第5章
「師匠が言ってた。この世に、誰かがいないと生きていけない人なんていないって。へりくだって媚びて、やっと貰える親情なんて――安っぽいって」
無理やり縋りついて手に入れる家族なんて、朝比奈澪は要らない。
朝比奈家の連中は皆、澪が田舎で暮らしていたから、誰にも愛されずに育ったのだと思い込んでいる。
連れ戻されて朝比奈家の令嬢になれたことが、最高の栄誉だと。
だから感謝して、頭を下げて、必死に取り入って当然だと。
けれど彼らは知らない。
自分たちが誇りにしているものを、朝比奈澪は最初から何ひとつ価値だと思っていないことを。
ほんの短い時間のうちに、神宮寺玲央は何度も澪への認識を塗り替えられていた。
普通なら、あそこまで踏みにじられれば、徹底的にやり返すか、家族という名に縛られて歯を食いしばるか――そのどちらかだ。
だが、この小さな子は違う。
誰もが「朝比奈家なしじゃ生きられない」と決めつけているのに、本人はまるで気にしていない。
玲央は手を上げ、ぎこちなく澪のふわふわした頭をくしゃりと撫でた。そして、一語ずつ噛みしめるように言う。
「これからは、食べたいものを食え。やりたいことをやれ。遠慮はいらない」
「誰かに虐められたら言え。俺が付く」
玲央の顔色は墨を垂らしたように沈み、周囲に低く冷たい気配が滲む。
朝比奈家――。
いいだろう。覚えた。
助手席の白石宗一は、表情ひとつ変えずに座っていたが、内心では耳をそばだてて後ろの会話を拾っていた。
澪の言葉を聞いた途端、胸の奥がずしりと重くなる。
朝比奈家が見つけ出した「戻ってきたお嬢様」は、我儘で傲慢で、挙げ句に頭まで弱い――そんな噂を白石は聞いたことがある。
その時は、もったいない話だとさえ思った。
だが、朝比奈家と縁を切ると即断できる子が、頭が弱いはずがない。
結局、朝比奈家は愚かで、見る目もない。
白石は心の中でそう断じ、朝比奈家をブラックリストに放り込んだ。
やがて車は、欧風の邸宅の前で静かに止まった。
澪は窓にぺたりと張りつき、きょろきょろと外を眺める。
門をくぐれば広い花壇と大きな噴水。中央には巨大な彫像。
玄関を抜けた先のホールは、まるで宮殿のようだった。豪奢なのに、嫌味がない。
「ねえねえ、旦那さま! ここが、私たちのおうち?」
澪は小走りで玲央の隣へ行き、白石の真似をして玲央の腕に手を添えた。
見上げてくる瞳は、きらきらと眩しいほど。
否定の言葉が喉までせり上がったが、玲央は結局、観念したように小さく頷いた。
「……ああ」
澪はぱっと顔を輝かせ、玲央の手を引いて歩き出す。
「旦那さまの部屋、どこ? 見たい、見たい!」
途中で足を止め、期待でいっぱいの顔のまま、上目遣いに覗き込んでくる。
断れるはずがない。
玲央は眉間を押さえ、頭痛を堪えるように息を吐いた。そして二階の奥を指し示す。
白石は思わず目を見開いた。
二階は玲央様の私領域。掃除係以外、誰も足を踏み入れさせない場所だ。
それを、こんなにもあっさり――。
喜びがこみ上げ、今すぐ大旦那様と蓮司様に報告したくなる。
だが玲央が淡く一瞥しただけで、白石は口をつぐんだ。言葉はないのに、釘を刺された気がした。
「玲央様、足元にお気をつけください」
玲央は薄い唇を結んだまま、説明を飲み込む。
そして小さく溜息を落とした。
「……行くぞ。見たいなら見ろ」
二階。
澪はあちこち覗き込み、廊下の突き当たりでようやく玲央の寝室を見つけた。
そこは、朝比奈家で与えられていた部屋よりもさらに簡素だった。
ベッドとクローゼットとサイドテーブル。壁に掛かった絵が二枚と、ランプが一つ。
広いだけに、空虚さが際立つ。
ベッドのシーツは濃い藍色。
バルコニーもがらんとして、何もない。
澪は欄干に手を置き、外を覗き込む。
庭の花壇が見えた。厄除けの緑が一面に広がり、その一角だけ赤い薔薇。
緑に包まれた烈火の赤が、不自然に浮いている。
澪は夢中になって身を乗り出し――
次の瞬間、襟元を掴まれ、ぐいっと引き戻された。
足がもつれ、澪は反射的に目を閉じる。
けれど痛みは来ない。
代わりに、硬い胸板に受け止められた。
松木の香りに、薬の匂いが混ざる。
澪が目を開けると、すぐそこに玲央の深い瞳があった。
鳳眼が細まり、底に冷たい光が揺れる。
「死にたいのか」
低い声は硬く、わずかな怒気が滲んでいる。
澪は肩をすくめ、瓷のように白い頬に甘い笑みを咲かせた。
「大丈夫! 旦那さまが守ってくれるもん!」
その真っ直ぐな顔に、玲央の表情が一瞬だけ固まる。
怒りは半分ほど溶けた。
「白石。明日、バルコニーに柵を追加しろ」
白石はぱっと顔を明るくする。
「はい! すぐに!」
部屋を出る時、白石はそっと目元を拭った。
玲央様が自分から何かを求めることなど、ほとんどなかったのに。
それが今日は、朝比奈さんのために――。
白石が去り、部屋には二人きり。
澪は水を含んだような瞳で玲央を見つめ、嬉しさを隠そうともしない。
その無防備な好意に、冷淡なはずの玲央は居場所を失う。
「しばらくここにいろ。婚前契約にも書いてある。気が変わったなら、いつでも婚姻解消できる」
籍を入れた直後から、玲央は後悔していた。
――自分は、利己的だ。
守る方法は他にもあったのに、彼女を深みに引きずり込んだ。
「旦那さま……私のこと、好きじゃなくなったの?」
澪が見上げると、目の縁がみるみる赤くなっていく。
どうして、そんなに追い出そうとするの。
嫌いになったの?
濡れた瞳を見た瞬間、玲央の胸の奥に、理由の分からない後ろめたさが生まれた。
