宮寺宗一郎には孫が三人。
長男の神宮寺蓮司は若くして国内屈指の医学者となり、自ら医療チームまで立ち上げた。
三男の神宮寺悠真は芸能界で名を上げ、今もっとも勢いのあるトップスター。
神宮寺家は「運がいい」だの「家の気が強い」だの、好き勝手に言われる。
だが次男――神宮寺玲央の名が出ると、誰もが決まって言葉を濁した。
美貌と、妖じみた頭脳。
それなのに、身体だけがついてこなかった。生まれつき病弱で、二十五まで生きられない――そんな噂。
さらに、陰に湿った気性で荒っぽく、逆らった者は無事では済まない、とまで。
そんなことを考えていると、外から足音が近づいてきた。
ロビーで待っていた高橋主任は、びくりと肩を跳ねさせ、慌てて前へ出る。
「玲央様。こちらへどうぞ」
そして神宮寺玲央の姿をはっきり捉えた瞬間、高橋は息を呑んだ。
想像していた「儚い病人」とは違う。
顔色は青白いのに、研ぎ澄まされた圧がある。
感情の読めない黒い瞳に見据えられた途端、背筋がぞくりと冷えた。
高橋は喉を鳴らし、恐る恐る尋ねる。
「玲央様、本日は……?」
神宮寺玲央は淡く視線を流し、戸籍を差し出した。
低く、冷えた声で。
「婚姻届だ」
職員たちは固まった。
……結婚?
本当に?
誰と?
そこでようやく、神宮寺玲央の背後に白いスカートの裾が見えた。
次の瞬間、白くて綺麗な小さな顔が、ひょい、と覗く。
朝比奈澪は周囲をきょろきょろ見回し、視線が集まっているのに気づくと、にこっと甘く笑って手を振った。
「こんにちは! 結婚しに来ました!」
職員たちは再び息を呑む。
――可愛すぎるだろ。
どこから連れてきたんだ。
そもそも成人してるのか?
高橋主任が腹を括って聞く。
「玲央様、こちらの方は……?」
神宮寺玲央は、自分の腕にしがみついて離れない澪を見下ろした。口元が、ほんのわずかに緩む。
「婚約者だ」
その言葉に、澪は腕から顔を上げ、乖離のない柔らかな笑みを見せた。
周囲の視線など眼中にない。彼女の目に映っているのは、隣の男だけ。
「ねえ、旦那さま。早く入ろ。お腹すいた!」
「……ああ」
神宮寺玲央の鋭さはすっと溶け、冷たいはずの眼差しが、驚くほど穏やかになる。
彼は澪の手を強く握り、婚姻届の窓口へ向かった。
誰も知らない。
神宮寺玲央が朝比奈澪を探し続けた年月は、十七年。
十七年前、彼は彼女に誓った。
一生面倒を見る。いちばん良いものを与える、と。
それなのに――失くした。
今度こそ、二度と同じ過ちは繰り返さない。
高橋主任は一歩前へ出て、深く頭を下げる。
「玲央様、こちらへどうぞ」
神宮寺玲央は小さく頷き、澪の手を引いて中へ入った。
◇
市役所を出ると、朝比奈澪はずっと笑っていた。
陽の光に、小さなえくぼがふわりと浮かぶ。甘くて、無防備で、やけに眩しい。
神宮寺玲央が問う。
「そんなに嬉しいか」
「うん! 嬉しい!」
澪は隠しもしない笑顔で頷き、神宮寺玲央へ身を寄せる。潤んだ瞳をぱちぱちさせながら、男の腰にぎゅっと抱きついた。
「これで、あなたは私の!」
神宮寺玲央の背が一瞬強張る。
澪には読み取れない、暗く深い色が瞳の底で揺れた。
「……ああ。おまえのだ」
澪は首を傾げ、えくぼを覗かせる。黒い杏眼に、弾むような喜び。
「じゃあ、これからは私に優しくして」
「……うん」
「ずっとずっと、好きでいて」
「分かった」
「それから……私のことバカって言わないで! 私、賢いもん。できること、いっぱいあるんだよ。ほんとだよ!」
神宮寺玲央は眉を寄せ、何かを察したように目を細めた。それでも、静かに返す。
「……バカじゃない」
澪はほっとしたように目を細め、笑う。
けれど次の瞬間、ふと思い出したように表情が曇った。
「わ、私……好き嫌いないし、食べるの少ないし、飼いやすいよ。だから……捨てないで」
神宮寺玲央の顔が沈む。空気が冷えた。
澪は慌てて付け足す。
「ほんと、毎日ちょっとでも平気! ちょっとでいいの!」
――だから、捨てないで。
雪のように白い頬をぷくっと膨らませ、杏眼をまん丸にして見上げる。
強がっているのに、どこか怯えている。可笑しいほど「凶」なのに、殺傷力はゼロで、むしろ愛嬌しかない。
神宮寺玲央の眉間が深く寄った。瞳の奥に、陰りが走る。
「……誰に言われた。朝比奈の連中か」
澪はこくりと頷いた。
朝比奈家のことを思い出したのか、澪は頬を膨らませたまま、溜め込んでいたものを一気に吐き出す。
受けた仕打ちも、浴びせられた言葉も、全部。
そして最後に――朝比奈家と縁を切った顛末を、誇らしげに語った。
精緻で明るい顔に浮かぶのは、狡猾なくらい生き生きした笑み。
そこに悲しみも、怨みも、欠片ほどもなかった。
